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天才の習作ノート――スケッチブックから読み解く美術の思考法

イロハニアート

Michelangelo Buonarroti - Studies for a Holy Family - Google Art Project

美術館で完成された名画を前にしたとき、私たちはその作品がどのように生まれたのか、作家がどんな試行錯誤を重ねたのかを想像することがあります。 実は、そうした創作の裏側を知る鍵となるのが、作家たちが残したスケッチブックや習作ノートです。これらは単なる下書きではなく、作家の思考プロセスそのものが刻まれた貴重な記録なんです。

Michelangelo Buonarroti - Studies for a Holy Family - Google Art Project

, Public domain, via Wikimedia Commons.

完成作品だけを見ていては気づかない、創造の瞬間における迷いや発見、そして知的な探求の痕跡が、ページをめくるたびに立ち現れてきます。

今回は、Leonardo da Vinci(レオナルド・ダ・ヴィンチ、1452-1519)やMichelangelo Buonarroti(ミケランジェロ・ブオナローティ、1475-1564)、そして近代の日本人画家Tsuguharu Foujita(藤田嗣治、1886-1968)といった巨匠たちのスケッチブックを通して、美術における「思考の軌跡」の魅力を探っていきます。

スケッチブックが語る創造の現場


Saint Luke drawing the Virgin RvdW Detail

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美術史において、スケッチや習作は長い間、完成作品の影に隠れた存在でした。しかし20世紀以降、研究者たちはこれらの資料に新たな価値を見出すようになります。

なぜなら、スケッチブックには作家の生の思考が記録されているからです。消された線、重ねて描かれた修正、余白に書き込まれたメモ――これらすべてが、作家がどのように問題を解決し、アイデアを形にしていったかを物語っています。

Victoria and Albert Museum(ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館)の研究によれば、スケッチブックは作家にとって「視覚的な思考の実験室」として機能していたといいます。ここで重要なのは、これらが単なる技術的な練習ではなく、概念的な探求の場でもあったという点です。作家たちはスケッチを通して、構図や光の効果を試すだけでなく、作品が伝えるべきメッセージや感情の表現方法についても考えを巡らせていました。

特に興味深いのは、多くの巨匠たちがスケッチブックを常に携帯し、日常的に観察したものを記録していた点です。これは現代でいえば、写真家がカメラを常に持ち歩くようなものでしょう。The British Museum(大英博物館)のコレクションには、こうした観察スケッチが数多く保存されており、作家たちの好奇心と観察眼の鋭さを今に伝えています。

ダ・ヴィンチのノート――芸術と科学の交差点


Madonna and Child with a Bowl of Fruit

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レオナルド・ダ・ヴィンチのノートは、おそらく美術史上最も有名なスケッチブックでしょう。現在、世界各地の美術館や図書館に分散して保管されている約7,200ページにわたるこれらのノートには、絵画のスケッチだけでなく、解剖学、工学、光学、水力学など、驚くほど多岐にわたる分野の研究が記されています。レオナルドにとって、スケッチは単に絵を描くための準備ではなく、世界を理解するための手段だったのです。

Royal Collection Trust(ロイヤル・コレクション・トラスト)が所蔵するレオナルドのノートを見ると、彼の思考の特徴がよく分かります。たとえば、人体の筋肉や骨格を描いたページでは、複数の角度から同じ部位を観察し、その構造を理解しようとする姿勢が見て取れます。

これは単なる芸術的関心ではなく、「なぜそのように見えるのか」という科学的な問いに基づいた探求でした。この姿勢は、彼の代表作《Mona Lisa》(モナ・リザ、1503-1519)における人体表現の精密さにも反映されています。

興味深いことに、レオナルドは鏡文字で記述する習慣がありました。これは左利きだった彼が、インクで手を汚さないための実用的な選択だったとする説もありますが、Martin Kemp(マーティン・ケンプ)というレオナルド研究の第一人者は、これが彼の思考の独自性を象徴するものだと指摘しています。

レオナルドのノートは、テキストとイメージが密接に結びついた独特の記録方法を示しており、彼が視覚的思考と言語的思考を同時に駆使していたことが分かります。

さらに注目すべきは、レオナルドが多くのプロジェクトを未完のまま残していることです。研究者によれば、これは彼が完成よりも探求のプロセス自体に価値を見出していたためだと考えられています。

実際、彼のノートには同じテーマが繰り返し登場し、少しずつ異なるアプローチで描かれています。この反復的な探求スタイルは、現代の研究開発における「プロトタイピング」に似ており、レオナルドが真の意味での開拓者だったことを示しています。

ミケランジェロの習作――完璧を求める執念


Michelangelo - Study of an Ignudo -Teylers Museum

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一方、ミケランジェロのスケッチからは、レオナルドとはまた異なる創作姿勢が見えてきます。ミケランジェロは生前、自分のスケッチの多くを焼却したと言われています。完成作品のみを後世に残そうとしたこの行為は、彼の完璧主義を象徴していますが、それでも現存する数百点のスケッチから、彼の制作過程を垣間見ることができます。

Casa Buonarroti(カーサ・ブオナローティ)に保管されているミケランジェロの習作を見ると、彼が一つのポーズや構図に対して何度も線を引き直し、理想的な形を追求していた様子が分かります。特に人体表現において、筋肉の張りや体重の配分、動きの流れといった要素を、執拗なまでに探求していました。

《David》(ダヴィデ、1501-1504)や《Pietà》(ピエタ、1498-1499)といった彫刻作品の完璧な人体表現は、こうした膨大なスケッチの積み重ねがあってこそ実現したものです。

The British Museum所蔵のミケランジェロのスケッチには、システィーナ礼拝堂の天井画のための習作が含まれています。これらを見ると、彼が個々の人物像を描く前に、全体の構図バランスを何度も検討していたことが分かります。興味深いのは、ミケランジェロが裸体で人物を描いた後に、衣服を加えていくという手法を取っていた点です。これは人体の構造を正確に把握した上で、布の流れや襞を自然に表現するための方法論でした。

また、ミケランジェロのスケッチには、助手への指示と思われる書き込みも残されています。これは彼が大規模なプロジェクトを進める際に、自分の構想を他者に伝達する必要があったことを示しています。完成作品だけを見ると、ミケランジェロは孤高の天才として映りますが、スケッチを通して見ると、実際には多くの協力者とともに作品を作り上げていた実務的な側面も見えてくるのです。

藤田嗣治のスケッチブック――東西の架け橋


20世紀に入ると、スケッチブックの役割はさらに多様化します。特に興味深いのが、パリで活躍した日本人画家、藤田嗣治のケースです。藤田は「乳白色の肌」と呼ばれる独特の技法で知られていますが、彼のスケッチブックからは、その技法がどのように開発されたかが読み取れます。

東京国立近代美術館が所蔵する藤田の習作を見ると、彼が日本画の線描技法と西洋の油彩技術を融合させるために、様々な実験を重ねていたことが分かります。特に注目すべきは、藤田が墨と筆を使った素早いスケッチを数多く残していることです。

これらは日本の浮世絵や水墨画の伝統を受け継いだものですが、同時にパリで流行していたArt Deco(アール・デコ)様式の影響も見て取れます。

藤田のスケッチブックには、猫や子供といった彼の得意なモチーフが繰り返し登場します。《Five Nudes》(五人の裸婦、1923)のような代表作を生み出す前に、彼は同じポーズや構図を何度も描き、最も効果的な表現方法を模索していました。

Musée d'Art Moderne de Paris(パリ市立近代美術館)の研究によれば、藤田は特に線の太さや濃淡による表現効果について、執拗なまでに研究していたといいます。

興味深いのは、藤田が第二次世界大戦中に戦争画を描いた時期のスケッチです。これらには、作家としての苦悩や時代の重圧が感じられます。戦後、藤田はフランスに戻り、宗教画の制作に注力しますが、この転換期のスケッチには、新たな表現を模索する試行錯誤の跡が残されています。

完成作品だけを見ると、藤田の作風は一貫しているように見えますが、スケッチを通して見ると、実は常に変化と挑戦を続けていた作家だったことが分かります。

現代における習作の価値


Drawing, pointing left hand and wrist, ca. 1890 (CH 18404489)

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現代美術において、スケッチや習作の位置づけは大きく変化しています。多くの現代作家にとって、プロセス自体が作品の一部となっており、「完成作」と「習作」の境界は曖昧になってきています。

たとえば、Gerhard Richter(ゲルハルト・リヒター、1932-)は、自身のスタジオでの制作過程を写真で記録し、それらも作品の一部として展示しています。これは、創作における思考のプロセスそのものが、鑑賞者にとって重要な意味を持つという認識の表れです。

デジタル技術の発達も、習作の概念を変えつつあります。現代の作家の多くは、タブレットやコンピュータを使ってスケッチを描いており、レイヤー機能により、思考の過程をより詳細に記録することが可能になっています。The Museum of Modern Art(ニューヨーク近代美術館、MoMA)では、こうしたデジタルスケッチをどのように保存し、展示するかという新たな課題に取り組んでいます。

しかし、デジタル化が進む一方で、手描きのスケッチブックの価値も再評価されています。Tate Modern(テート・モダン)が2019年に開催した展覧会「Artists' Sketchbooks」では、David Hockney(デヴィッド・ホックニー、1937-)やPaula Rego(ポーラ・レゴ、1935-2022)など、現代作家たちのスケッチブックが展示され、大きな反響を呼びました。

物理的なページに残された鉛筆の跡や、絵の具の染み、折れたページといった物質性が、作家の存在をより身近に感じさせるからです。

思考の軌跡がもつ普遍的な魅力


レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、藤田嗣治といった時代も地域も異なる作家たちのスケッチブックに共通しているのは、創造という行為が決して一直線ではないということです。彼らのノートには、成功した試みだけでなく、失敗や迷いも記録されています。そして、まさにその「完璧ではない部分」こそが、私たちに深い共感を呼び起こすのです。

完成された名画は、ときに「近づきがたい完璧さ」を持っています。しかしスケッチや習作を見ると、その作品が無数の選択と決断の積み重ねによって生まれたものだと分かります。消された線は、作家が別の可能性を考えていたことを示し、余白のメモは、制作中の思考を垣間見させてくれます。

National Gallery(ナショナル・ギャラリー)の保存修復部門の研究によれば、多くの名画には、X線調査で確認できる下層の変更や修正があり、作家が最後の瞬間まで構図や色彩を調整していたことが分かっています。

こうした「思考の軌跡」を見ることで、私たちは芸術作品を新たな視点から理解できるようになります。完成作品だけを見ていると、天才たちはいとも簡単に傑作を生み出したように思えますが、スケッチブックを通して見ると、彼らもまた試行錯誤を重ね、時には行き詰まりながら、少しずつ理想の形に近づいていったことが分かります。

この事実は、創造という営みが、特別な才能を持つ一部の人間だけのものではなく、誰もが参加できる人間的な活動であることを教えてくれますね。

また、スケッチブックは作家の個性をより鮮明に浮かび上がらせます。レオナルドの好奇心旺盛で学際的なアプローチ、ミケランジェロの完璧主義と執念、藤田嗣治の文化的背景を融合させる実験精神――これらは完成作品からも読み取れますが、スケッチを見ることで、より直接的に、より人間的な形で理解できるようになります。

おわりに


スケッチブックや習作ノートは、単なる完成作品への準備段階ではありません。それらは作家の思考プロセスそのものであり、創造という行為の本質を伝える貴重な記録です。レオナルドの科学的探求心、ミケランジェロの完璧への執念、藤田嗣治の文化的融合の試み――これらはすべて、彼らが残したスケッチを通してより深く理解することができます。

現代において、アートはますます完成作品だけでなく、そこに至るプロセス全体を含むものとして捉えられるようになっています。この変化は、創造性に対する私たちの理解を深め、芸術をより身近なものにしてくれます。次に美術館で名画を見るときには、その背後にある無数のスケッチや習作に思いを馳せてみてください。そこには、天才たちの人間的な側面と、創造という行為の普遍的な魅力が隠されているはずです。

参考文献・情報源


Victoria and Albert Museum - "Leonardo da Vinci's notebooks" https://www.vam.ac.uk/articles/leonardo-da-vincis-notebooks

National Geographic - "The window into Leonardo da Vinci's creativity? His sketchbooks" https://www.nationalgeographic.com/premium/article/leonardo-davinci-notebooks-diaries-renaissance-man

Scala Archives - "Leonardo da Vinci's notebooks: not only technology" https://scalarchives.com/leonardo-da-vincis-notebooks-not-only-technology/

The History Blog - "Casa Buonarroti digitizes Michelangelo's drawings" https://www.thehistoryblog.com/archives/70093

Fine Arts Museums of San Francisco - "Minimal Michelangelo: The Journey of a Sketch" https://www.famsf.org/stories/minimal-michelangelo-journey-sketch

Frist Art Museum - "Michelangelo: Sacred and Profane, Masterpiece Drawings from the Casa Buonarroti" https://fristartmuseum.org/exhibition/michelangelo-sacred-and-profane-masterpiece-drawings-from-the-casa-buonarroti/

Discuss Japan - “A painter with two home countries, Foujita Tsuguharu”
https://www.japanpolicyforum.jp/culture/pt201907041806328917.html

Etchr Lab - "Exploring Artists Through Their Sketchbooks" (2020年6月) https://etchrlab.com/blogs/news/exploring-sketchbooks

My Modern Met - "Tate Modern's Digital Archives Reveal Excerpts from Famous Artists' Personal Sketchbooks" https://mymodernmet.com/tate-modern-digital-archives/

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