「みんな」という言葉に騙されない──武田砂鉄さんと読む、ル・ボン『群衆心理』【NHK100分de名著ブックス】
武田砂鉄さんによるル・ボン『群衆心理』読み解き
横暴かつ単純、偏狭かつ従属的──。善良な人々が「群衆」と化す過程を考察し、その特性や功罪を徹底的に論じた『群衆心理』は、異色の心理学者ル・ボンが1世紀以上前に著した社会心理学の古典です。
『NHK「100分de名著」ブックス ル・ボン 群衆心理』では、ライターの武田砂鉄さんとともに、政治をめぐる対立からネット炎上まで、現代日本の抱える問題に引き寄せながらル・ボンの議論を読み解きます。
今回は、「群衆」とはそもそも何であり、どのような状況下で生まれるものなのかを解説した本書第1章「群衆心理のメカニズム」の一部を公開します。
群衆は黴菌(ばいきん)のように作用する
ル・ボンは「群衆の時代」の到来に強い危機感をもっていました。群衆が社会のなかで支配的な力をもつとどうなるか。『群衆心理』の序論で、彼はこう記しています。
幾多の文明は、これまで少数の貴族的な知識人によって創造され、指導されてきたのであって、決して群衆のあずかり知るところではなかった。群衆は、単に破壊力しか持っていない。群衆が支配するときには、必ず混乱の相を呈する。およそ文明というもののうちには、確定した法則や、規律や、本能的状態から理性的状態への移行や、将来に対する先見の明や、高度の教養などが含まれている。これらは、自身の野蛮状態のままに放任されている群衆には、全く及びもつかない条件である。群衆は、もっぱら破壊的な力をもって、あたかも衰弱した肉体や死骸の分解を早めるあの黴菌のように作用する。文明の屋台骨が虫ばまれるとき、群衆がそれを倒してしまう。群衆の役割が現われてくるのは、そのときである。かくて一時は、多数者の盲目的な力が、歴史を動かす唯一の哲理となるのである。
群衆は「野蛮状態のままに放任」され、まるで「黴菌のように」文明を蝕んでいく。この遠慮のない言い方、今、SNSでつぶやいたらたちまち炎上しそうです。そもそも「群衆」とは何でしょうか。ル・ボンがどのように定義していたのかを押さえておきます。
普通の意味で、群衆という言葉は、任意の個人の集合を指していて、その国籍や職業や性別の如何を問わないし、また個人の集合する機会の如何を問わないのである。
心理学の観点からすれば、群衆という語は、全く別の意味をおびるのである。ある一定の状況において、かつこのような状況においてのみ、人間の集団は、それを構成する各個人の性質とは非常に異なる新たな性質を具える。すなわち、意識的な個性が消えうせて、あらゆる個人の感情や観念が、同一の方向に向けられるのである。
社会のなかで大多数を占めているというだけなら「大衆」という言い方もできるでしょう。たとえば、大会場で行われるワクチン接種は「集団」接種であって、たまたまそこに集まった人々を「群衆」とは呼びません。
では、「群衆」とは何か。ル・ボンがそう呼んでいるのは、特定の心理作用を起こした人々です。どんな心理作用かというと、一つは「意識的個性の消滅」。いま一つが「感情や観念の同一方向への転換」です。
ですから、「群衆」は必ずしも大勢である必要もなければ、一か所に群れ集まっている必要もありません。集団を構成する人々の考え方や感じ方が統一され、濁流のように一つの方向に向かっていく。つまり、心理的にシンクロした集団という意味で、ル・ボンはこれを「心理的群衆」と呼んでいます。
あなたの身近に現れる群衆
心理的群衆のなかにあると、個人が単体で動いていた時には働いていた理性や知性、それぞれの個性といったものは鳴りを潜めてしまう。これは、どんな人にも起こりうるし、日常のなかで一時的に群衆化することもある、とル・ボンは指摘しています。
集団が「心理的群衆」になり変わるには、スイッチとなる何らかの「刺戟」が必要です。それさえあれば、六人程度のグループでも心理的群衆になりうるし、日頃の生活基盤を傾かせるような国家規模の大事件が起こると、ネットでつながっているだけのような「離ればなれになっている数千の個人」の心が強烈に揺さぶられて、心理的群衆の性質を具えることもある。
このように書くと、群衆は特殊な状況下で生まれるように思えるかもしれません。しかし、ル・ボンのいうような群衆化現象は、身近なところでも起きています。
たとえば、私の仕事部屋は小学校の校庭に面しているのですが、眺めるともなく眺めていると、校庭のいろいろな表情がみえてきます。
休み時間が始まると、校舎から走って出てきた子どもたちがバラバラに遊び始めます。ドッジボールをする子もいれば、サッカーをする子もいる。その合間を縫うようにして鬼ごっこに興じている子や、ただ座っている子もいる。外に出ず教室で時間を潰している子もいるはず。いうなれば、それぞれの子が自由な意思をもって、カオスな状態をつくっている。社会というのは、本来そういうものだと思います。
ところが、これほどカオスな校庭が、月曜日の朝礼の時間にはまったく違う様相を呈します。「列は真っ直ぐに!」「間隔は均等に!」「静かにしてください!」といった先生の指示に従って、全校生徒が整然と列をなしている。また、朝礼の時には静かだった子どもたちが、運動会の日にはクラス対抗の競技に熱狂し、勝利するために声を張り上げていたりもする。
つまり、自由意思で動いていた個人個人も、一定の条件と刺激があれば、揃って一つの方向に動き出すわけです。規律があればそれに順従するし、そこに勝負事が用意されると、昂奮状態が引き出される。ル・ボンは、人々が群衆になり変わった時点で、彼らに一種の「集団精神」が与えられ、考え方も感じ方も行動の仕方も、群衆になり変わる以前とは「全く異なってくる」と断言しています。現代に生きる私たちも、自分が群衆になりうるという点に自覚的であるべきでしょう。
『NHK「100分de名著」ブックス ル・ボン 群衆心理 「みんな」には騙されない』では、
・第1章 群衆心理のメカニズム
・第2章 「単純化」が社会を覆う
・第3章 操られる群衆心理
・第4章 群衆心理の暴走は止められるか
・ブックス特別章 熱狂に流されないために
という構成で、現代社会において群衆心理とどう向き合うかを考えていきます。
著者
武田砂鉄(たけだ・さてつ)
1982年、東京都生まれ。出版社勤務を経て、2014年からフリーライターに。新聞への寄稿や、週刊誌、文芸誌、ファッション誌など幅広いメディアで連載を多数執筆するほか、ラジオ番組のパーソナリティとしても活躍している。著書に『紋切型社会』(新潮文庫、第25回Bunkamuraドゥマゴ文学賞受賞)、『コンプレックス文化論』(文春文庫)、『わかりやすさの罪』(朝日文庫)、『偉い人ほどすぐ逃げる』(文藝春秋)、『マチズモを削り取れ』(集英社文庫)、『今日拾った言葉たち』(暮しの手帖社)、『父ではありませんが─第三者として考える』(集英社)、『なんかいやな感じ』(講談社)、『テレビ磁石』(光文社)、『「いきり」の構造』(朝日新聞出版)など多数。
※刊行時の情報です。
■『NHK「100分de名著」ブックス ル・ボン 群衆心理 「みんな」には騙されない』より抜粋
■脚注、図版、写真、ルビなどは、記事から割愛している場合があります。
※本書における『群衆心理』の引用は櫻井成夫訳(講談社学術文庫、1993年)に拠ります。
※本書は「NHK100分de名著」において、2021年9月、および2022年11月に放送された「ル・ボン 群衆心理」のテキストを底本として加筆・修正し、新たにブックス特別章「熱狂に流されないために」、読書案内などを収載したものです。