形見の重機と土地を引き継いで…「ここで生きる」米農家の思い【北海道胆振東部地震6年】
黄金色に輝き、頭を垂れる稲穂。
「実りの秋」を迎えるのは、あの日以来6年ぶりのことです。
大きな被害を受けた厚真町では、道路や農業用地の復旧は完了しましたが、約4300ヘクタールの森林は、再生のめどが立っていません。
6年前、最大震度7の揺れを観測した胆振東部地震では、災害関連死を含めて44人が亡くなりました。
土砂崩れで住民19人が犠牲となった厚真町の吉野地区には、地元の住民らが訪れて手を合わせました。
友人を亡くしたという人は「ここまで来たよ、やっと落ち着いたよと友人に報告した。きょうよりあしたのことを考えてこれからも生きていこうと思う」と前を向きます。
安平町の住職は、被災した人々に寄り添い続けたいと話します。
「いつか必ず胆振東部地震があったことを知らない世代が出てくる。寂しさを背負って生きている遺族の思いを伝えていきたい」
家族と復興目指すその場所は
大規模な地震が切迫している北海道内。
復興と防災を誓い、あらためて備えを確認する1日です。
胆振東部地震から6年がたった9月6日。被害の大きかった地域では、住民らが犠牲者を追悼する姿が見られました。
慰霊碑から10分ほど離れた献花台には地元の人だけでなく、札幌からも花を手向けに多くの人が訪れました。
地震から6年が経ちましたが、被災地では依然復旧作業が続いています。
厚真町に住む佐藤泰夫さん(69)。
地震が起きたそのとき、「立ち木が流されていくのがシルエットとして見えた」といいます。
米農家として、酒米やななつぼしなどを栽培する佐藤さん。
妻や息子の生海(いくみ)さんらと共に復興を目指しています。
この日も、新たに始めようとしているハウス野菜などに使う水路を造る作業を生海さんと2人で行いました。
住んでいた地域は「7割程度復旧した」一方、「農地はほとんど復旧したが、安心して住める場所ではなくなった」といいます。
住民がどんどんと引っ越してしまい、人口の減少が加速するという影響も出ています。
2人が作業しているこの場所は、地震が起きた時は泰夫さんのいとこで同じく米農家だった佐藤正芳さんが暮らしていました。
正芳さんは、地震によって発生した土砂崩れに家ごと巻き込まれました。
形見に残った重機で
「大丈夫かと言っても全然返事なくて、どこにいるかも分からないし。参った」
当時、正芳さんの家の向かいに住んでいた泰夫さんも自宅が半壊。
生海さんと2人で外に出た時に見えたのは、変わり果てたマチの光景でした。
正芳さんが見つかったのは、地震発生から3日後。
行方不明者の捜索で最後から2番目に発見されました。
遺体の損傷が激しく、最期の姿を見ることはかないませんでした。
唯一、形見として残ったのは、正芳さんが震災の年の春頃に買ったという重機です。
「ドアも開かなかったが何とかこじ開けて、今度は鍵があるかどうか分からなかったのだけど、カップホルダーの中に鍵が置かれていて…『使ってくれ』と置いてくれたのかな。使いたかっただろうな」
正芳さんが遺した重機を使って農地を復旧させ、この春、泰夫さんは正芳さんの土地を引き継ぐことになりました。
「将来的に山の際に建物を建てる気はないので、ちょっとした果樹などを育てようかと」
本業の米の収穫も、もうすぐ最盛期を迎えます。
この場所に安心して過ごせる休憩所を作ることが、いまの目標です。
「農地は動かす事ができないので、そこでやるしかないから、先祖からの農地を守っていければ」
【特集】“じぶんごと”防災
文:HBC報道部
編集:Sitakke編集部あい
※掲載の内容は「今日ドキッ!」放送時(2024年9月6日)の情報に基づきます。