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秀吉と大清の侵攻にどう対峙したのか──知られざる朝鮮王朝史に迫る【世界史のリテラシー:鈴木 開】

NHK出版デジタルマガジン

秀吉と大清の侵攻にどう対峙したのか──知られざる朝鮮王朝史に迫る【世界史のリテラシー:鈴木 開】

朝鮮は、いかに「外患」を克服したのか──ホンタイジによる丙子の乱

「朝鮮は、地政学的に攻められやすく、また朱子学の教義に凝り固まっていた」──その言説は本当か? 豊臣秀吉の朝鮮出兵を意味する壬辰戦争、そしてその後の後金および大清皇帝ホンタイジによる丁卯・丙子の乱は、朝鮮王朝に何をもたらしたのか?

明治大学文学部准教授の鈴木開さんによる『世界史のリテラシー 朝鮮は、いかに「外患」を克服したのか ~ホンタイジによる丙子の乱』は、これらの問いに答えながら、明清交替という大変動期のなかで軍事・財政改革にとりくみ、危機を乗りこえた、知られざる朝鮮王朝史に迫ります。

今回は、著者の鈴木さんによる本書へのイントロダクションをご紹介します。

知られざる朝鮮王朝史

 本書は、一六三六年十二月、大清国が朝鮮国(朝鮮王朝、一三九二~一八九七)に侵攻することで勃発した丙子の乱についてあつかいます。本シリーズでとりあげられている他の有名な事件と比べると、なじみが薄いものであることは重々承知しています。ただ、朝鮮史や中国史はもちろん、日本史や世界史の教科書や概説書でも、大清が成立直後に朝鮮を攻めた、という事実は、どこかしらには記されているはずです。これが、丙子の乱のことを指しているのです。

 ところが、この戦争について、一般にはもちろん、研究者にもながくその詳細が知られてきませんでした。にもかかわらず、“朝鮮は政争にあけくれていたので侵略を受けるのも当然であった”とか、“朝鮮が朱子学の教義にしたがい、冷静な現実判断ができなかった”といった、およそ歴史的とはいえないような評価が事実であるかのように語られ、北朝鮮や韓国ではかつての自国や自民族の歴史を批判的に捉えるための、そして日本を含むその他の外国では、韓国朝鮮の民族性や国民性を否定的に議論するための、根拠の一つとされてきたのです。

 日本で朝鮮王朝にまつわる話題というと、壬辰戦争(豊臣秀吉の朝鮮侵略)、朝鮮通信使、征韓論、江華島事件、日清戦争……などがありますが、戦争にまつわるものばかり。しかも「党争」と呼ばれる政治対立の話が必ず登場します。朝鮮通信使はそうした傾向を批判する意味でも、平和友好の使節という側面が強調されますが、それさえも虚像とするような見方がないでもありません。歴史上、朝鮮はいつも一つにまとまれないのか、ずっと中国や日本という「外患」に悩まされてきたのだろうか……、漠然とそう感じている人も多いかもしれません。

 それに輪をかけて、丙子の乱というもう一つ別の戦争をとりあげるのか、と不思議に思われるかもしれませんが、私の意図はそのようなものではありません。この戦争を起こした大清は、マンチュリア(満洲)の少数民族から出発して、現代中国の領域にかかわる広大な地域を版図におさめるという、稀有な事象の当事者となった国や人々でした。私は、この大清と朝鮮の関係を考えるために、この戦争をとりあげてみたいのです。大清は朝鮮を「属国」としたというのですが、その内実は、果たしてどんなものだったのでしょうか。

 したがって本書では、歴史的な中国と朝鮮の関係の一事例として、大清と朝鮮の関係をみるつもりもありません。そもそも、大清は満洲人が建国したものであるということのほかに、当時の大陸には大明が存在し、大清と敵対していました。丙子の乱のとき、大清はまだ大国ではなかったのです。朝鮮半島では世界史的にみても長命な政権がいくつか誕生しましたが、中国大陸はそうともいえません。“中国を中心とする東アジア世界では、漢字や儒教を媒介に中国皇帝を君、周辺国の君長を臣とする冊封体制(または朝貢体制)と呼ばれる垂直的な国際秩序・体制が形成された”と説明されることもありますが、こうした説明は、あくまで中国側の主観であって、それが現実の国際秩序・体制ではありませんでした。

 例えば、壬辰戦争のときに大明は朝鮮からの依頼もあって援軍を送りました。それが、東アジアの「冊封体制」下における中国と周辺国の典型的な関係性の表れ方の一つである、というような説明をみたこともありますが、事実ではありません。もしそうなら、援軍の朝鮮駐留をめぐって朝明間で外交トラブルや軍民対立などは起きなかったはずです。大明と日本では、朝鮮半島の分割統治まで検討され、朝鮮はこれに強く抗議しました。もし「冊封体制」が存在していたとしたら、そのような議論がなされること自体、想像もつかないことです。朝鮮でも、大明の譴責を受けることを承知で、満洲人を統一して後金国を建てたヌルハチと接触することもしていました。朝明両国はそれぞれの利害判断にもとづき、外交上の美辞麗句を用いながら、援軍派遣を依頼したり正当化したりしていたにすぎないのです。

 朝鮮は儒教の国といわれますので、「冊封体制」的な理解が適合的にみえるかもしれませんが、ひとくちに儒教といっても様々な捉え方や考え方があり、それが朝鮮という国の歩みにどう影響したかはケースバイケースではないでしょうか。日本を仏教の国といえば違和感を抱く人もあるかと思いますが、同様の説明が、なぜか朝鮮に対しては通用してしまうようなのです。朝鮮が歴史的にいつも大陸や日本といった「外患」に悩まされ、また儒教を信奉するがゆえにそれらに適切な対応がとれなかった、というような、地政学的あるいは宿命論的な見方とはきっぱりと手をきるべきです。

 そのことを踏まえたうえで、では、丙子の乱をどのように捉えるべきか。丙子の乱の実像については韓国でもまだ研究がはじまったばかりで、こうした議論があまり進んでいるとはいえませんが、約五百年つづいた朝鮮という国の一つの転換点となったことは間違いないでしょう。当時は初期グローバル化の時代。ポルトガル、スペイン、オランダ勢力が相次いで東アジア海域に進出してきます。朝鮮ではこれら西洋勢力との接触は限定的なものでしたが、大明や日本などを通じて、各種文物や知識が流入しました。そしていわゆる新大陸銀(メキシコ銀)や日本銀がさらに内陸のモンゴリアやマンチュリアへと入りこみ、やがて大清へと発展する原動力となったことが知られています。そのため、本書では当時の国際情勢にもできるかぎりふれながら、朝鮮でとられた対応の意味について解説していきます。

 丙子の乱の結果、朝鮮は大明に代えて、大清を宗主国とする体制に移行します。しかし、この事態は大清にとっても予想外のことでした。十七世紀に生じた朝清間の軋轢は、双方の国内政治と関連があったことに注意が必要です。大清にとっては朝鮮も「外患」の一つでした。本書でみていきますが、丙子の乱ののち、大清はしばらく、朝鮮における城郭修築を禁止しようとしていました。これは、大清の朝鮮への警戒を示すものにほかなりません。いっぽうの朝鮮は、壬辰戦争や丙子の乱といった「外患」を梃として軍事・財政改革にとりくみました。世界規模で軍事・商業勢力が成長し、〈戦争の商業化〉が起きたともいわれる時代にあって、大清も朝鮮も同様の課題にとりくみ、危機を乗りこえていったともいえるでしょう。「外患」が国内政治に利用されることは、いつの時代も変わりません。それをどう利用するかにおいて、為政者たちの力量が試されるのです。

 朝鮮王朝は、日本ではながく李氏朝鮮と呼ばれてきました。李氏というのは、王朝の創始者である李成桂(廟号は太祖)とその子孫のことです。李氏を王にいただく王朝国家ですから、李氏朝鮮あるいは李朝朝鮮と呼んでもまちがいではないのです。李朝は、国号が朝鮮でしたので、かつて存在した王朝国家という意味で、朝鮮王朝と呼ぶことが定着しています。朝鮮王朝の時代の歴史は、朝鮮時代史と呼ばれます。朝鮮では李氏という王家が他氏にとってかわられることなく存続しましたので、これでかまわないのです。李家の当主は、大明と大清の皇帝から朝鮮国王という爵位をもらうことが定着しましたので、朝鮮国王が治める国という意味で朝鮮王国、もっと簡略に朝鮮国としてもよいのではないかと私は考えていますが、この点はまだあまり関心が払われていません。本書ではこの王国を指して朝鮮と呼び、丙子の乱という戦争を軸に、その歴史の概観をも試みたいと思います。

 丙子の乱という名称についても一言しておきます。朝鮮史・韓国史の研究は、現代韓国を中心に急速に進展していますが、他地域の歴史研究と比較するとまだまだ成熟していない部分が多いようです。戊午士禍(史禍とも)、己亥礼訟、庚申換局、辛酉教獄……、日本史でも出てくる甲午農民戦争など、事件が起きた年の干支を利用した用語が頻繁に登場するのもその一つといえます。まずこの干支が何年をあらわすのかを記憶しなければなりません。戊午士禍なら一四九八年です。しかも何年かという情報は事件の概要や性格についてほとんどヒントをくれません。歴史史料にそのまま出てくるという点では中立的なのかもしれませんが、事件の主体や規模、影響などを少しでも想像できるような用語を考案していく必要があるでしょう。丙子の乱の場合は、大清の朝鮮侵略といった具合でしょうか。

 おまけに、丙子の乱は、史料上では「胡乱」として登場します。この「胡」は、朝鮮の西北方面に居住して、のちの満洲族へと発展するジュシェン(女真/女直)の人々を蔑んだ名称です。このため、ジュシェン/マンジュ史研究者からは「胡」の字を使用すべきでないという批判があり、私もこれに同意します。

 豊臣秀吉の朝鮮侵略の朝鮮側の呼称が壬辰・丁酉倭乱であることはよく知られていると思います。倭が前近代の漢語の文脈では日本にまつわる否定的なイメージを表象する文字であるのはその通りですが、いまの日本で、倭乱が差別用語であるといって怒る人はまずいないのではないでしょうか。後期倭寇の実態が多民族から構成される武装商業集団であったことは学界の常識です。この点、倭乱と「胡乱」は見た目以上に性格が異なる用語なのです。

 しかし、二〇〇七年ころに、壬辰倭乱を壬辰戦争と呼ぼうという機運が韓国学界で高まりました。日本では文禄・慶長の役、中国では万暦朝鮮役といくつかの呼称にわかれていたのを統合して、この戦争の国際戦争としての性格をより鮮明にしようという意図から出たものです。ここでもまた干支か、とうんざりしてしまいますが、英語でもイムジンウォー(Imjin war)ですのでやむをえない部分もあるかと思います。では「胡乱」の方はどうでしょうか。残念ながら、この点については折からの関心の低さもあって議論が深まっていません。概説書では後金の朝鮮侵略を丁卯戦争、大清の朝鮮侵略を丙子戦争とする例がみられますし、いずれも国際戦争ですから、そのように使用するのが妥当と思われます。とはいえ、私だけでこの問題を解決することはできませんので、本書では「胡乱」の「胡」を避けて丁卯の乱、丙子の乱を採用することとしました。過渡的なものとしてご理解くだされば幸いです。なお、大清側からの名称としては丁卯の役、丙子の役というものがあります。

『世界史のリテラシー 朝鮮は、いかに「外患」を克服したのか ~ホンタイジによる丙子の乱』では、「朝鮮は、なぜ大清の侵略を受けたのか?」「朝鮮は、侵略をみずから招いたのか?」「朝鮮は、どんな国に生まれ変わったのか?」「丙子の乱は、どのように記憶されたのか?」という4章で、知られざる朝鮮王朝史を見ていきます。

著者

鈴木 開(すずき・かい)
明治大学文学部准教授。1983年、東京都生まれ。明治大学文学部卒業、東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得満期退学。博士(文学)。滋賀県立大学人間文化学部助教、明治大学文学部専任講師を経て、現在は明治大学文学部准教授。著書に『明清交替と朝鮮外交』など。
※刊行時の情報です。

■『世界史のリテラシー 朝鮮は、いかに「外患」を克服したのか ~ホンタイジによる丙子の乱』より抜粋
■脚注、図版、写真、ルビ等は権利などの関係上、記事から割愛しています。

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