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悩んだときは『孫子』×『貞観政要』と『菜根譚』×『呻吟語』が役に立つ!

NHK出版デジタルマガジン

悩んだときは『孫子』×『貞観政要』と『菜根譚』×『呻吟語』が役に立つ!

 中国古典研究の第一人者・湯浅邦弘さんによる『中国古典の生かし方 仕事と人生の質を高める60の名言』が好評発売中です。『孫子』×『貞観政要』と、『菜根譚』×『呻吟語』の名言・格言を、身近なたとえを用いてわかりやすく解説する、ユーモア抜群の中国古典ガイドです。刊行を記念し、本書の一部を特別公開します。

(NHK出版公式note「本がひらく」より、本記事用に一部を編集して転載。)

はじめに

 漢字・漢文には人類の英智が凝縮されている。そのことは分かっていても、いざ漢文を読もうとすると、ページをめくる手が止まってしまう。漢文教科書にあった難解な返り点を悪夢のように思い出す。こういう方は多いのではなかろうか。
 
 確かに、ハードルは高い。しかし、漢文世界の入り口で引き返してしまうのは、いかにも惜しい。何とかその魅力をお伝えできないか。豊かな文化の森に足を進めていただけないか。そこで本書では、平易なエッセイによって四つの古典の精華(せいか)を抽出してみることとした。

 職場や家庭の中で誰もが体験するような出来事を通して、どのように漢文の教えが役立つのか。それを感じていただければ幸いである。

組織論・リーダー論の最高傑作『孫子』×『貞観政要』

 人が集まると組織ができ、組織が大きくなるとリーダーが求められる。リーダーは集団をまとめ、メンバーを指導してその運営に努める。一方、他の人々も別の組織を作り、またリーダーを立てる。すると、複数の組織がたがいに連携したり協力したりする一方で、時に競争や対立も起こる。そこでリーダーは、その集団内部の問題とともに、対外的な課題についても重要な判断を迫られる。
 
 こうして、組織論・リーダー論は人類の普遍的なテーマとなった。では、この問題を明確に自覚し、その指針や解決方法をはっきり文字で記すということは、いつ頃から始まるのだろうか。
 
 東洋の世界では、おそらく孫子(そんし)からではなかろうか。今から二千五百年前、呉(ご)の軍師であった孫武(そんぶ)(孫子)は戦争形態の大きな変化を踏まえて名著『孫子』を残した。いわゆる「孫子の兵法」である。それは、戦争という事象を通じて、人間や組織の本質を探ろうとする哲学の書であった。だから時空を超えて今も読み継がれている。

『孫子』は、将軍の備えるべき最も大切な条件として冷静な知性をあげる。この将軍を現代社会のリーダーに置き換えても、充分に通用する提言となる。また組織の真の強さは個人のスタンドプレーよりも全体の勢いにあるとする。これまた今に生きる教訓となろう。
 
 一方、それから約千年の後、唐(とう)の時代に編纂された『貞観政要(じょうがんせいよう)』も、『孫子』とはまた異なる観点から組織とリーダーについて論じた。唐の第二代皇帝太宗(たいそう)とその臣下たちとの問答録である。
 
 その頃、中国は儒教の国家となっていた。またそれまでに、いくつもの王朝が興亡の歴史を刻んでいた。そうした思想と歴史を背景として、『孫子』とはまた異なる観点から、リーダーの最重要の資質は何か、有能な人材をどう獲得するか、どうしたら部下はついてくるか、組織を継続発展させていく秘訣は何か。太宗たちは議論を交わした。

『孫子』と『貞観政要』は、組織論・リーダー論の二大傑作であるとともに、対照的な古典であるとも言える。二千五百年前の乱世を背景にした『孫子』とそれから約千年後の太平の世に生まれた『貞観政要』。軍師一人が思索した『孫子』と君臣問答で構成される『貞観政要』。兵家の思想を凝縮した『孫子』と儒教の理念を尊重した『貞観政要』。こうした違いは組織論・リーダー論にどのような変化をもたらしたのか、またその違いを超えて継承された普遍的要素は何か。二つの古典を併せ読むことで、その答えが得られるかもしれない。
 
 この二冊を緩やかに対照させながら、今を生きる私たちにとって何が大切なのかを考えてみたい。

算多きものは勝つ

「よい仕事」とはどのようなものだろうか。

 一種の興奮とともに着想され、熱い気持ちで挑んだ仕事。
 良い仲間に恵まれ、集団の力で支え合いながら達成できた仕事。
 一過性で終わらずに、次への展開と飛躍が大いに期待される仕事。
 成果が自分の利益だけではなく、社会への貢献にもなるような仕事。
 
 今、思いつくままに書いてみれば、このようなものが浮かぶ。ただその前提として、一つ忘れてはならない大きな要素がある。それは、事前の情報収集とそれに基づく計画立案ではなかろうか。
 
 大阪には「いらち」の文化がある。古語「苛(いら)つ」に由来する「せっかち」という意味。走り出してから考えるという創業者も多かった。それで成功した事例も多い。ただ、大きな成功、長続きする成功の前提には、入念な計画が欠かせない。
 
 今から二千五百年前、古代中国の孫子は兵法の名著『孫子』を残した。世界最古の、また最高の兵書として今も読み継がれている。その冒頭、『孫子』は「計(けい)」という篇を掲げ、その中で、情報収集の大切さと事前分析の重要性を力説している。

算(さん)多きは勝ち、算少なきは勝たず。而(しか)るを況いわんや算無きに於(お)いてをや。吾れ此(こ)れを以て之を観(み)れば、勝負見(あら)わる。

事前の図上演習の段階で勝算が多い者は実際の戦闘においても勝利し、勝算が少ない者は勝つことができない。ましてや勝算がまったくない者においてはなおさらである。私[孫武]はこの廟算(びょうさん)の方法によって分析するので、勝敗は事前に自ずから明らかになるのである。

 (『孫子』計篇)

 戦う前に勝利の確信が得られるのは「算多ければなり」、つまり「勝算」が多いからだと説いている。敵と味方でどちらのリーダーがすぐれているか、どちらの兵力が多いか、どちらが地の利を得ているか、どちらの指揮系統が徹底しているか、などの指標により計「算」するのである。それで明らかな勝算が立ってはじめて開戦してもよいと説く。「算」が敵より少ないときは思いとどまるべきで、ましてや「算」がまったくないときは言うまでもないと説く。

 『孫子』がことさら事前計画にこだわるのは、当時の社会情勢や戦争形態の激変があったからである。それまでは貴族戦士による小規模な戦い。適度なところで講和を結び、たがいに撤退する。ところが孫子の時代には国家総動員の大規模な長期戦となり、勝敗がそのまま国家の興亡に直結するようになったのである。一国の歩兵動員能力は数十万にふくれあがった。そこでは「いらち」による軽率な行動は許されない。

 そこでまず情報の入手が大切となる。インターネットや軍事衛星はないから、間諜(かんちょう)(スパイ)のもたらした情報ということになる。ここにお金を惜しんではならないと孫子は言う。目に見える大きな「物」にではなく、目に見えない「情報」にこそお金を使うべきだと説いている。そして情報分析の際には、忖度(そんたく)や情緒や期待を持ち込んではならないとも言う。誰もが納得できるように数値化した上で、客観的に是非を判断する。
 
 こうした思考を『孫子』は二千五百年前に披露(ひろう)しているのである。高度情報化社会と呼ばれる現代にもそのまま通ずる思想だと言えよう。情報を精査し、計画を立てる。「いらつ」のはそれからである。

著者プロフィール

湯浅邦弘(ゆあさ・くにひろ)
1957年、島根県生まれ。大阪大学名誉教授。大阪大学大学院文学研究科修了。博士(文学)。北海道教育大学講師、島根大学助教授、大阪大学助教授、同大学大学院教授を歴任。専攻は中国思想史。著書に『菜根譚』『孫子・三十六計』『貞観政要』『呻吟語』(以上、角川ソフィア文庫)、『菜根譚』『論語』『諸子百家』(以上、中公新書)、『別冊NHK100分de名著 老子×孫子』(共著)、『別冊NHK100分de名著 菜根譚×呻吟語』など多数。

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