#4 「釈迦の仏教」の厳しさとは――佐々木 閑さんが読む、『般若心経』【NHK100分de名著ブックス一挙公開】
佐々木 閑さんによる、『般若心経』読み解き
月曜日は「名著ブックス」
「見えない力」を味方にする――。
日本人にとって最もなじみの深いお経といえる『般若心経』。その実体は、「釈迦の仏教」を乗り越え、自らが仏へと至る“神秘力”を得るための重要なファクターだった――。
『NHK「100分de名著」ブックス 般若心経』では、「空」とは何か、「色即是空」の意味とは何か? わずか262文字の言葉に、般若経の神髄を表したとされる“呪文経典”の全貌を、佐々木閑さんが解説していきます。
今回は、本書より「はじめに」と「第1章」を全文特別公開いたします(第4回/全6回)
第3回はこちら
「頂は一つ」ではない
日本の仏教ではよく、「宗派は違っても、めざす山の頂は一つ」などと言って根本の部分の共通性を強調します。「みんなで一緒に頑張りましょう」といった程度の感覚ならそれでいいのですが、場合によってはそれが、とても危険な方向に進むこともあります。私たちはお互いが皆違っているということを理解して初めて、自分とは全く違う人の価値を認めることができるのに、それを一本化して、違いを無視することで他者の独立性を侵害することになるからです。
「違っているようにみえても、実はみんな一緒なんだ」という思いの中には、自分とは違う他者を、無理矢理自分の世界に取り込んでしまおうという身勝手な気持ちが入っています。つまり「君は違うと言い張っているが、実は君はぼくの世界の一部なんだ。一緒なんだ。だからぼくと仲良く付き合いたまえ」という思いです。
物事を正しく見るためには、違うものは違う、同じものは同じ、あるがままにその姿を受け入れねばなりません。「釈迦の仏教」と大乗仏教にしても、むやみに「本質は同じだ」「向かう山の頂は同じだ」などと共通性ばかり強調すると、大きな落とし穴にはまって仏教の意味を見落としてしまいます。
「釈迦の仏教」には釈迦の仏教にしかできない仕事があり、大乗仏教には大乗仏教にしか為し得ない働きがある。そう思ってこそ、仏教はどんな人にとっても助けとなる、幅の広い宗教として存在することができるのです。「みんな一緒だ」という主張には「みんな私と一緒だ」という自分中心のものの見方がひそんでいることが多いのです。
たとえばさきほど、「釈迦の仏教」の特徴は完全な「自利」をベースにした「利他」であると申しましたが、多くの大乗仏教の特徴はベースが初めから「利他」です。「他者のため」という思いがとても重視されるのです。なぜそのような違いが生まれたかというと、「釈迦の仏教」にゆるやかさがなかったからです。「釈迦の仏教」の考え方は基本的に「自分の問題は自分で解決しなさい」という峻厳なものであり、誰かが不思議な力で救ってくれるというものではありません。道は釈迦が示してくれますが、その道を歩むのは自分です。誰でもがついていけるものではないので、出家者になれるのは、いきおい健康で意志堅固で条件に恵まれた人に限られます。となると、女性や老人、病人など、本当に救いの必要な弱者は取り残されてしまいます。その意味では、大乗仏教の登場には、修行の道に入りたくても入れない人々の気持ちに応えるという側面もあったのです。
日本はほぼ完全な大乗仏教国で、「祈って救われる仏教」がスタンダードだと思われていますが、それに比べておおもとの「釈迦の仏教」がどのくらい厳しいものか、例を挙げて説明しましょう。
たとえば、心に大きな苦しみを抱いていて、仏教の助けを借りたいと思っている人がいるとします。大乗仏教ならば、毎日仏像に向かって祈りを捧げるとか、仏の名前を一心に唱えるとか、お経を読むとか、いろいろ方法はあります。とにかく仏の力を信じ崇めれば救われるという思いがあります。しかし、「釈迦の仏教」はそのようなわけにいかないのです。
本気で仏道に励みたいと思ったら、出家して「サンガ(僧団)」と呼ばれる組織に入らねばなりません。そのためには、仕事も、地位も、財産も、家族も、それまで持っていたものすべてを手放さなければなりません。よほどの決意がなければできないことです。まずここからしてハードルが高いのです。
なぜ在家ではいけないかというと、「釈迦の仏教」は自力で修行し、自力で煩悩を滅し、自力で自分を救うことを求めます。その実現のためには毎日瞑想を続け、悟りを目指して自分の心と向きあわねばなりません。これは並大抵のことではなく、そのための集中した生活に入らなければ無理なのです。
私は「釈迦の仏教」というものが、私たちの苦しみを消すための、ほぼ完璧な教えだと思って心から崇敬しているのですが、だからといって、どんな状態の人でも救える万能薬だとは思いません。「釈迦の仏教」を受け入れるには、それなりの覚悟が必要です。「自分の力で自分を変える」という決意を持ち、そのための努力を続ける意思のある人にだけ、「釈迦の仏教」は力を与えてくれます。
もちろん出家しなくても、修行する余裕さえあれば日常生活の中で仏道を修めることも可能ですから、生活状況が向上した現代社会ならば普段の暮らしに修行を取り入れることもできます。実際そういうスタイルで生活している人もたくさんおられます。「釈迦の仏教」は、現代社会でこそ、その効力を発揮できる教えです。しかし、それでもやはり、本人の固い決意を必要とする点、厳しい道であることは変わりません。
ましてや古代インドの過酷な生活の中、仕事と修行を両立させるなど、とても無理な時代でした。ですから当時の人々は、本気で修行するなら出家するしかないと考えました。悟りへの道のハードルは高かったのです。
そして、そのような難問をクリアして仏門に入ったとしても、そこにまた大きな壁があります。「釈迦の仏教」のもとでは、どんなに立派な修行者でも、釈迦のようなブッダになることはできません。つまり、仏教世界における最高の聖者には、決してなることができないのです。
なぜブッダになれないかというと、ブッダと呼ばれる存在は世界でたった一人、つまり同時に二人以上のブッダは世に現れないという決まりになっているからです。また、そのたった一人のブッダが亡くなると、次のブッダが現れるまでに何十億年(!)も待たねばならないとされています。それだけではありません。「自分がブッダになるためには、過去の世で過去のブッダに直接会って、決意の誓いを立て、よろしいという返答をもらっていなければならない」という決まりもあるのです。
まとめるとこうなります。「釈迦の仏教」では、ブッダと呼ばれる人はこの世に一人しか現れません。そのブッダが亡くなると、何十億年という長い間、ブッダのいない時期が続き、そしてまた別のブッダが現れる、というサイクルが繰り返されるのです。釈迦という人物は、そういう何十億年に一人しか現れないブッダの中の一人なのです。
ブッダというのは、とてつもなく素晴らしい智慧を持ち、その力で多くの生き物を苦しみから救ってくれる特別な偉人ですから、めったに現れないのです。したがって、一般の人々がブッダになることを目指して修行するなどということは普通あり得ません。日本では簡単に「仏になる」とか「成仏する」といった言葉を口にしますが、本来の「釈迦の仏教」ではあり得ないことです。「釈迦の仏教」を信奉する人たちは、釈迦という一人のブッダが説いてくださった教えにしたがって出家修行を続け、それによって阿羅漢(あらかん)と呼ばれる、ブッダよりもずっとランクの低い聖者になることを目指すのです。阿羅漢だって「悟りを開いた人」ですから素晴らしいのですが、ブッダほどの救済力はありません。ブッダは特別なのです。
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著者
佐々木 閑(ささき・しずか)
花園大学文学部仏教学科教授。文学博士。専門は仏教哲学、古代インド仏教学、仏教史。日本印度学仏教学会賞、鈴木学術財団特別賞受賞。著書に『出家とはなにか』(大蔵出版)、『日々是修行』(ちくま新書)、『NHK「100分de名著」ブックス ブッダ 真理のことば』、『ゴータマは、いかにしてブッダとなったのか』(NHK出版)、など。翻訳に鈴木大拙著『大乗仏教概論』(岩波書店)などがある
※著者略歴は全て刊行当時の情報です。
■「100分de名著ブックス 般若心経」(佐々木 閑著)より抜粋
■書籍に掲載の脚注、図版、写真、ルビなどは、記事から割愛しております。
*本書は、「NHK100分de名著」において、2013年1月に放送された「般若心経」のテキストを底本として一部加筆・修正し、新たにブックス特別章「「私とはなにか」を再考する」などを収載したものです。