本能寺の変の黒幕は斎藤利三? 明智光秀たちを追い詰めた「四国問題」説とは
本能寺の変は、日本史上最も有名な政変であり、これまでさまざまな説が議論されてきた。
羽柴秀吉黒幕説やイエズス会黒幕説、明智光秀の個人的な怨恨説など、その解釈は多岐にわたる。
そして近年、斎藤利三(さいとうとしみつ)の関与に着目した「四国説」も改めて注目されている。この説では、本能寺の変の背景として、織田信長と長宗我部元親の関係悪化が影響した可能性が指摘されている。
今回は、四国問題が本能寺の変にどのように影響を与えたのか、そして光秀の重臣である斎藤利三がどのように関わっていたのかを探っていく。
本能寺の変が起こる前、四国で起こっていた問題
織田信長は天下統一を進める中で、四国にも勢力を拡大しようとしていた。
その頃、土佐を統一していた長宗我部元親は、信長の正室の縁戚関係を利用し、外交関係を築いていた。
天正3年(1575年)頃から天正8年(1580年)末まで、信長と元親の関係は良好であったことが『信長公記』にも記されている。
両者の交渉には明智光秀が関与し、長宗我部氏との取次を務めたが、光秀の家臣である斎藤利三や、元親の縁戚である石谷光政も深く関与していた。
このため、信長と元親のやり取りは、基本的に光秀派のネットワークを通じて行われていた。
四国統一を狙う元親は、三好氏の勢力が弱まる中で、伊予(愛媛県)・阿波(徳島県)・讃岐(香川県)の三カ国が隣接する白地に拠点を築き、阿波国内へ進出した。
さらに讃岐の西部を掌握し、四国での影響力を拡大していった。
この時期、信長は元親の四国での支配拡大を明確には否定せず、一定の理解を示していた。
しかし、四国において元親と対立する三好氏もまた信長に臣従していた。三好氏側の窓口となっていたのは三好康長であり、彼は信長の庇護のもとで勢力の再興を図っていた。
天正8年(1580年)、信長は元親の四国制覇を容認する態度を変え、土佐と阿波南半国のみの領有とし、臣従するよう迫った。
しかし、元親はこの命令を拒絶し、信長との関係は決裂したとされる。
天正9年(1581年)3月になると、信長の支援を受けた三好康長・十河存保が元親への反攻を開始。
こうした織田方の動きが強まる中で、元親の四国支配は次第に不安定になっていった。
元親は「四国の領土は自らの武力で切り取ったものであり、信長からの恩賞ではない」と主張し、信長の要求には最後まで応じなかった。
こうして本能寺の変が勃発する直前、信長と元親の関係は決裂し、対立は深刻なものとなっていたのだ。
斎藤利三の動向
長宗我部元親の説得を担っていたのは、前述したように明智光秀とその家臣である斎藤利三であった。
特に利三は、元親の義兄にあたり、密接な関係を持っていた。
元親の妻は石谷光政の次女であり、光政の娘を妻とした利三の兄・石谷頼辰が石谷家を継いでいた。このため、利三と元親は義理の兄弟にあたり、四国政策の交渉に深く関与することとなった。さらに、利三は元親の外交を支えた蜷川家とも強い結びつきを持っていた。
天正10年(1582年)、信長は長宗我部氏に対する軍事行動をいよいよ本格化させはじめる。
利三は石谷光政とともに元親の説得を担い、同年1月には土佐の光政に宛てて「信長の命令を受け入れることが長宗我部家のためである」との書状を送っている。
この間、信長は元親の説得を待たず、四国攻めの決行を決定し、総大将に三男の信孝を任命した。さらに、5月上旬には丹羽長秀・蜂屋頼隆・津田信澄らを副将とする四国派遣軍を編成し、軍勢は5月下旬には大坂へ集結しつつあった。
光秀には羽柴秀吉の配下として中国攻めへの従軍を命じた。
この人事により、光秀は四国政策から排除され、面目が潰れる形となった。
斉藤利三の別の問題
一方で、利三は別の大きな問題を抱えていた。
天正10年(1582年)5月27日、信長は利三に死罪を命じたとされる。『※稲葉家譜』
これは、光秀が稲葉一鉄の家臣・那波直治を引き抜いたことが原因とされ、信長は光秀を叱責した上で、引き抜きの助言をした利三に死罪を言い渡したという。
しかし、光秀はこれに反発し、利三を庇って匿ったとも伝えられる。この一件により、利三は信長に対して強い不満を抱いただろう。
こうして、光秀と利三はともに追い詰められていった。
光秀は四国政策の転換によって信長からの信頼を失い、さらに家臣の処罰をめぐって圧力を受けていた形となる。このままでは、光秀の影響力は完全に失われ、利三も処刑される可能性が高まっていた。
こうした状況の中で、本能寺の変が勃発したのである。
本能寺の変と斎藤利三の最期
天正10年(1582年)6月2日未明、明智光秀の軍勢は京都本能寺を包囲し、信長を襲撃した。
この本能寺の変において、斎藤利三の関与は極めて大きかったとされる。
『言経卿記』(公卿・山科言経の日記)には、「今度謀反随一也」と記されており、当時から利三が変の中心人物と見なされていたことがうかがえる。
また、江戸時代の加賀藩士・関屋政春が著した『乙夜之書物』には、「光秀は本能寺におらず鳥羽に控えていた」との記述がある。
この記録は、本能寺の変に従軍した斎藤利三の三男・斎藤利宗が、加賀藩士である甥に語った内容に基づくものである。
これが事実であれば、本能寺襲撃の直接の指揮を執ったのは利三だった可能性がある。ただし、『乙夜之書物』は本能寺の変から約90年後に成立したものであり、後世の脚色の可能性もあるため、史料の信憑性には議論の余地がある。
本能寺の変後、光秀は安土城を掌握し、織田政権の中枢を支配下に置こうとした。しかし、羽柴秀吉が「中国大返し」を決行し、短期間で京都へと戻ると、状況は急変する。
6月13日、光秀軍は山崎の戦いで秀吉軍と激突したが、決定的な敗北を喫した。
光秀は坂本城を目指して落ち延びたが、その途中で落武者狩りに遭い、最期を遂げたとされる。
斎藤利三は最後まで抵抗したが、捕えられて六条河原で処刑された。
本能寺の変の黒幕については今も議論が続いているが、斎藤利三の役割の大きさを示す史料は数多く残されている。
光秀とともに四国政策の転換によって追い詰められた利三が、本能寺の変において積極的な役割を果たしたことは確かであり、近年では彼を本能寺の変の首謀者とみる説も改めて注目されている。
参考:
『乙夜之書物』『言経卿記』
『本能寺の変の首謀者はだれか 信長と光秀、そして斎藤利三』
『明智光秀と斎藤利三 本能寺の変のカギを握る二人の武将』他
文 / 草の実堂編集部