豊洲の人生勝ち組主婦でも幸せじゃない? 彼女が裕福な暮らしの代わりに諦めたもの
【何者でもない、惑う女たちー小説ー】
【武蔵境の女・竹島千佳33歳 #3】
独身時代は都心に暮らしていたが、結婚を機に武蔵境に暮らし始めた千佳。しかし、郊外のこの地を愛せない。そんな時、中学の同級生・芙美に再会する。都会で悠々自適な専業主婦の彼女の言動は千佳を刺激して…。【前回はこちら、初回はこちら】
◇ ◇ ◇
――なんであんなことを言ってしまったのだろう…。
会社帰り。
東京駅からの40分間を、千佳は芙美への言葉の後悔に費やした。
ランチの誘いに、『忙しいから無理』。社交辞令でも、「うん、ぜひぜひ♪」などと返すべきだったのではないか。
しかし、気持ちを押し殺し取り繕ったところで、結局、苛立ちを抱えたまま電車に乗っていたに違いない。
その日は、40分ほどの乗車時間にもかかわらず、驚くほどあっという間に駅にたどり着いた。
高架下の改札を出ると、そこには正信が立っていた。
「ちょうど千佳が帰ってくるタイミングだと思ったんだよね」
「え、待っていてくれたの?」
「せっかくの定時退社日だから、一緒に飯でも食べて帰ろうと思って。…そうだ、王将とかどう? 好きでしょ、ギョーザ」
千佳はとまどいながらも頷いた。
餃子は好きだが、空しさがよぎる。しかし、他に提案できるような店はどこも思いつかない。
刺激に溢れていた20代…この街は退屈すぎる
スキップ通りを、並んで歩きながら無理やり思った。
愛しい人と一緒ならばここは表参道にさえなる…彼に腕を絡ませて、自分に魔法をかけた。うっすら目を閉じ、ふたりの世界に没入しようとした。
しかし、道行く学生の甲高い笑い声が耳に入り、すぐに我に返る。
ここは紛れもなく武蔵境なのだ。一休や東京カレンダーに掲載されるような店はない。
学生、子育て夫婦、高齢者と様々な面々…誰もが住むには困らないこの街。しかし、生活を越えた彩りを大事にしたい千佳にとって、退屈すぎた。
隣りの市である田無が地元の正信は、実家にも近く、居心地の良さがあるようだ。
田舎でも、都会でもない、この場所で生まれ育った正信。だからこそ、彼は全てが中央値的な人間にまとまってしまったのだろう。
一方、千佳は群馬出身。千佳は東京に手が届きそうでそれでも微妙に遠い、ぎりぎり首都圏のくくりにされている地方出身だけあって、華やかさへの野心は人一倍だった。
念願の上京後は、渋谷の学校に通い、世田谷に住んで、千代田区で働いた。遊びはもっぱら港区や新宿区。20代は毎日が刺激に溢れていた。今もなお、その刺激を求め続けている。
30を超え、遊び仲間の結婚が続いて落ち込んでいたところに、たまたま目の前にいた男性が求婚してくれて、燃え上がって入籍した。住居も勢いで決めてしまった、だけど…。
愛していても、譲れないものがある
この地に暮らして1年。住めば都になんてならなかった。
惨めさはつのり続ける。住宅を購入したという鎖がさらに閉塞感を助長する。平凡な日常を送り、年老けていくだけの人生を想像するとぞっとした。
「――どうしたの?」
「なんでもない…」
正信は千佳の顔を覗きこむ。何でもないわけではなかったが、何も言えなかった。
彼のことは愛している。だけど、それ以上に譲れないものがあることに、気づいたのだ。
いますぐ、とは言わない。千佳の心の奥底に、ひとつの選択肢が芽生え始めていた。
やっぱりもっと都会で暮らしたい。千佳は決意するが…
土曜日は朝から雨模様だった。しかも、正信はまた休日出勤だ。
千佳は気晴らしに新宿へ脱出するため、昼下がりに駅を訪れる。すると、改札口の手前で、誰かが自分の名を呼んだ。
「あれ、千佳さん」
そこには、この街にいるはずのない女の顔があった。
「芙美さん…?」
「ここ、お住まいの吉祥寺に近いから会えるかなって思っていたら、やっぱり」
傘から顔を覗かせ、にっこり微笑む彼女。千佳は焦りつつ、ここにいる言い訳を考える。だが、それ以前に芙美の存在に疑問が沸いた。
「――なんでいるの?」
豊洲に住む子持ちの専業主婦が、わざわざ来る場所だとは思えなかった。
「武蔵野プレイス、建築の雑誌で見て、ずっと来たかったのよ」
芙美は毎週末、夫からひとりの自由時間をプレゼントされているという。千佳の言葉がきっかけとなり吉祥寺を訪れ、流れでここまで足を延ばしてみたそうだ。
罪滅ぼし、というわけではないけれど
「本当? そのためにって…珍しい」
千佳が鼻で笑うと、芙美は首を大きく振って否定した。
「私ね、大学で美術と建築の勉強をしていたから。大学卒業と同時に結婚して、全然生かせてないんだけどね」
はにかむ芙美の顔を千佳は覗き込んだ。
「――大学卒業と同時に?」
「恥ずかしながら、交際してすぐ子供ができたの。その後は夫の駐在もあったからずっと子育てで」
この街を見上げる彼女の瞳は輝いている。
右手に提げる本屋の紙袋には、吉祥寺で買ったという洋書と思しき大型本が入っていた。
「ねぇここじゃ何だし、ちょっと時間ある?」
千佳は思わず、芙美をお茶に誘った。この前の罪滅ぼし、というわけではない。単純に、彼女ともっと喋りたかった。自分が勝手に貼ったレッテルの奥にある、芙美自身のことを知りたかったのだ。
自虐のはずなのに、違って聞こえているのはなぜ?
◆
武蔵野プレイスの中にカフェがあることは知っていたが、足を踏み入れるのは初めてだった。
所々にグリーンが施されたオアシスのような空間は、穏やかさと洗練が共存している。エルダーフラワーのドリンクを飲みながら交わす会話は、丸ビルでランチした時とほとんど同じ内容だった。
「千佳さんは今も仕事をバリバリしていて羨ましいな。地に足着けて立っているじゃない。私なんて、夫に頼らないと生きていけないから」
「そんな…芙美さん、頭良かったのに」
「勉強がちょっとできただけ。今はママ友のあいだの立ち回りや、夕飯の献立考えることしか頭使ってないからね」
「もったいない」
相変わらずの彼女の自虐だ。しかしなぜか、以前と違って聞こえている。
豊洲の勝ち組主婦が望むもの
芙美は故郷の群馬が恋しいと言う。海沿いの人工的な夜景よりも緑溢れる中でのんびり暮らしたいのだと。
「このカフェ、おしゃれで素敵ね。人の温度を感じる。いいな…私もこういう街に住みたい」
「え、じゃあ引っ越して来たら?」
「あはは。夫も子供もいるからね。夢のまた夢よ」
ある種の諦めが含まれるその言葉を聞いて、千佳は実感する。所詮、自分はないものねだりなのだと。
違う立場になったら他のものが欲しくなるのだろうか。
そんな疑問が浮かんだ途端、窓から光が差し込んだ。
降っていた雨が止んだようだ。
カフェ店内を彩る緑が光に照らされて、人と重なり、揺れて、新しい影を生む。
人と街が作り出す彩りの妙。この街には、実はこんな美しい景色がもっとあるのかもしれない。
この街が好きになれそう
夕食の準備の時間だと、芙美は腕の高級時計を悲しそうに眺めた。瞳には名残惜しさの色がにじんでいる。
「ねえ千佳さん、吉祥寺なら、途中まで電車で帰りましょう」
「ごめん…実はうち、ここから歩いてすぐの場所にあるんだ」
「ここ武蔵境よね?」
胸を張って「実は」と頷く千佳に、芙美も深くは追求しない。
千佳は、この街が好きになれそうな予感が芽生えていた。
――Fin
(ミドリマチ/作家・ライター)