錦糸町から西大島へ、まっすぐな川をゆく。竪川~横十間川~小名木川【「水と歩く」を歩く】
錦糸町駅から南に5分ほど歩いた首都高速7号小松川線の高架下で毎年夏に「すみだ錦糸町河内音頭大盆踊り」が開催されている。私も最近は毎年参加していて、2024年は私が描いている漫画のタイトル『東東京区区(ひがしとうきょうまちまち)』が書かれた提灯を献灯した。会場は「竪川(たてかわ)親水公園特設会場」で、来るたびに高架下にこれだけ巨大な空間が広がっていることが不思議だった。以来暗渠(あんきょ)となっている竪川の歴史についてもいつかきちんと調べたいと思っていたのだが、先日たまたまこの竪川を歩くまち歩きツアーが開催されるということを知り、参加することにした。そのツアーとは旧本所区周辺の水路を研究する「旧水路ラボ」による「堀の記憶を歩く」と題した4回連続のイベントで、最終回の第4回「川跡と鉄道編」が錦糸町駅から大横川親水公園を経由して竪川を歩くものだった。案内人の暗渠マニアックスのお二人の解説とともに竪川に架かる橋(暗渠に架かる橋なので“暗橋”)を巡る行程は大変楽しく、勉強になった。そこで今回は勝手にそのツアーの復習も兼ねつつ、竪川の橋の他に見ておきたいと思っていた横十間川と小名木川が交差する地点まで歩いてみることにした。
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錦糸町駅南口ロータリーを眺め、錦糸堀公園へ
葛飾で育った私にとって“上野の次に大きな繁華街”だった錦糸町は、子供のころから駅前の「楽天地」に映画を観に行ったり、「テルミナ」の『ヨドバシカメラ』で家電やパソコン周辺機器を買ったりした、なじみのある街だ。北口の『くまざわ書店』も東京東部では大きい部類の書店で、重宝している。また、江東区の臨海部に行く際は錦糸町からバスに乗ることも多い。
南口のロータリーを抜け京葉道路に架かる歩道橋を渡る。四ツ目通りの向こうには『錦糸町PARCO』と『TOHOシネマズ錦糸町楽天地』の入る楽天地ビルが見える。楽天地は昭和12年(1937)阪急東宝グループ(現・阪急阪神東宝グループ)創始者の小林一三(いちぞう)によって、「株式会社江東楽天地」として汽車製造工場の跡地に創設された。「江東劇場」と「本所映画館」という2つの劇場のほか、遊園地や大食堂、吉本興業の「江東花月劇場」などが開業し、下町の娯楽街としてにぎわったという。現在は『丸井』の裏手にある江東寺(江東観世音)も元々は「江東楽天地」の招聘(しょうへい)によって創建され、戦災を経て移転したものだ。小林一三や花月劇場など、関西の経営者・企業と東京下町の結びつきは現在では意外にも思える。
錦糸町に来るとこの歩道橋をよく渡るのだが、橋の上から両国方面を見た時の、なんとも抜けの良い風景が好きで、いつも立ち止まって眺めてしまう。
歩道橋を渡り、今度は四ツ目通りの横断歩道を渡る。四ツ目通り、横十間川に挟まれた江東橋4丁目の一画はホテル街や飲み屋街としての印象が強いが、タイ、フィリピン、エジプト、ルーマニア料理店やモスクがあり国際色も豊かだ。横十間川沿いには東京区部東部の医療をカバーする広域基幹病院、墨東病院があり、私も子供のころ夜中に高熱を出して救急車で運ばれた際にはお世話になった。
この一画の中心に錦糸堀公園があり、その入り口にかっぱの形をした像が立つ。解説板によると、昔本所周辺には堀がたくさんあり、そこで魚を釣って帰ろうとすると「おいてけ、おいてけ」と呼ぶ声がするのでいつからか「おいてけ堀」と呼ばれるようになったという。その声の主がかっぱだとされることからこの像が立てられたそうだ。台東区の「かっぱ橋道具街」といい、東京東部にかっぱにまつわる場所が多いのは元々湿地が多かったためだろうか。
首都高の高架と暗渠に挟まれた橋
ホテル街を抜けると、首都高に沿うように整備された竪川第一公園が見えてくる。細長い形をしていて公園というよりも緑道や遊歩道といった雰囲気で、雑然とした一帯の中で貴重な緑に親しめる空間になっている。
竪川第一公園から隣接する首都高速7号小松川線の高架下へ進む。竪川は隅田川と旧中川を結ぶ運河で、大横川から東は暗渠化されて竪川親水公園として整備されている。現在は全ての区間が首都高小松川線高架に覆われていて、高架下の公園は天候にかかわらずスポーツや運動ができる場所になっている。週末には地元の人たちがサッカーやテニスを楽しんでいる様子がよく見られる。
高架下を東に向かって進むと正面に水色のプラットトラス橋「松本橋」が見えてくる。墨田区江東橋4丁目から江東区毛利2丁目に架かる道路橋で、昭和4年(1929)に建設された震災復興橋梁の一つだ。一見人名由来かと思える「松本」だが、実は「松代町」(墨田区側)と「本村町」(江東区側)の旧町名から1字ずつ取ったもので、合成地名ならぬ合成橋名と言える。
竪川は全ての区間が高速道路の高架で覆われていて、かつ大横川以東は暗渠化されているため、蓋と蓋に挟まれた空間に橋が架かるという珍しい光景を見ることができる。かつての船運路をなぞるように首都高が建設された江東区ならではの風景だ。
ここでいったん竪川を北にそれ、馬車通りに出て横十間川に架かる旅所(たびしょ)橋を渡る。なんとも旅情をそそる橋名だが、古い地図を見ると現在よりも少し南の旧千葉街道に架かる橋だったようだ。「旅」とつくのは街道と関係があるのかと思ったが、橋の東詰に亀戸天神の御旅所(神社の祭礼の際、本宮から渡御した神輿が一時的に留まる場所)があったことが由来だそうだ。
旧千葉街道は元佐倉道とも呼ばれ、両国橋から竪川沿いを東に進み、小松川を経由して行徳、佐倉まで続く、江戸と下総を結ぶ重要な交通路だったという。
「下総行徳市川道は一名を元佐倉道と称し、吉川町(現在の中央区両国)で奥州道中から分岐して両国橋にかかり、本所相生町から東へ竪川通りを過ぎ、北辻橋から松代町を経て旅所橋にかかるものである。旅所橋を渡ってからは戸村を通り、逆井の渡しで中川を渡って小松川村に達し、そこで分岐して左(北方)は下総の国市川村へ、右(南方)すれば今井村から行徳にいたり、さらに船橋から千葉および佐倉に向かっている。これにより元佐倉道の名があり、また千葉街道とも称されるわけである。」(『墨田の交通往来』)
竪川に架かる鉄道橋に出合う
旅所橋を渡ると江東区亀戸1丁目に入る。住所は亀戸だが、距離的には若干錦糸町駅の方が近いためか周辺には「錦糸町」の名を冠したマンションが多い。
横十間川沿いは遊歩道になっていて、竪川と横十間川の合流地点を間近に見ることができる。柱の向こうには先程の松本橋もちらっと見える。
遊歩道から再び首都高高架下に戻ると、こちらも高架下は竪川河川敷公園となっていて、人工的に設けられた水路上ではカヌー・カヤックが楽しめるようになっている。かつての運河を埋め立てた後、新たに水路を作り、レジャー施設として運用しているのが面白い。
竪川河川敷公園を東に進むと正面に赤いトラス橋が見えてくる。JR越中島支線の鉄道橋「竪川橋梁」だ。昭和4年(1929)、当時の鉄道省によって架橋され、煉瓦造りの橋台と橋脚もそのまま残っている。先日の「堀の記憶を歩く」ツアーでの暗渠マニアックス吉村さんの話では、橋脚の煉瓦は「イギリス積み」(煉瓦の長い面の段と短い面の段とを交互に積み上げる方式)だそうだ。
先ほどの松本橋にしろ竪川橋梁にしろ、暗渠に架かる橋の上をさらに首都高の高架が覆うという、3つの層の重なりをいっぺんに見ることができるダイナミックな風景につい興奮してしまう。
貨物線沿いを歩き、再び横十間川へ
ここまで竪川の暗渠に沿って西から東へと歩いてきたが、ここで竪川河川敷公園を横に逸(そ)れ、越中島支線の高架に沿って南に進むことにする。途中に現れる橋脚も煉瓦造りで、周囲の下町の商店街の風景になじんでいる様子が良い。
貨物線沿いから大島の路地を抜け、再び横十間川に戻る。川沿いにひときわ目立つ高層マンションがある。1997年竣工地上39階地下2階、サンライズタワーとサンセットタワーの2棟からなるザ・ガーデンタワーズだ。
今でこそ江東区の湾岸を中心にタワーマンションが多く立っているが、97年頃の超高層マンションといえば佃島の大川端リバーシティ21くらいで、東京東部の下町にこれだけの高さのマンションができるというのは相当珍しいことだったはずだ。私も荒川土手から遠くにそびえるこの2棟の超高層マンションを見て驚いたのを覚えている。現在のタワーマンションはほとんど外観がガラス張りだが、ザ・ガーデンタワーズはもっと「普通のマンションを縦に伸ばした」ようなデザインをしていて、その姿からタワーマンションの歴史を見てとれるのも面白い。
江東区の4つの地区を結ぶ十字の橋
ザ・ガーデンタワーズを過ぎて横十間川沿いをしばらく歩くと釜屋堀通りに出る。その角に釜屋堀公園があり、園内を見ると「釜屋跡」と書かれた標識や大きな記念碑のようなものがいくつか立っている。
「釜屋堀」という名前は江戸時代に太田氏釜屋六右衛門と田中氏釜屋七右衛門がこの付近で鋳物業を行っていたことに由来していて、園内に立つ記念碑は明治20年(1877)に渋沢栄一や高峰譲吉らによって東京人造肥料会社が設置されたことを伝えるもののようだ。
釜屋堀通りを渡りさらに横十間川を南に向かって歩くと、やがて江東区を東西に流れる小名木川との合流地点に至る。この合流地点に架かるのが十字の形が特徴的な「小名木川クローバー橋」だ。1994年に架設された歩行者と自転車専用の橋で、それまで小名木川と横十間川によって隔てられていた猿江、大島、北砂、扇橋の4つの地区が結ばれるようになった。ハゼの釣り場としても有名のようだ。
直接的に開削された運河が交わる光景は江東区ならではで、私の地元葛飾区の曲がりくねった中川沿いの風景とはまた異なる川の街の姿がある。
戦後の城東地域の風景を詠んだ愛媛県松山市出身の俳人・石田波郷(はきょう)は、小名木川クローバー橋からほど近い北砂に1946年から12年ほど住んでいた。1957年から58年にかけて讀賣新聞江東版に連載されたエッセイ『江東歳時記』には当時の東京23区東部の風景とその土地に暮らす人々の生活が記されており、貴重だ。区内の「砂町文化センター」内には『石田波郷記念館』があり、関連の展示やイベントが催されている。
実は『石田波郷記念館』にはまだ行ったことがなく、やはり近くにある『東京大空襲・戦災資料センター』にもいつか足を運びたいと思っているのだが、この日も時間の関係で諦めざるをえなかったので、また改めて訪れたい。
帰りは小名木川クローバー橋から西大島に出て、新大橋通り沿いの南インド料理店『マハラニ』でチャパティセットを食べて帰った。大島周辺は南アジア系の人々が多く住んでおり、インド料理やパキスタン料理の店も多い。運河と街道が走る城東は、昔から他所の土地から来た人々が行き来し交わる場所でもあった。現在石田波郷がこの街を歩いたとしたら、地域に暮らす移民の人々の姿も風景の一部として詠んでいただろう。
取材・文=かつしかけいた 撮影=かつしかけいた、さんたつ編集部
【参考文献・URLなど】
東京楽天地50年史編纂委員会 編『東京楽天地50年史』,東京楽天地,1987.12. 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/13087884 (参照 2025-07-13)
『墨田の交通往来』,[東京都]墨田区立緑図書館,1983.3. 国立国会図書館デジタルコレクション(P1135)
https://dl.ndl.go.jp/pid/12121465 (参照 2025-07-14)
三井住友トラスト不動産HP「このまちアーカイブス 深川・城東 6:工業地から都心近接の住宅エリアへ〜」
https://smtrc.jp/town-archives/city/fukagawa/p06.html
高峰譲吉博士研究会HP「ゆかりの地・・・・7)深川・釜屋堀(東京人造肥料会社)」
https://npo-takamine.org/who_is_takaminejokichi/related_area_people/fukagawa_tokyo/
東京新聞デジタル <竿と筆文人と釣り歩く>「江東歳時記」石田波郷
https://www.tokyo-np.co.jp/article/198497
『堀の記憶を歩く 第4回 水・人・物の流れを感じる・鉄道と川跡編』(街歩き企画「堀の記憶を歩く」配布資料) 案内人:暗渠マニアックス 堀の記憶実行委員会 発行
かつしかけいた
漫画家・イラストレーター
葛飾区出身・在住の漫画家・イラストレーター。2010年代より同人誌などに漫画を発表。イラストレーターとしても雑誌や書籍の装画などを制作する。2021年よりWebコミックメ ディア「路草」にて『東東京区区』を連載中。