石田三成は、なぜ「襲撃」を受けるほど嫌われたのか? 【三成襲撃事件】
石田三成は、天下分け目の戦いとされる「関ヶ原の戦い」において、豊臣方の西軍を率いて徳川家康率いる東軍と戦って敗北し、処刑されたことで知られている。
そんな三成は、あまり人望が無かったとされている。
当時から周囲の三成への恨みは根深く、それが「関ヶ原の戦い」にも大きく影響した。
なぜ三成は、そこまで嫌われていたのだろうか。
関ヶ原の戦い勃発の背景
豊臣秀吉が死去すると、天下は不安定な状況に陥った。
多くの武功派武将は、依然として朝鮮出兵に従事していたが、秀吉の側近である三成をはじめとする奉行たちは、国内の安定を図るための対応に追われていた。
秀吉は、息子の秀頼に権力が円滑に継承されるように「五大老・五奉行」という体制を遺していた。
この制度には、徳川家康が五大老の筆頭として、石田三成が五奉行の一員として参加していた。
三成は豊臣家の結束を図り、朝鮮出兵から帰国した武将たちに「豊臣家のために一致団結し、秀頼公を支えよう」と呼びかけたものの、その願いは叶わなかった。
これは、三成が武功派の武将たちから嫌われていたためである。
三成の冷徹な性格や行政手腕が、戦功を重んじる武将たちの反感を招いていたのだ。
このような状況の中、家康は巧妙に自身の勢力を拡大していった。三成を嫌う武功派の武将たちと手を結び、次第に豊臣家内での発言力を強めていった。
一方で、孤立を深めた三成は蟄居となり、これが後に関ヶ原の戦いへと繋がる序章となったのである。
石田三成が人望を失った理由
なぜ三成は嫌われたのだろうか。その原因は普段の態度にあったとされる。
三成は、秀吉に対して強い忠誠心を持っていた。
元々は「寺で学んでいた一介の少年」でしかなかった三成を見出し、天下の政務に関与するまでに育て上げたのは他ならぬ秀吉である。
この深い恩義ゆえ、秀吉に対して忠実であろうとしすぎるあまり、他の武将たちに対して厳格かつ冷淡な態度を取ることが多く、これが反感を招く一因となっていた。
たとえばこんなエピソードがある。
ある10月、毛利輝元は季節外れの桃を「珍しいものだからぜひ」と秀吉に献上しようとした。
しかし、仲介役である三成は「季節外れの桃を食べて、太閤殿下が体調を崩されたらどうするのか」と、これを突き返してしまったという。
輝元は中国地方を治める有力な大名であり、五大老の一員でもあった。
三成にとっては、秀吉の健康を守るための正しい判断であったが、このような杓子定規な態度は、周囲の大名や武将たちから「融通が利かない」として反感を買った。
このように、三成の忠誠心は評価される一方で、その厳格さや不器用さが嫌われる要因となっていたのである。
豊臣子飼い武将たちとの対立
秀吉は、低い身分から天下人へと成り上がったため、譜代の家臣を持つことができず、優秀な若者たちを自ら登用して育て上げた。
この「子飼い」と呼ばれる武将たちの中には、三成がいた。しかし、三成は他の「子飼い」の中でも、特に加藤清正や福島正則といった武断派(豊臣政権で軍務を担った諸将たち)から反感を抱かれていた。
三成は、主に行政手腕を発揮する文治派として活躍し、太閤検地や刀狩など、豊臣政権の重要な政策を実行して大いに貢献した。
しかし、戦場では主に後方支援で華々しい戦功には恵まれず、三成が指揮を執った「忍城攻め」では攻めあぐね、軍事的な評価は低かった。
一方、加藤清正や福島正則は戦場での武勇を誇る武断派であり、特に賤ヶ岳の戦いでは「賤ヶ岳七本槍」として功名をあげている。
しかし、秀吉が天下統一を果たしたことで戦は減少し、行政手腕が重視されるようになった。これにより、三成のような文治派の武将が指示を出す立場となり、武断派の武将たちとの間に緊張が生まれたのだ。
特に福島正則は、三成に強い敵意を抱いていたとされている。
また、三成は大名として高い石高を持っていたわけではない。近江佐和山城の城主として19万4000石を治めていたが、その石高に似合わず大きな権力を持っていた。
それは秀吉の側近、代理として権力を行使していたからである。他の武将たちからは「虎の威を借る狐」のように映ったことだろう。
特に、朝鮮出兵における出来事は、加藤清正との対立を決定的なものとした。
清正をはじめとする武断派の面々は朝鮮の最前線で戦ったが、三成はその様子を秀吉に代わって監視し、報告する立場だった。
ある時、三成の報告を受けた秀吉は、清正の軍事行動に不満を抱き、厳しく叱責し、蟄居を命じた。
清正にとっては納得のいかない話であった。
この処分に対し、清正は「三成の報告が原因だ」と怒り、強い敵意を抱くようになったとされている。
石田三成襲撃事件
秀吉の死後、武断派の武将たちの長年の不満が一気に爆発し、ついに「三成襲撃事件」が勃発した。
襲撃を計画したのは、武断派の歴戦の名将たち7人であった。
資料によってメンバーに違いはあるが、家康の書状によると以下の人物である。
・加藤清正
・福島正則
・浅野幸長
・黒田長政
・蜂須賀家政
・藤堂高虎
・細川忠興※池田輝政、加藤嘉明が入る場合もある
彼らの多くは朝鮮出兵で戦った者たちで、三成の讒言(蔚山城の戦いにおいての報告内容)によって不利益を被ったとして、三成を打ち果たそうと屋敷まで押しかけた。
三成は運良く事前に察知し難を逃れ、家康の仲介で命は助かったが、ひどく落ち込んだという。
両者には大きな溝が残り、その後の関ヶ原の戦いへと繋がっていくのである。
おわりに
石田三成は、襲撃を受けるほど嫌われていた。
だが三成が悪人だったかというと、そうではないだろう。
実直すぎるが故に融通がきかないという欠点はあったが、誰よりも忠義に厚い人物だったといえるだろう。
戦国の世においては清廉潔白すぎたのかも知れない。
参考:『石田三成伝』『歴史道』他
文 / 草の実堂編集部
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