中央本線の線路付け替え区間を陸路と空撮写真で追う【後編】信濃境〜富士見間・立場川橋梁の雄姿に見とれる
前回は中央本線の線路付け替え区間を中心に、信濃境〜富士見間を空から観察しました。後編の今回は、同区間の旧線へ近寄って観察します。撮影は特記以外2024年6月11日です。なお立場川橋梁は現在線の名称にもなっており、旧線の立場川橋梁と混同しないためにも、このレポでは“旧橋梁”とします。旧橋梁には信濃境駅寄りに乙事トンネルと姥沢トンネル、富士見駅寄りに瀬沢トンネルが残存しています。それらの遺構も訪れましょう。と、その前に、富士見町役場へ旧線の情報を聞きに行きました。旧線の敷地や施設は、1980年に国鉄から富士見町へ移管されたので、どこまで見学できるか確認します。旧橋梁は道路からは見学可能で、橋梁に続く築堤は立入禁止になっているとのこと。架線柱倒壊のおそれや土砂崩れなど、不測の事態が懸念されているからだそうです。
掘割に生える木々の合間から架線柱が顔をのぞかせている
富士見駅からスタートします。現在線と旧線の離合箇所は県道198号のすぐ近くにあり、堀割となっています。富士見町は北側の八ヶ岳へと斜面になっており、中央本線は傾斜のある地面を横断するため堀割になっているのです。離合箇所も堀割が二手に分かれており、廃止後40年以上を経過した旧線の堀割は、すっかり緑の中へ没していました。
木々に覆われ、一見して鉄道の走った跡とは思えない緑の塊。
それがかえって「何かある……」と、におうんです。
枝葉の合間から架線柱がチラッと見えたときは「やっぱりここだった!」と、心躍りそうになりました。架線柱はまだ残されていたのですね。よく、廃線となった途端に引っこ抜かれてしまうパターンが多いのですが、廃止時の状態のまま、ビーム(架線を吊る横木)の鉄が赤錆びて残っています。時が止まっている……。
堀割の旧線はすぐにプツッと途切れ、地面に吸い込まれています。木々が成長して分かりづらいですが、瀬澤トンネルがあるのです。
いきなり痕跡が消えるのも不思議な気分ですが、この地面の起伏は、堀割とトンネルにしないと克服できなかったのでしょう。
ふと耳を澄ますと、堀割の底からサーっと小川の音が聞こえてきます。
役場でついでに聞いた話では、瀬澤トンネルはこの一帯の地下水などの排水にも使用しているようで、それで水の流れる音が聞こえたのでした。なるほど、地形図にも水路のマークが記されています。旧トンネルはまだ活用されているのですね。
いよいよ近づく「ボルチモアトラス」
いよいよ、本日のメイン。旧橋梁へ向かいます。県道198号を東へ進むとスリバチ状の起伏で、底部に立場川が流れています。いかにも浸食崖のような、八ヶ岳の活動によってできた大地の皺のような、高低差が50mほどある谷です。
その谷の地形を北側から遠望すると、集落の家々と立場川に沿った田んぼの向こうに、高い築堤が築かれた旧橋梁の勇姿が見えました。
列車の車窓から見えたように、架線柱がしっかりと立っていて、朽ちている感じはしません。いますぐにでも列車がやってきそうな雰囲気が漂います。
それにしても高い築堤です。遠目から見ても20mはありそうな高さです。その高さの路盤が、富士見駅付近では堀割になっていたのですよね。
起伏ある地形をいかに克服しながら線路を敷いたのか、しかも明治時代に。
1900年代初頭、この谷に架橋されたのは、アメリカから輸入されたアメリカンブリッジ社製200フィートの単線上路プラットトラスでした。
トラス橋は鉄骨を三角形構造で構成する橋です。上路とはトラスの上部に線路があり、プラットトラスとは部材の組み合わせのひとつで、斜材の鉄骨を支点(端部)から中央部へV字に配置したものです。さらに、斜材と垂直材のほかの部材を追加した「分格トラス」で、横から見ると小さな三角形がいくつもできています。
「ボルチモアトラス」とは、トラス橋を構成する上側の梁「上弦材」と下側の「下弦材」が平行のタイプ。長くなる部材を短くして組み合わせて強度を保ち、軽量化も計ったトラス橋でした。
ボルチモアトラスはこの旧橋梁を含め、全国に5カ所しか存在しません。貴重なひとつなのです。
「ボルチモアトラス」のピン結合にうなる
立場川沿いの小道を歩きながら、旧橋梁へ近づきます。
近づくにつれてボルチモアトラスの姿が青々とした木々からシュッと現れ、背景の空に浮いているかのよう。逆光に映え、分格トラスの構造が影絵となって、空にはっきりと描かれています。
この位置からトラスの全景は見えませんが、真下から仰ぎ見ると垂直材や上弦材と比較して、下弦材と斜材が華奢な鉄骨で組まれているのが目に止まりました。やけに細いので、重量物の鉄道車両を支えられるのか不安になるほどです。いや、支えられる強度だったから、廃止となった今日でも架かっていられるのでしょう。
そしてこの旧橋梁の特徴は、部材の結合部がピン結合なのです。1800年代後半から1900年代初めの橋梁に用いられた結合方法で、部材同士を結合する部分がリベットや溶接ではなく、太いピンが使用されているのです。
イギリスの橋梁では太い部材同士を結合したのに対し、アメリカの橋梁はアイバー(Eye Bar)という、端部が目玉状の形をしたプレートの部材を用いてピン結合しました。旧橋梁を見上げると、下弦材と斜材が二重のアイバーで組まれているのが分かり、それで橋梁全体が華奢に見えたのでした。
ただし、アイバーは剛性が小さくて列車の振動が伝わりやすく、ピン部分の弛緩や摩耗に悩まされたとのことです。竣工して50年前後経過するとアイバーの鋼材が破断することもあり、ガチッとしていた斜材や垂直材の構成にも緩みが生じてしまいます。
現役のボルチモアトラスは秩父鉄道やJR磐越西線にありますが、その保守管理の大変さは容易に想像がつきます。
旧橋梁のピン結合はガッシリしているのか、見た目では分かりません。もう列車が来ることがないのだから、トラスの自重でキープしているのでしょう。
アイバーで組まれた鉄骨美にしばし見とれながらも、これはいつまで持つのだろうかと、一抹の不安も過ってしまいます。その不安を打ち消すかのように、立場川橋梁を特急「あずさ」が駆け抜けて行きました。
「なにこれ……」物件、乙事トンネル
道路から見上げる赤錆びた橋梁は、石積みの橋脚にしっかりと鎮座し、後年の電化で増設された架線柱は橋脚にアンカーを打って、トラスを抱え込むように両脇で支えながら立っています。
レールと架線があれば、特急「あずさ」が颯爽と駆け抜けていきそうな雰囲気すらあります。近くで見上げても、現役のときの空気感を色濃く残しているなと感じました。
さて、いつまでもボルチモアトラスに見入っているわけにはいきません。でも、いつまでも見ていたい。それほど旧橋梁は美しい姿を保っています。高い築堤には上がれませんが、チラッと顔をのぞかせる架線柱の姿も、ポツンとあってどこか可愛らしく見えてきます。後ろ髪引かれる思いでこの場を離れ、信濃境駅寄りの2カ所のトンネルを見に行きます。
「このトンネルが中央線のものだよ」
富士見町民広場の運動場脇で、散歩中のおじさんが教えてくれました。
運動場の脇は変哲もない山の斜面なのですが、唐突に石積みの乙事トンネルが現れるのです。坑門はコンクリートで蓋をされ、手前には1/3ほど地面が盛られているせいか、トンネルが山の斜面に埋もれかけています。手前には架線柱の痕跡である2本のコンクリート柱が残り、運動場の脇にただずんでいる姿はちょっと異様です。
廃止後に運動場が整備されたので、このような光景になったのですが、いきなり現れるからびっくりします。その延長線上にはバックネット越しに、もうひとつのトンネル、姥沢トンネルが見えます。同じく坑口がコンクリートで埋まり、こちらもバックネット裏だから余計不思議な光景に見えてしまいます。
姥沢トンネルの先は旧橋梁へと続いており、乙事トンネルの信濃境側は、前回の空撮写真を見てもらうと分かりますが、富士見町へ移管されたあと農業排水処理場が建設され、堀割とトンネル坑門は塞がれています。
ときに先日、この旧橋梁を解体する旨の報道がありました。まだこれから決まっていく段階の話になるため、現段階で具体的になっているわけではありません。が、重要な土木遺産として保存するにしろ、老朽化による崩落防止のために解体するにしろ、どちらも莫大な金額が必要で、富士見町としても悩ましい問題となっています。
ただ、しばらくはこの姿のままで残されているとも言えます。立入禁止の箇所があって、全て自由に触れられるわけではありませんが、ボルチモアトラスの雄姿をこの目で焼き付けることはできます。
この橋梁は映画に出演したこともあって、鉄道ファン、廃線ファン以外の方々も訪れているのだとか。
周囲にあるのは田畑と細い生活道路なので、農作業や生活への配慮をしながら見学しましょう。
<2009年3月12日のボルチモアトラス>
取材・文・撮影=吉永陽一
吉永陽一
写真家・フォトグラファー
鉄道の空撮「空鉄(そらてつ)」を日々発表しているが、実は学生時代から廃墟や廃線跡などの「廃もの」を愛し、廃墟が最大級の人生の癒やしである。廃鉱の大判写真を寝床の傍らに飾り、廃墟で寝起きする疑似体験を20数年間行なっている。部屋に荷物が多すぎ、だんだんと部屋が廃墟になりつつあり、居心地が良い。