たった1,000人で諸葛亮5万の大軍を退けた名将・郝昭とは?『三国志 陳倉の戦い』
郝昭とは
三国時代は、中国史の中でも戦乱が絶えず、各地で英雄が現れては消えていった時代である。
曹操・劉備・孫権といった名だたる君主だけでなく、その配下には無数の武将や官僚が存在し、彼らの働きが情勢を大きく左右した。
魏の明帝(曹叡)の治世は、蜀の丞相・諸葛亮が北伐を繰り返した緊迫の時代であり、魏にとっては国境防衛の力量がひときわ重視されていた。
郝昭(かくしょう)は、そのような激動の時代に生きた魏の武将である。
字は伯道(はくどう)。出身は并州太原郡で、特別な家柄ではなく、若い頃に軍へ入り、実戦で功績を重ねて出世していった典型的な叩き上げの人物であった。
南北朝時代の歴史家・裴松之が注で引用した『魏略』には、郝昭について「為人雄壮」とあり、体格が良く勇気に富んだ人物だったと伝わる。
やがて彼は「雑号将軍」という地位に任じられた。
雑号将軍は、一見すると名が軽く感じられるが、実際は特定の任務に応じて臨時に授けられる将軍号で、固定の編制を持つ重号将軍とは異なるものの、能力に応じて任命される実戦型の職であった。
郝昭はまさにその典型であり、特別な後ろ盾がなくとも、純粋な戦功によって将軍まで昇りつめたのである。
西方を10年以上安定させた実力と評価
郝昭(かくしょう)が本拠として活躍したのは、魏の西方に位置する河西地方である。
ここは蜀漢の圧力がかかるうえ、羌族などさまざまな部族が入り交じる土地で、軍事だけでなく、地域の人びととの折り合いや、異民族とのやり取りまで必要とされる難しい任地だった。
『魏略』では、郝昭がこの河西を10年以上にわたり安定させ、住民と異民族の双方から畏れ敬われたと記されている。
河西が抱える問題の一つは、反乱の発生頻度であった。
平穏に見えても、一度火種が広がると一気に広域へ飛び火し、鎮圧が遅れれば魏の中枢地域(長安周辺)が危険になる。
建安20年(215年)に起きた大反乱は、その典型だった。
武威や張掖に根を張っていた河西の地方豪族・張進、麹演、黄華らが呼応して蜂起し、さらに周辺の胡族(三種胡と呼ばれる騎馬民族)が盗賊化して交通路をふさぎ、情勢は一気に緊迫化した。
さらに当時は、地元豪族の多くが反乱側に流れてしまい、情勢は魏にとって明らかに不利だった。
郝昭には「西へ進んではならない」という詔も出され、誰もが鎮圧は難しいと見ていた。
ここで郝昭は、詔の制約で動けずにいたものの、河西情勢に詳しい魏の官僚・蘇則(そそく)の働きかけと後押しを受け、ついに出陣に踏み切る。
蘇則が羌族の首領たちをまとめ、協力を取り付けたことで郝昭の軍は動きやすくなり、各方面の軍と連携して反乱勢力を制圧し、河西の治安を立て直すことに成功した。
太和元年(227年)には、西平の地方豪族であった麹英(きくえい)が、官吏を殺して反乱を起こした。
これに対し、魏は郝昭と鹿磐(ろくばん)を派遣し、すぐに麹英を討ち取って騒動を収めている。
この一件は正史『三国志』明帝紀に記されており、郝昭が現地での異変に素早く対応できる将であったことを示す、確かな記録である。
郝昭は、武勇に優れるだけではなく、情勢判断と指揮統率に長けた優秀な将軍だったのだ。
「陳倉の戦い」郝昭の驚異的な防衛戦術
蜀漢の諸葛亮が、第二次北伐を進めていた太和2年(228年)冬、次の標的として選んだのが陳倉だった。
蜀の記録では、この時の兵力は数万(後世の推計でおよそ5万人規模)とされ、郝昭が守る陳倉城は、およそ1,000名ほどしかいなかった。
数字だけ見れば圧倒的な差であり、しかも相手は天才軍師・諸葛亮である。
普通に考えれば、陳倉城はとても持ちこたえられない状況だった。
しかし、ここで郝昭は真価を見せることになる。
諸葛亮はまず、郝昭と同郷の役人・靳詳(きんしょう)を呼び寄せ、城外から降伏を勧めさせた。
「親しい間柄なら、郝昭の心が揺らぐかもしれない」という狙いである。
しかし郝昭は、城の楼上から即座にこれを拒み
「国から受けた恩を裏切ることはできない。ここで死ぬ覚悟で守るだけだ!」
と答えたという。
説得は完全に失敗し、諸葛亮は正攻法で攻め落とすしかなくなった。
蜀軍は、攻城兵器の雲梯(うんてい)を立てかけ、衝車(しょうしゃ)を前に押し出して、城門をこじ開けようとした。
しかし郝昭は、すぐに火矢で雲梯を焼き落とし、衝車には石臼を縄でつり下げて叩き潰すという力技で応じる。
さらに蜀軍は、高さのある井闌(せいらん)を組んで城内へ矢を撃ち込もうとしたが、郝昭はその隙に、城の内側へもう一段の壁を築き、射し込まれる角度そのものを失わせてしまった。
地道を掘って城内へ抜けようとする策にもすぐ気づき、横から回り込む形で穴をふさぎ込んだという。
諸葛亮が新しい手を出せば、郝昭はその一段上の対策で受け止める。
この攻防は、20日以上続いた。
やがて、魏の救援として費曜(ひよう)らの軍が到着し、諸葛亮は撤退を余儀なくされる。
わずか1,000名ほどで大軍を防ぎ切り、城壁を一度も抜かせなかった郝昭の名声は、この陳倉の戦いで決定的なものとなった。
戦い後の郝昭の評価
陳倉の攻略に失敗した蜀軍が撤退した後、魏の朝廷では郝昭の働きが高く評価された。
圧倒的不利な状況で陳倉を守り抜いたことは、北方防衛の観点から見ても非常に大きな成果だったからである。
帰還した郝昭は、洛陽で皇帝・曹叡(そうえい)に拝謁し、ねぎらいの言葉を受けた。
曹叡は、そばにいた中書令の孫資に向かってこう語ったという。
帝引見慰勞之,顧謂中書令孫資曰:「卿鄉里乃有爾曹快人,為將灼如此,朕復何憂乎?」
「お前の郷里(まわり)には、こんなに見事な武将がいるのか。これほどの将がいるなら、朕が何を憂えることがあろうか」
『三国志』魏書・明帝紀(裴松之注)『魏略』より引用
しかし、郝昭が中央で大きな役職に就くことはなかった。
功績を認められながらも、その後ほどなくして病で亡くなってしまったためである。
郝昭は最期にあたり、息子の郝凱(かくがい)へ、静かに言い残した。
戦場で攻城具を作るために古い墓を掘り返した経験から「厚く葬る必要などない。人は死ねば、静かに眠る場所があれば十分だ」と語り、葬りは質素にするよう諭したのである。
実戦を生き抜いた将らしい、飾り気のない現実的な価値観がよく表れている。
郝昭の名は、三国志の華々しい名将たちの陰に隠れがちである。
だが、河西を10年以上安定させた継続的な働きと、諸葛亮の大軍から陳倉を守り抜いた実績は、個人の武勇伝にとどまらない重みを持っている。
郝昭は、戦乱の時代において国家の屋台骨を支えた存在であり、その価値はもっと高く評価されるべき人物だろう。
参考 : 陳寿『三国志』明帝紀、裴松之注 引『魏略』他
文 / 草の実堂編集部