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【ロシア皇太子襲撃~大津事件】 日本のために自刃した畠山勇子

草の実堂

画像 : 畠山勇子 1926年刊行の『護法の神 児島惟謙』 public domain

明治24年(1891年)、ロシア皇太子ニコライが日本を訪れた際に、滋賀県大津で警護中の津田三蔵巡査により剣で襲撃され、負傷するという「大津事件」が発生した。

この事件は国内外に大きな衝撃を与え、最悪の場合「ロシアとの戦争に発展するのではないか」という不安が国中に広がった。

そのような状況下で、両国の間に亀裂が生じることを恐れ、自らの命をもって事態の収束を願った一人の女性がいた。

その女性は畠山勇子(はたけやま ゆうこ)といい、ひとりの平凡な女性であった。彼女の生涯とは一体どのようなものだったのだろうか。

畠山勇子の生い立ち

画像 : 畠山勇子 1926年刊行の『護法の神 児島惟謙』 public domain

慶応元年(1865年)12月、畠山勇子は安房(現在の千葉県南部)鴨川にて、畠山治平の長女として生まれた。

畠山家は近隣屈指の資産家で、父・治平は多岐にわたる事業を手掛け、鴨川港の基礎を築くなど、町の発展にも大きく寄与した。
しかし、勇子が9歳の時に父が病死したため、それからは母が懸命に勇子と勇子の弟を育てた。

10歳で小学校に入学した勇子は、聡明で記憶力にも優れており、学業成績は極めて優秀であった。小学校卒業後は、母の手伝いをしながら裁縫や行儀作法を身につけた。
やがて商家に嫁いだものの、周囲との折り合いがうまくいかず、23歳の時に離婚して実家に戻った。その後、再婚することなく、東京に移り女中として働く道を選んだ。

明治23年(1890年)には、日本橋の魚商に雇われ、針仕事に従事するようになった。
勇子は人付き合いが苦手で、遊ぶこともなく、芝居見物などに誘っても断るので、周囲から変わり者と見なされていたという。

大津事件発生

画像 : 事件前に訪問した長崎でのニコライ皇太子 public domain

明治24年(1891年)4月27日、ロシア皇太子ニコライは、シベリア鉄道の起工式に出席する途上、日本を訪問した。

皇太子は長崎や鹿児島周辺を巡り、5月9日には京都に到着した。そして、5月11日、この日は大津から琵琶湖を遊覧し、滋賀県庁で昼食をとった後、京都へ戻る予定であった。

しかし、京都へ戻る途中、大津で警護にあたっていた津田三蔵巡査が突然、剣を抜いて皇太子を襲撃したのであった。

皇太子は額に二箇所の刀傷を負ったが、幸いにも命に別状はなかった。

津田はその場で取り押さえられ、直ちに逮捕された。

画像 : 津田三蔵 public domain

当時、ロシアは「世界最強の国」と恐れられており、日本国内ではロシアに対する恐怖感が広がっていた。

津田が犯行に及んだ理由は、「ロシア皇太子が来日した目的は、軍事的な侵略の準備のため」と、強く信じ込んでいたためであったとされている。

襲撃を受けた皇太子は、応急手当を受けた後に京都へ戻った。

事件は直ちに電報で内閣に報告され、翌日には明治天皇が京都へ急行して皇太子を見舞い、「体調が回復したら予定通り旅行を続けてほしい」と伝えた。

しかし、この事件を知ったロシア本国からの指示により、皇太子はその後の予定を全て取りやめ、5月19日には神戸港に停泊中の軍艦に乗り込み、帰国の途についたのだった。

母国のために命を投げ出すことを決心する

画像 : ニコライ(後のニコライ2世) public domain

事件後、「外交上の問題が発生するのではないか」「最悪の場合、ロシアとの戦争が避けられないかもしれない」と、国内は大きな不安に包まれた。

その不安を反映するかのように、国民全体が謹慎の意を示すため、歌舞音曲や興行が全面的に禁止され、学校も一時休校となった。
皇太子の元に届けられた市民からの見舞状は、なんと1万通を超えたという。

平凡な魚商で働いていた勇子も、日々新聞を読み、周囲の噂を耳にする中で、事件の行方に誰よりも心を痛めていた。
彼女は両国の関係が悪化しないために何をすべきか悩み続けたが、新聞で皇太子一行が帰国することを知ると、その思いを抑えきれなくなった。

勇子は魚商を辞め、叔父・六兵衛を訪ねて相談することにした。六兵衛からは、かねてより国家を尊ぶ精神を教えられていたが、年老いた六兵衛は「一介の平民女性が国家の大事を心配したところで、どうにもなるまい」と彼女を諭した。

それでも勇子の決意は揺るがなかった。彼女は、今回の事件に対して一人の日本人として命を捧げ、償いを果たす覚悟を固めたのである。

浅草の質屋に衣類を預けて旅費を工面すると、勇子は決意を胸に京都へ向かった。

勇子の死とその後

5月20日、勇子が京都に到着した時には、既に皇太子一行は神戸港を出発していた。しかし、彼女の決意が揺らぐことはなかった。

昼間は人目につくので京都の寺々を巡りながら時間を過ごし、日が暮れると、京都府庁の門前に白い布を敷いて座り込んだ。

イメージ 草の実堂作成

そして数通の遺書を置くと、剃刀で腹部を切り、喉を突いて自殺を図った。
しかしすぐには死ぬことはできず、病院に運ばれて治療されたが、そのまま出血多量で絶命した。享年27。

彼女が残した遺書は、ロシア皇太子、日本政府、そして家族に宛てたもので、合計10通に及んだ。

勇子の壮絶な死は、遺書と共に新聞で広く報道され、ロシア官吏や日本政府、さらには国際的な同情を呼び起こした。
この出来事は、その後のロシア側の寛容な態度(武力報復・賠償請求なし)につながる一因となったという声もある。

さらに、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、彼女の行動を基に短編小説『勇子』を執筆し、日本人のサムライ精神を西洋に伝えようとした。

一方、皇太子を襲撃した津田三蔵に関しては、政府は日露関係の悪化を防ぐため、彼を死刑にしようと試みた。しかし、当時の大審院院長・児島惟謙は、日本の法律に従い津田に無期懲役の判決を下した。この判決は、政治的圧力を排除し、司法の独立を守る象徴的な出来事となり、三権分立や司法の独立の重要性が改めて議論されるきっかけとなった。

勇子の遺体は京都の末慶寺に埋葬された。その後、分骨され、故郷である千葉県鴨川の観音寺にも墓が建てられた。

昭和33年(1958年)には、勇子の父の実家から勇子の初節句を祝った雛人形が観音寺に奉納され、それ以来、毎年ひな祭りの時期にその雛人形と共に吊し雛が飾られ、勇子を偲ぶ行事が続けられている。

当初、勇子の死は「狂気の沙汰」として捉えられることもあったが、次第に人々は彼女が誰よりも国を憂う強い思いを抱いていたことを理解するようになり、その「烈女」としての姿勢に共感する者が増えていったのである。

参考 :
杉谷徳蔵 「房総女性史談」 暁印書館 1993
中江克己 「明治・大正を生きた女性 逸話事典」
第三文明社 2015
鴨川市商工会女性部歴史サークル 畠山勇子 子どもたちに伝えたい鴨川の歴史シリーズ2 2012

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