ほんとうの「自由」とは何か?──アンネ・フランクの連行された日【世界史のリテラシー:水島治郎】
オランダは、「自由の国」だったのか──アンネ・フランクの連行された日
「世界を変えた本」の一つ『アンネの日記』。
その著者である少女が求めたのは「自由」、ただそれだけでした。「自由」を求めてドイツから移り住んだ一人のユダヤ人少女が生きたその国は、本当に「自由の国」だったのでしょうか? アンネがつないだ「命のバトン」とは、いったいどんなものだったのでしょうか?
千葉大学大学院教授の水島治郎さんによる『世界史のリテラシー オランダは、「自由の国」だったのか アンネ・フランクの連行された日』では、これらの問いについて考えながら、またオードリー・ヘプバーンとの知られざる「友情」にもふれながら、オランダの近現代史を振り返ります。
今回は、著者の水島さんによる本書へのイントロダクションを公開します。
はじめに
オランダ・アムステルダムの市中心部のやや東寄りに、歴史と風格を備えた壮麗な建物があります。一六七〇年代半ばに建設されたユダヤ教の礼拝堂、ポルトガル系シナゴーグです。ユダヤ人の信仰の中心の場として三百五十年に及ぶ歳月と迫害を耐え抜き、今もアムステルダムの地に堂々と根を下ろしています。
このシナゴーグは、「自由の国」オランダを象徴する存在ともいえるでしょう。そもそも十七世紀、ヨーロッパの他のほとんどの国でユダヤ人は、迫害されたり、ゲットーに押し込められるなど、さまざまな苦難を味わっていました。故国を離れることを強いられたユダヤ人も多数いたのです。しかしオランダ、特にアムステルダムでは、一定の制約があったものの、基本的にユダヤ人は宗教活動を実践することが認められ、住まいや職業もある程度自由に選ぶことができました。それどころか、貿易に従事する者の多いユダヤ人のなかには、国際商業都市アムステルダムの経済の一翼を担う者もいました。その意味でこのシナゴーグは、当地でユダヤ人が享受した幅広い自由、彼らの社会経済的な存在感を、歴史を超えて現代に伝える貴重な建物といえましょう。「自由の国」オランダならではの風景です。
さて一九三〇年代はじめ、その「自由の国」オランダに、まさに「自由」を求めてドイツから移り住んだ、一人のユダヤ人少女がいました。アンネ・フランクです。
一九三三年にヒトラーが政権を握ってからというもの、ドイツのユダヤ人迫害は激しさを増し、国外脱出が続きます。そして一九三三年から三四年はじめにかけて、アンネの一家は相次いで故国ドイツを離れ、アムステルダムに移住しました。父オットーがアムステルダムを避難先に選んだのは、すでに自身が一九二〇年代、同地で金融業に従事した経験をもち、人脈や土地勘が十分あったことが大きかったようです。
しかし歴史を振り返れば、実は故国の迫害を逃れてアムステルダムに移り、当地を拠点にビジネスを展開し、家族で定住して都市社会の一員となっていったフランク一家のありようは、今を去ること四百年以上前、迫害強まるイベリア半島を逃れ、やはりアムステルダムに流入し、そのまま根を張ったユダヤ人たちの姿と重なります。
十六世紀末、イベリア半島ではユダヤ人が窮地に追い込まれていました。もともとユダヤ人はスペインに多く居住していたのですが、十六世紀に迫害が強まったため、その多くが隣国のポルトガルに移り、また名目的にカトリックに改宗していました。しかしポルトガルが一五八〇年、スペインに併合されると、「新キリスト教徒」と呼ばれたユダヤ人への迫害はいっそう強まったため、彼らの多くがイベリア半島を捨てて脱出しました。そのユダヤ人たちが相次いで目指したのが、オランダ、とくにアムステルダムだったのです。
なぜアムステルダムが選ばれたのか。その重要な理由の一つが、この都市が国際貿易に従事する外国商人たちを積極的に受け入れ、彼らの経済活動に十分な場を提供していたことです。国際商業ネットワークをもつポルトガル系ユダヤ人たちは、貿易拠点として発展しつつあったアムステルダムに定住し、大西洋をまたにかけた国際貿易を展開していくことができました。
しかしそのような経済的自由と並び、オランダがヨーロッパのなかで、限界はありつつも思想的・宗教的な自由が最も保障された国の一つだったことも、魅力的でした。
オランダに、なぜそのような「自由」があったのでしょうか。
もともとオランダには、「圧政への抵抗」を背景として独立した国という面があり、そのことが他の国にない、独自の特徴をこの国に与えました。
現在のオランダ・ベルギーに当たる地域、いわゆる低地地方(低地諸州)は十六世紀、ハプスブルク・スペインの支配下にありました。この地域では中世以来、一定の自治が確保されていたのですが、十六世紀後半、宗教改革がヨーロッパ各地で浸透するなか、カトリックに固く立つスペイン、とりわけフェリペ二世による厳しい異端審問や一方的な課税強化など、地域の伝統を踏みにじる専横的な統治が始まります。その結果、低地地方の人々から反発が高まり、一五六八年以降、スペインとの本格的な軍事衝突が続きます。最終的に一六四八年に終結した「八十年戦争」を経て、スペイン支配を脱した低地地方の北部地域が、オランダとして独立するに至ったのです。
その結果、新しく成立したオランダ連邦共和国は、国王を持たない「共和制」となりました。しかも抑圧的な常備軍・官僚制を中央政府が持つことのないよう、分権的な政治制度が採用されました。国王権力を退け、貴族層も手薄となったこの国では、政治経済の中核を担ったのは都市の商工業者層でした。貿易をはじめ自由なビジネス活動を重視する彼らの優位のもと、アムステルダムなど諸都市の経済は花開き、国内外から商人や労働者が都市に流れ込み、オランダはヨーロッパでもっとも都市化された国の一つとなったのです。
集権的な国王権力や官僚機構、それと密接につながる教会権力などが不在だったことから、オランダでは国家権力が特定の宗教的・民族的マイノリティを弾圧したり、思想信条を理由として迫害を加えることは、あまり生じませんでした。一五七九年、スペインに抵抗する北部諸州などの代表が主要都市、ユトレヒトに結集して締結したユトレヒト同盟規約には「良心の自由」が掲げられ、「何人も宗教を理由に訴追されたり審問されたりしない」と明示されました。これを近代的な良心の自由、信教の自由と同一視することはできないものの、ユトレヒト同盟規約は以後二百年にわたり、オランダ共和国の憲法にあたる基本法として位置づけられました。
特に宗教について見ると、独立戦争の過程で勢力を増し、カトリック教会への優位を確立したカルヴァン派教会(改革派教会)が、共和国では「公的教会」と位置づけられたものの、国教会制度は採用されませんでした。他宗派・他宗教の信徒がカルヴァン派への改宗を大規模に強制されることもありませんでした。国内にはルター派、メンノー派、カトリック、ユダヤ教徒などが存在し、黙認されたのです。
特に興味深いのが、アムステルダム中心部に近い「主の屋根裏教会」です。運河沿いにあり、十七世紀の建築物を活用したこの教会は、一見するとアムステルダムの大商人の普通の邸宅にみえますが、実は十七世紀半ば過ぎより、アムステルダムのカトリック信徒の心の拠り所、一種の隠れ家教会として、重要な役割を果たしてきました。上階には、壮麗な祭壇のあるカトリック礼拝堂があり、「屋根裏」という言葉から想像するよりも広い空間です。
思想的にも、一定の自由がありました。近代政治思想史で名高いジョン・ロックはイギリスで迫害されたさい、オランダに脱して亡命生活を送りました。フランスの哲学者デカルトもオランダに長期にわたって滞在し、『方法序説』(一六三七年)を執筆・刊行したのもオランダでした。オランダ共和国という空間は、「異端」の思想家たちの「隠れ家」的な空間、いわば「アジール」として機能したといえるでしょう。もしオランダが独立した国として存在しなかったら、ヨーロッパの精神史も大きく変わってしまったのではないでしょうか。
十七世紀初頭にオランダにたどり着いたユダヤ人が見出したのは、まさにそのような独特の「自由」の存在する空間でした。彼らはオランダに住み着き、商売を再開し、次第にユダヤ教信仰を取り戻します。
とはいえ、ユダヤ人が平等な市民として認められた、というわけではありません。ユダヤ人とキリスト教徒との通婚は禁止されていました。ギルドへの加入も認められなかったため、ユダヤ人はギルドによる規制のない職業に就くことになりました。小売業や貿易業、金融業に携わるユダヤ人が多かったのは、その結果です。
しかし全体として見れば、オランダのユダヤ人は多くの自由を享受していました。大学入学の道が開かれ、医師として開業もできました。独自の墓地も認められました。富裕層の多いポルトガル系ユダヤ人商人たちは、アムステルダム経済の中核を担いました。冒頭に紹介した壮麗なシナゴーグの落成式には、市長や市参事会員たちがこぞって参列したのです。
こうして十七世紀も、そして二十世紀の前半期も、アムステルダムは変わらずユダヤ人に「開かれた」都市でした。制約はありつつも、ビジネスを展開し、宗教活動を実践し、表立った迫害をうけることはほとんどなく、都市社会の一員として市民生活を営むことができたのです。
しかし、十七世紀にオランダに難民として逃げ込んだユダヤ人たちの多くが、この地に安住の地を見つけることができたのに対し、二十世紀に生まれたアンネたちはオランダに脱出し、八年ほどアムステルダムの広場沿いの町で暮らしたものの、ドイツ占領下で隠れ家生活を余儀なくされ、ついに密告によって潜伏が露見し、連行されます。隠れ家に潜んだ八名のうちオランダに帰還できたのは、父オットーただ一人でした。
果たしてオランダは、「自由の国」だったのでしょうか。
この本では、「アンネ・フランクの連行された日」という現代史上に残る重要な瞬間の一つを起点にしながら、「自由の国・オランダ」の歴史と現代を振り返り、その光と影を見つめ直してみたいと思います。
『世界史のリテラシー オランダは、「自由の国」だったのか──アンネ・フランクの連行された日』では、・アンネ・フランク一家は、なぜオランダで捕まったのか
・ドイツ占領下のオランダで、ユダヤ人はいかに追い詰められたのか
・アンネとつながった“ほんとうの”友だち
・オランダは今も「自由の国・寛容の国」なのか
という4章構成で、オランダの近現代史を振り返り、アンネが現代につないだ「命のバトン」について考えていきます。
著者
水島治郎(みずしま・じろう)
1967年、東京都生まれ。千葉大学大学院社会科学研究院教授。東京大学教養学部卒業、同大学大学院法学政治学研究科博士課程修了。博士(法学)。甲南大学法学部助教授などを経て、現職。専攻はオランダ政治史、ヨーロッパ政治史、比較政治。著書に『反転する福祉国家─オランダモデルの光と影』『ポピュリズムとは何か─民主主義の敵か、改革の希望か』『隠れ家と広場─移民都市アムステルダムのユダヤ人』など、編著に『ポピュリズムという挑戦─岐路に立つ現代デモクラシー』『アウトサイダー・ポリティクス─ポピュリズム時代の民主主義』、訳書に『アンネ・フランクはひとりじゃなかった─アムステルダムの小さな広場1933-1945』など。
※刊行時の情報です。
■『世界史のリテラシー オランダは、「自由の国」だったのか ~アンネ・フランクの連行された日』より抜粋
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