【追悼:クインシー・ジョーンズ】世界で最も成功した音楽プロデューサーのマジックとは?
リ・リ・リリッスン・エイティーズ〜80年代を聴き返す〜Vol.58
The Dude / Quincy Jones
最も成功した音楽プロデューサー、クインシー・ジョーンズ
11月3日にクインシー・ジョーンズが亡くなりました。91歳。おそらく世界で最も有名、かつ最も成功した音楽プロデューサーですよね。なんせ、売上枚数が史上第1位のアルバム『スリラー』と第3位のシングル「ウィ・アー・ザ・ワールド」の両方をプロデュースしているんですから。
晩年、あるインタビューで “あなたがこれまで試みて、成功できなかったものがありますか?” と訊かれた彼の答えは “結婚”。たしかに生涯で3回、離婚しています。そして、パートナーで終わった4人目を含め、いずれも白人の美形。黒人と白人でうまくいかなかったのかな? とか、ハンサムだったから浮気かな?とか思いきや、全員、離婚の理由は “仕事ばかりでいっしょにいてくれないから” というもの。ワーカホリックだったんでしょうね。
ともかく、結婚以外は失敗した経験が思い当たらない、ということです。10代の半ばからジャズトランペッターとして活躍。1955年、ダイナ・ワシントン『フォー・ゾーズ・イン・ラヴ』でアレンジャーとして注目を集め、1961年、マーキュリー・レコードの音楽制作担当副社長に抜擢されると、1963年にレスリー・ゴーアの「涙のバースデイ・パーティ」をプロデュースして、全米シングルチャートの1位を獲得、1964年から、フランク・シナトラのバックを務める “カウント・ベイシー・オーケストラ” のアレンジと指揮を任されたのと並行して、シドニー・ルメット監督映画『質屋』を皮切りに、映画やドラマ音楽も次々と引き受けます。
その流れで、ルメット監督に音楽監督を依頼された映画「ウィズ」(The Wiz / 1978年)で出会ったのが、“かかし" 役で出演したマイケル・ジャクソン。マイケルから “次のソロアルバムのプロデューサーは誰がいいかな?” と相談され 、“俺じゃダメかい?” と応えて、『オフ・ザ・ウォール』(1979年)をプロデュースすることになったのでした。
超多忙期にリリースした自身のアルバム「愛のコリーダ」
その後の数年は、失敗しないクインシーの中でも、特に華々しい成果に恵まれた期間でした。既にジャクソン5で人気者だったマイケルですが、1975年の前作『フォーエヴァー・マイケル』は全米101位止まり。『オフ・ザ・ウォール』が世界で2,000万枚以上も売れるとは、マイケル自身もクインシーも予想だにしていなかったでしょう。まあ、こんなビッグヒットは誰も予想できるものではありませんが。
また、ここまでの特大ヒットだと、次の作品は、ふつうなら売上が下がるだろうし、内容も比べられて、とやかく言われるだろうから、とてもやりにくいものだと思いますが、マイケル&クインシーの場合は、1982年の次作『スリラー』も、軽々と前作を超えていきました。連続ホームランどころか、今度は遥か場外へ飛んでいったって感じです。
そしてクインシーは、そんな2本の大ホームランの間に、1980年にジョージ・ベンソンの『ギヴ・ミー・ザ・ナイト』(全米3位)やブラザース・ジョンソンの『ライト・アップ・ザ・ナイト』(全米5位)。1981年に自身のアルバム『愛のコリーダ』(全米9位)などもプロデュースしています。
“自身のアルバム” と言っても、彼は歌わないし、楽器も演奏しません。アレンジすら全9曲中5曲しかやってなくて、残りはお気に入りの作曲家、ロッド・テンパートンに任せています。要するに、プロデューサーとして全体をまとめているということなんですが、そういうものなら、この忙しい時期に、あえて出さなくてもよかったような気もします。
実はクインシー、こういう形の自身名義のアルバム、いっぱい出しています。50〜60年代はジャズ、70年代からはフュージョンぽくなりながら、ほぼ毎年1枚のペース。ジャズの人は元々基本一発録りなので、アルバムの数が多い傾向がありますが、その伝統を踏襲しているのかもしれませんね。その習慣で、忙しいんだけど、なんとなく出してしまったか。
あるいは… このアルバムではジェイムズ・イングラム(James Ingram)とパティ・オースティン(Patti Austin)がシンガーとしてフィーチャーされています。パティは『オフ・ザ・ウォール』内の「それが恋だから」(
It's the Falling in Love)や『ギヴ・ミー・ザ・ナイト』内の「ムーディーズ・ムード」でも歌っていて、クインシーが応援していることがよく分かるし、イングラムはこのアルバムが歌手としてのデビューです。クインシーは若い才能ある彼らをアピールする場として、このアルバムを用意したのかもしれません。
「愛のコリーダ」、日本で売れ過ぎ
さて、このアルバムからは、「Ai No Corrida」(愛のコリーダ)という曲がヒットしました。全米28位、とアメリカではたいしたことないのですが、日本ではオリコンの洋楽チャートでなんと12週連続1位。日本語カバーもつくられて、1981年暮の『第32回NHK紅白歌合戦』では余興として歌われるなど、お祭り的なヒットでした。いちばんの要因はもちろん、サビで「♪あいのコリーダ」と、あまりにも分かりやすく歌っているからでしょう。そしてそれは、映画のタイトル、大島渚監督の問題作『愛のコリーダ』(1976年)と同じでした。
アルバムの原題は『The Dude』。日本語で “やつ / 野郎” の意味で、ジャケットになっているアフリカの石の彫像のことを指しているようですが、日本ではこちらも『愛のコリーダ』という邦題にされてしまいました。
この曲、実はカバーで、オリジナルはチャス・ジャンケルという人が、1980年にリリースしているのですが、大島渚の映画の主題歌でもなんでもないんです。この人が、なぜか『愛のコリーダ』という映画のタイトルを、しかも日本語タイトルを(英語タイトルは「In the Realm of the Senses」です)もってきて、曲のサビの歌詞および曲タイトルにしたのです。理由は、… よく分かりません。この映画に刺激を受けたのでしょうか? 日本語タイトルの響きが気に入ったのでしょうか?
ともかくこの曲は、クインシーには想定外だったでしょうが、日本ではちょっと “下世話” に売れ過ぎました。大島渚の『愛のコリーダ』に“乗っかって”、アメリカ人が日本語で「♪あーいのー」なんて歌って、メロディは分かりやすいし、ディスコビートで踊りやすい。要するに “媚びた” 曲だと思われた、という印象があります。私も当時はこの曲を、カッコ悪いと思いましたし、クインシー・ジョーンズという人はすごいヒットメーカーだけど、ヒット優先主義の人なんだ、などと勝手に思い込んでいました。
クインシー・ジョーンズのすごさがようやく解ってきた
でも、今は違います。「Ai No Corrida」のメロディはやはりあまりいいとは思いませんが、サウンドは素晴らしい。アレンジも繊細かつ多彩でいいのですが、このアルバムだけでなく、マイケルにせよ、ベンソンにせよ、クインシーがプロデュースするサウンドって、変な形容だけど、すごく “なめらか” に聴こえます。個々の楽器が際立たず、全体で1つの、色とりどりの織物のような音楽というか。ま、そこが以前は、ロック好きの私なんかには、引っ掛かりがない、キレイ過ぎてつまらない、と感じていたところでもあるのですが。でも、なめらかなのは、いろんな楽器の音同士が、細かいところまでピタッと噛み合っているからこそでしょう。彼が使うミュージシャンはもちろんトップクラスの人たちですが、そういう人たちを集めても、普通のプロデューサーでは、なかなかこういう音にはならないと思います。
クインシーがどんなことをやっているのかは知りようもありませんが、Netflix制作の『クインシーのすべて』という映画の中で、ブラザース・ジョンソンのレコーディング時に、スタジオで彼が語っているシーンがあります。
「音楽という“建物”を建てるときに、部屋の2、3割は空けておくんだ。神が通れるようにね。マジックが起こる空間をとっておく。レコーディングとはそのマジックを捉えて、テープに録音することなんだ。そのマジックによって音楽は人の心に伝わる。そして、“愛” を注ぐこと。愛はマジックを育てるんだ」
うーむ。解る!とまでは言えませんが、素敵な言葉ですね。あのなめらかなサウンドはマジックが、そして愛が生み出したものなんですね。改めてまた、じっくり味わってみよう。