加藤和彦「あの頃、マリー・ローランサン」安井かずみが描く“80年代の東京で暮らす男女”
加藤和彦の “ヨーロッパ3部作” とは?
加藤和彦のソロアルバムの代表作とされているのは『パパ・ヘミングウェイ』(1979年)、『うたかたのオペラ』(1980年)、『ベル・エキセントリック』(1981年)のいわゆる “ヨーロッパ3部作” だろう。
作家アーネスト・ヘミングウェイのロマンあふれる生き方をテーマにした『パパ・ヘミングウェイ』から始まり、ヘミングウェイの作家としての出発点ともなった1920年代のヨーロッパのカルチャームーブメントにスポットを当てた『うたかたのオペラ』、『ベル・エキセントリック』と続く連作には、加藤和彦ならではの美意識と、それぞれのテーマの世界観がリアルに描かれていた。
音そのものからリアルな空気感を伝えることにこだわり、レコーディングも『パパ・ヘミングウェイ』ではヘミングウェイが後半生を過ごしたバハマとフロリダ、『うたかたのオペラ』ではベルリン、『ベル・エキセントリック』ではパリ郊外のシャトー・スタジオで行なわれている。
リラックスした雰囲気のアルバム「あの頃、マリー・ローランサン」
加藤和彦のヨーロッパ3部作は、コンセプトアルバムの究極の形を示した80年代の名盤と言えるだろう。しかし、それだけに聴く方としても、いささか構えてしまうこともある。そんな時に僕がふっと聴きたくなるのが『あの頃、マリー・ローランサン』だ。このアルバムは、『ベル・エキセントリック』から2年の間隔をあけて1983年に発表された8枚目のソロ作で、この間に加藤和彦はワーナー・パイオニアからCBS・ソニーに移籍していた。
レコード会社が替わったせいだけではないと思うが、『あの頃、マリー・ローランサン』には、ヨーロッパ3部作とは違うリラックスした雰囲気が感じられる。アルバムタイトルのマリー・ローランサンは、20世紀前半のパリで脚光を浴びた女性画家。その点では同じ時代をテーマとするヨーロッパ3部作との共通点を感じさせる。
聴いて感じる加藤和彦のダンディズム、そして極上のセンス
けれど、このアルバムはマリー・ローランサンの生き方をテーマにしているのではなく、タイトル曲として「あの頃、マリー・ローランサン」という曲が収められているだけなのだ。しかも、歌詞の中にローランサンの絵を欲しがる彼女が出てくるというだけで、アルバムのテーマはオシャレでスノッブなライフスタイルの中に描かれる男女の機微だ。
日常の中で “ふっ” と出会う、どこかドラマチックなシーン、そんな加藤和彦のダンディズムが、この曲だけでなくアルバム全体からリアルに感じられる。だから、聴き手としても自分に身近な世界に引き寄せながら、彼が見せてくれる極上のセンスを味わえるのだ。『あの頃、マリー・ローランサン』は、ヨーロッパ3部作という大作をつくりあげた加藤和彦にとって、息抜きとは言えないかもしれないけれど、自分の身近な世界のエッセンスを拾い集めたエッセイのようなアルバムなのではないか。
以前、本人にこのアルバムについて尋ねた時には「あそこでAORをやってみたかったんだよね」と語っていた。加藤和彦作品のパートナーである安井かずみの詞も、3部作の緊張感から少し離れて、身近なシーンに大人のドラマを描いているという感じがする。
サディスティック・ミカ・バンドから次のステップに進もうとする加藤和彦
そこで思い出すのがヨーロッパ3部作の前に発表したアルバム『それから先のことは…』(1976年)と『ガーディニア』(1978年)である。この2枚のアルバムは、サディスティック・ミカ・バンドから次のステップに進もうとする加藤和彦にとって、アイドリング的意味合いのある作品だった。
安井かずみと最初の共作でもある『それから先のことは…』は、加藤和彦の言葉によれば、大きなテーマのない “私小説” だという。しかし、サウンド面では、念願だったアラバマ州のマッスル・ショールズ・サウンド・スタジオで、多くのソウルの名盤を手掛けてきたロジャー・ホーキンス(ドラムス)をはじめとするミュージシャンとレコーディングをおこなうなど、自分の音楽性のベースを確認する作品だった。そして『ガーディニア』では、ボサノヴァを主体としながら、坂本龍一、高橋幸宏など、後のヨーロッパ3部作につながるメンバーとのクリエイティブなサウンドアプローチを行っていた。
『あの頃、マリー・ローランサン』には、この2枚のアルバムに通じるものがあるような気がする。そこには『それから先のことは…』のような手探り感は無い。けれど、あのアルバムに感じられた、サディスティック・ミカ・バンドという大きな嵐を越えた “凪” にも似た感触が、このアルバムにもある気がする。それは、このアルバムがヨーロッパ3部作という大きなテーマを越えた “凪” の時期につくられているということもあって、マイルドな空気感が共通しているのかもしれない。
80年代に開花したソロアーティスト・加藤和彦
僕が『あの頃、マリー・ローランサン』にとくに惹かれるのは、アルバム全体のリラックスした肌触りを生み出しているヴォーカルと、演奏の魅力だ。
レコーディングは久しぶりに東京で行われ、ほとんどの曲が、高中正義(ギター)、矢野顕子(キーボード)、ウイリー・ウイークス(ベース)、高橋幸宏(ドラムス)、浜口茂外也(パーカッション)といったメンバーによって演奏されている。それも、全員が揃ってセッションする一発録りで録音されているという。1人でも失敗すればやり直しという緊張感をはらみながら手練れのプレイヤーたちが生み出すとびきりのグルーヴを、まさに生ものの状態で味わうことができるのだ。
加藤和彦のヴォーカルもステキだ。本人は「仮歌のつもりで歌った」と語っていたが、リキミのない歌い方がタイトなサウンドとからんで、なんとも良い味わいになっている。サウンドに緩みがないのに心地よいリラックス感が伝わる。『あの頃、マリー・ローランサン』は、そんな極上のAOR作品なのだ。
加藤和彦は、その後ソロアルバムとして『ベネツィア』(1984年)、『マルタの鷹』(1987年)、『ボレロ・カリフォルニア』(1991年)を発表するが、以降は純粋なソロアルバムを発表していない。その意味でも、加藤和彦の1980年代は、ソロアーティストとしての開花の時代だった。ヨーロッパ3部作は言うまでもなく、『あの頃、マリー・ローランサン』をはじめとする、彼が80年代に発表したアルバムたちの魅力を、改めて振り返ってみる価値は絶対にあるはずだ。
▶ Information
映画「トノバン 音楽家 加藤和彦とその時代」
2024年5月31日より全国公開
※2020年10月16日、2022年10月16日に掲載された記事をアップデート