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ランチアに接近遭遇した日:伊東和彦の写真帳_私的クルマ書き残し:#15

PARCFERME

輸入車販売会社から雑誌記者に身を転じ、ヒストリックカー専門誌の編集長に就任、自動車史研究の第一人者であり続ける著者が、“引き出し“の奥に秘蔵してきた「クルマ好き人生」の有り様を、PF読者に明かしてくれる連載。

私は横浜市内の中心部にある某私立中学校・高校に通っていた。あまり風紀がよいとはいえない、おとなの歓楽街で有名な最寄り駅周辺ではあったが、丘の上に聳え立つ歴史的建造物の塔が学校のシンボル的な存在で、そこだけ別世界のようでもあった。

残念ながら、その塔は歴史的建造物級であったが、近年に老朽化だとかの理由で惜しくも壊され、味も素っ気もない建物に変わってしまった。安全第一の校舎なのだから、建て替えるのは正当なのだろうが、ここに集った子供たちの痕跡が消されたようで寂しくもある。

塔の北側には駐車場があり、古めかしい建物をバックに撮影すると平凡なクルマでも美しく見え、クルマ好きにとっては絶好の撮影場所だった。先生がたのブルーバードやスカイライン、三菱コルトなどは日常的だったが、なにか行事があるときに父母の方々が乗り付けるめずらしいクルマを見に行くのは、私たちの楽しみだった。

発売されて間もないクルマが来ているのを発見したときは嬉しかった記憶がある。真新しいフォード「マスタング」、マーキュリー「クーガーXR-7」やVW「1600TL」をはじめて見たのもここだった。また、卒業した先輩が乗ってきたであろう、スバル「360」の車高を下げた、さながら“アバルト・スバル”や、車高を下げたカラフルなホンダ「N360」を見て、心を揺さぶられたこともあった。

ある日の帰宅時、いつもそうするように、クルマ好きの仲間と駐車場を通過したとき、そこに見慣れぬクーペが停まっていた。クルマに詳しい友人が「ランチアだなあ〜」と言った。真っ白な「ランチア・フルヴィア・クーペ」だった。

モンテカルロなどのラリー選手権で強さを発揮して有名になるHFではなく、大人しいクーペだった。なにより各ピラーが細いことが印象的で、その時は、なんて細っこいクルマと思ったが、ちゃんと国語を勉強して語彙が豊富だったなら、「繊細」とか「端正な」と表現すべきなのだろう。

東京オートショー(通称:外車ショー)で、これとまったく同じ白いフルヴィア・クーペを観たことがあったが、この時が私にとって初めての屋外でのランチア目撃体験になった。私は放課後のクルマ撮影のためにカメラを持って登校する日もあったのに、この日はそうではなくて地団駄を踏んだが、とにかく身近にランチアがあるのだから、よく観察しようとなった。

1968年に東京オートショーで撮影したフルヴィア・クーペ1.3。180万円とある。フルヴィアでもザガート・ボディのスポルト1.3では230万円になる。

まさにこれから「観るぞ⋯⋯」というその時、高校生の目でも、いかにも良家の奥さまという綺麗な身なりの女性が、これまたその子息に相応しい上品な小学生を伴って乗り込むと、いままで聞いたことのないリズムカルな排気音を奏でながら校門に向かって、ゆるい坂を下りおりていった。皆でその走り去る姿をポカーンと見送った。

それ以来、1度もこの白いフルヴィア・クーペを校内で見ることはなく、撮影もできなかったことから、なにか幻をみたかのような気がしたほどだった。

この時のランチアとの遭遇はかなりショッキングなもので、もっとよく知りたいと、自動車雑誌のバックナンバーを先輩に譲ってもらって読み、東京オートショーで、総代理店であった国際自動車商事が配布していたリーフレットを飽きることなく何度も読んだ。ここに掲げるのがそのカタログだが、何度も見ていたためかなり傷んでしまっている。

見開きを再現したし1968年東京オートショーで国際自動車商事が配布したリーフレットから。ここに掲載された1.3HFは1967年のショーに展示された。縁あって1.3HFはその後に友人のガレージに収まり、何度も運転する機会があった。
リーフレットを見ると、ランチアの全モデルが輸入ラインナップとなっている。最も高価だったのはV6エンジン搭載のフラミニアGT2+2の365万円だった。

名車は時を超える

国際自動車商事は輸入車ディーラーの老舗で、戦後にはじめてアルファ・ロメオとランチアを正規輸入したことで知られている。アルファ・ロメオは「1900ベルリーナ」を2台と、「6C2500」のピニン・ファリーナ製ベルリーナであり、ランチアは4台の「アッピア・シリーズ1ベルリーナ」だった。

同社にとってランチアの初入荷車として、1965年秋の東京オートショーでは、2台のフラヴィア(スポルト・ザガートとコンバーチブル)、1台のフルヴィア・クーペを出品している。私はまだ、1970年に活動を中止するまでの累計輸入台数を知る手掛かりに巡り会っていないが、「数十台が輸入された」との記述がネット上にはある。いずれにせよ、「三桁」には到底達してはいないという少数派だ。日本における1967年の輸入販売台数が1万5317台だったころの話だ。

1969年東京オートショーには1.6HFも展示された。価格は320万円。横のロータス・ヨーロッパSⅡは218万円だから、かなり高価だ。

そうした状態であったから、私が白いフルヴィア・クーペに遭遇した1960年代の半ばに、ランチアという日本では知る人ぞ知るメイクであることは確かだ。それも実用的な4ドアのベルリーナでなく、フルヴィア・クーペを“自家用車として”選ぶとは、どんな方なのだろうか。よほどの趣味人なのだろうか、と想像する。現在でも、その時に私の心に沸き上がった好奇心の空白部分を埋めたいと思い続けている。どなたかご存じではないか。

それから半世紀後。ヒストリックカーイベントで1台のフルヴィア・クーペに出会った。ヒストリックカーが自由に輸入できる現在では、こうした稀少モデルにイベントで出会うことはめずらしくはなくなったが、オーナーに話しかけてみたところ、なんと、高校生のあの日、私たちと接近遭遇した白いフルヴィアの今の姿らしいことがわかった。今でも生き残っていて、大切にされていることが嬉しくなった。

富士スピードウェイのドライバーズサロン内に駐車していたフラヴィア・クーペ。確かレースを前にした金曜日だった。なんと端正な佇まいだと思い、かなりの枚数を撮影した。

ランチアといえば、1970年代に富士スピードウェイの駐車場でシックなフラヴィア・クーペを目撃し、写真を撮りまくった記憶があるが、これも国際自動車商事時代のランチアだったのだろう。

そして2024年になって、東京オートショーで見て以来、3度目に対面したフラヴィア・スポルト。

さらに2024年2月、都内で開催されたヒストリックカー・イベントには、「フラヴィア・スポルト・ザガート」が現れた。そのバンパーには、国際自動車商事の扱い車種であることを示す、“Kokusai Jidousha Shoji”のステッカーが貼られていた。このステッカーを見て、なんだか胸のつかえが晴れたような気分になった。そして、この一文を書こうと思った。

ザガートのスタイリングは個性的で魅力的だと思う。自動車ディーラーのOBから、3台が輸入されたと聞いた覚えがある。
国際自動車商事のステッカー。よい状態のまま保存されていたものだと感心した。
雑誌でも何度かランチアを取材してきたが、どうしても自分の足に使いたくなった。ガレーヂ伊太利屋のK社長に中古を厳選してもらい、5MT仕様でビ・カラー(栗饅頭みたいだ)という望みどおりの仕様のイプシロンを手に入れた。私以上にイプシロンに乗りたいと言う方に惜譲するまで5年間を共にしたが、いまでも手放したことが悔やまれる。これは知人のB24ともに。

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