【光る君へ】 道長の陰謀?「光少将」藤原重家が出家した理由とは
平安時代、娘たちを次々と入内させて皇室の外戚となり、権力の絶頂を極めた藤原道長。
もちろんその過程には様々な障壁が立ちはだかりましたが、ことごとくなぎ払って来たのです。
今回は、道長が野望を果たす上で邪魔だった藤原重家(しげいえ)をご紹介。
果たして彼はどのようになぎ払われたのでしょうか。
光少将と照中将
藤原重家は、貞元2年(977年)、藤原顕光の長男として誕生しました。
母親は盛子内親王(せいし。村上天皇皇女)、同母きょうだいに藤原元子(げんし/もとこ、一条天皇女御)・藤原延子(えんし/のぶこ。小一条院女御)らがいます。
美男子として知られた重家は、正暦6年(995年。長徳元年)に左近衛少将となると、光少将(ひかるしょうしょう)と呼ばれ、人々からもてはやされました。
そんな重家の親友であった源成信(なりのぶ)は、後に照中将(てるちゅうじょう)と呼ばれたそうです。
「光少将」藤原重家と「照中将」源成信。一説には、この二人が紫式部『源氏物語』の主人公・光源氏(ひかるげんじ)と、その親友にしてライバル頭中将(とうのちゅうじょう)のモデルではないかと言われています。
ちなみに源成信は、致平親王(むねひら。村上天皇皇子)の子で、藤原道長の猶子(ゆうし。相続権のない養子)となっていました。
血筋や家柄、容姿や前途にも恵まれ、王朝文化に華を添えた二人。しかしある時、その運命が大きく変わってしまったのです。
二人揃って突然の出家
長保3年(1001年)2月4日、二人が揃って出家するとは、誰が予想したでしょうか。
当時は出家すると俗世との関係を断ち切られ、半ば死んだものとして扱われました。
男性ならば出世や栄達と無縁になるし、女性ならば性的に手を出せなくなります。
『源氏物語』ではあの光源氏でさえ、出家した藤壺には手を出せませんでした。
かくして仏道に帰依するのは殊勝ではあるものの、俗世に残された者たちにしてみれば、大きな痛手となります。
特に重家は顕光の嫡男でしたから、後継者に困ってしまったでしょう。
実際に顕光は、重家の出家を嘆き悲しんでいます。
一方で成信の方は、猶子と言っても数いる息子の一人に過ぎませんから、そこまでの痛手ではありません。
ともあれ出家した二人は、園城寺の寂源(じゃくげん)に弟子入り。その余生を仏道に邁進するのでした。
二人が出家した動機は?
それにしても、洋々たる前途が待っていたのに、なぜ二人は出家してしまったのでしょうか。
貴族社会でも大きな波紋を広げた貴公子の出家については、当時から様々な憶測が飛び交ったそうです。
有名な説として「一条朝の四納言」の才能にふれ、自らの限界を感じて官途を投げうったという動機がありました。
一条朝の四納言(しなごん)とは、一条天皇に仕えた四人の納言(大納言・中納言・少納言)。その顔ぶれは藤原斉信(ただのぶ)・藤原公任(きんとう)・源俊賢(としかた)、そして藤原行成(ゆきなり)です。
彼らが政治を語り合っているのを聞いた重家が、「自分には及びもつかぬ」と絶望したのだとか。
一方の成信は、かつて道長が重病に倒れた時、病状が悪化するにつれて下人たちがこぞって道長を見捨てたことに失望したと言います。
調子のよい時は媚びへつらうくせに、一旦調子が悪くなれば手のひらを返す。出世なんて所詮その程度でしかないという虚しさを感じたのかも知れません。
また、当時は浄土思想の流行から出家遁世に憧れるムードがあり、特に若者たちは穢れた俗世を離れたがったため、二人も流行りに乗った可能性も考えられています。
ある時に、二人で豊楽院(ぶがくいん)を訪れ、その荒廃ぶりから無常観にとらわれたのだろうという説もあります。
他には、成信の親友であった藤原行成と藤原成房(なりふさ)の三人で、しばしば比叡山横川にある飯室を訪れ、出家していた藤原義懐(よしちか。成房の父で行成の叔父)と語り明かしたといいます。
藤原義懐は、かつて花山天皇の義兄弟として権勢を振るいながら、寛和の変によって失脚。世の儚さが骨身に沁みていました。
そしてとどめとばかりに皇后・藤原定子が崩御。
華やかな一時代を築いた彼女の死は、二人の無常観に拍車をかけたことでしょう。
二人の出家直前、行成が成信の出家する夢を見たことを話すと、成信は「それは正夢です」と答えました。
若いながらに色々なことが積み重なって、出家を決断させたようです。
【仮説】二人の出家は道長の陰謀?
これほどまでに諸説入り乱れた、光少将と照中将の出家。
ここからは仮説ですが、重家と成信の出家は「道長の陰謀」だったのではないでしょうか。
重家の父・藤原顕光は道長に次ぐ朝廷の重鎮。多くの公卿たちから無能だ何だと非難されながら、20年にわたり右大臣の重職に居座り続けられたのは、よくもわあも只者ではありません。
その顕光の跡取り息子である重家を出家に追いやることが出来れば、かなりの痛手を与えられます。
一方で成信は道長の猶子とは言え、所詮は数いる息子の一人。仮にいなくなったところで痛くも痒くもありません。
道長は成信の出家願望を利用して、重家を自発的な出家に追い込んだ可能性も考えられます。
そう言えば、似たような手口が「寛和の変」でも用いられていました。
寛和の変とは、花山天皇を出家させるため、藤原兼家(道長の父)が息子の藤原道兼(道長の兄)を天皇に接近させ、一緒に出家しようと唆した事件です。
父親の使った策を息子が使うことに、何の不思議があるでしょうか。
まして重家も成信も心から出家したがっていたため、道長が疑われることはありません。
もしかしたら、成信もろとも重家の出家願望を煽り立てた……そんな可能性もあり得ないとは言い切れないでしょう。
道長であれば、政敵を追い詰めるためならそのくらいはやりかねない。それでこその道長です。
あくまで仮説ながら、ありそうな気がしないこともありません。
エピローグ
ともあれ出家した重家について、その後どのように生きたのか、詳しいことは分かっていないようです。
一方で成信は長生きしており、道長が薨去した際に供奉したほか、後朱雀天皇(藤原彰子の第二皇子・敦良親王)の御代である長久年間(1040~1044年)ごろまで生きていました。
今後NHK大河ドラマ「光る君へ」に登場する機会はなさそうですが、僧侶が出てきたらその中の誰かが、かつての光少将・照中将なのかも知れませんね。
※参考文献:
山本淳子『源氏物語の時代 一条天皇と后たちのものがたり』朝日新書、2007年4月
文 / 角田晶生(つのだ あきお)
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