嫉妬に狂った鬼女の【丑の刻参り】 憎い浮気相手も親族も呪い殺した「橋姫伝説」
縄文時代から存在していたという「呪術」。平安時代になり、陰陽師や修験道の世界では、さまざまな呪術が生み出されました。
そして、平安に生まれ江戸時代に流行り、現代にも伝わる有名な呪いに「丑の刻参り(うしのこくまいり)」があります。
主に、女性が憎い恋敵を呪い殺すため、真夜中に御神木に五寸釘を打ち込む儀式ですが、IT社会の現代でも、「憎い相手を呪い殺したい」という情念に共感する人は多いようです。
「丑の刻参り」で鬼女と化し、夫の愛人や親族を殺し、最後には誰彼構わず殺すことで京の都を震撼させた「橋姫伝説」をご紹介しましょう。
現代まで伝わる呪いの儀式「丑の刻参り」とは
「丑の刻」とは、真夜中の午前0時から2〜3時の間を指します。
昔から「草木も眠る丑三つ時」ともいわれ、人間はもちろん、動物や植物など生命あるもの、「家」や「水」でさえ眠りにつく時間帯とされていました。
このすべてが眠りについている静寂の時間帯に行うのが「丑の刻参り」です。
白装束を身に纏い、下駄を履き、髪を下ろし、頭には3本の火がついた蝋燭を立てた鉄の輪っかをかぶるというスタイルで、呪う相手の髪の毛などを入れた藁人形を、神社の御神木に打ち付ける儀式を行います。
さらに、その呪いを叶えるには「誰にもその姿を見られてはいけない」「7日間は続けなければならない」などの厳しいルールがあるのです。
神様を祀る神社が、なぜこのような呪いの舞台となってしまったのでしょうか。
夫の愛人を呪い殺したいと願った橋姫
丑の刻参りは、主に「夫や恋人などが浮気された女性が、その浮気相手を呪う儀式」として伝わっています。
その原型とされているのが「橋姫伝説」です。
この伝説は、『平家物語』や、『源平盛衰記』『屋代本』『太平記』などに収録されている「剣の巻」という物語の中で語られている『宇治の橋姫』の伝承に基づいています。
宇治の橋姫
時は平安時代、嵯峨天皇(786-842)の頃、ある公卿(太政官の高官で国政を担う最高の職位)の娘が、夫と別れたことから話が始まります。
この娘の夫は、愛人を作ったうえに、理不尽にも妻を捨ててしまったのです。
あまりの仕打ちに嫉妬や絶望に囚われた娘は、京都の奥座敷といわれる貴船神社に足を運び、7日間こもって「貴船大明神、私を生きながら鬼神に変えて下さい。妬ましい愛人を取り殺したいのです」と祈り続けました。
明神は、娘を哀れに思ったのか「本当に鬼になりたければ、姿を変えて宇治川に21日間浸りなさい」というお告げをしました。
娘はこの言葉に従い、髪の毛を5つに分けて結んで角に見立て、顔に朱を差し、全身に「丹」(赤い色の顔料)を塗り、3本脚の鉄輪を逆さにして被り燃える松明(蝋燭とも)を差し、さらに口には両端を燃やした松明を咥えた姿で、夜更けに大和大路をひた走って宇治川を目指したのです。
その姿はまさに鬼そのものであり、彼女を目にした者はあまりの恐ろしさに衝撃を受け、倒れて息絶えてしまうほどでした。
娘はその鬼の姿のまま、宇治川に21日間浸り続け、夫を奪った憎い女を呪い続けたのです。
この物語は「宇治の橋姫」として、今も語り継がれています。
ただ、このお話の中では丑の刻参りのシンボルである、「白装束を着て、藁人形を五寸釘で御神木に打ち付けるシーン」はでてきません。橋姫伝説がベースになったといわれる能の演目「鉄輪(かなわ)」でも五寸釘を打ち付けるシーンはないようです。
白装束・ざんばら髪・白粉を塗った顔・ロウソクを立てた鉄輪を被り、憎い相手に見立てた藁人形を五寸釘で御神木に打ち込む……現代に伝わる、丑の刻参りの方法は、江戸時代に完成したといわれています。(口には櫛を加えるという説も)
呪われた相手は、藁人形に釘を打ち込まれた部分から発病するとされていました。
いつしか無差別に殺す「鬼」と化した橋姫
本格的な「鬼」と化した橋姫は、憎き夫の愛人だけではなく、その親類縁者をも手にかけるようになり、やがて無差別に殺戮を繰り返すようになりました。
橋姫は、女を殺すときには「男の鬼」に、男を殺すときには「女の鬼」に変身するようになり、京の都に住む人々は橋姫に出会わないよう、申の時(午後3時〜5時ごろ)を過ぎると、外出をやめ、人に家を入れないようにしました。
源綱に腕を斬られた橋姫
橋姫の恐怖に支配されてしまった京の都を案じ、派遣されたのが源頼光の家臣・源綱(みなもとのつな/渡辺綱)でした。
源綱は、夜の都を巡回していた際、一条堀川の戻り橋で若い女性に出会います。
「夜は危険ですので、お送りしましょう」と声をかけて一緒に歩いていると、その女性は突然鬼に姿を変え、「愛宕山へ行きましょう」と言って源綱の腕を掴んだのです。
驚いた源綱は、用意していた名刀「鬚切(ひげきり)」で鬼女の腕を斬り落としました。すると、鬼は斬られた腕を残したまま、愛宕山へと飛び去ってしまったのです。
その後、源綱は斬り落とした鬼の腕を源頼光に見せました。
驚愕した頼光は、陰陽師の安倍晴明を招き、鬼の力を封印してもらったという伝説が残されています。
橋姫を祀る宇治の「橋姫神社」
京都の都を震撼させた橋姫ですが、安倍晴明の力によるものかどうかは定かではないものの、後に「都の守護神となる」と誓いを立て、宇治川に身を投げたという話もあります
また、彼女は帝に仕える女房の夢枕に立ち、「社殿を設けて祀って欲しい」と告げたとも言われています。
京都府宇治市にある橋姫神社には、橋姫と※瀬織津姫が祭神として祀られています。
※瀬織津姫(せつおりひめ):水神や祓神、瀧神、川神、海の神とされ「人の穢れを早川の瀬で浄める」祓祓い浄めの女神。
この神社は、1867年の洪水で流出するまでは宇治橋の西詰にありました。
境内には水の神である住吉神社も並んで祀られています。
丑の刻参りの橋姫は、嫉妬の炎を燃やし夫の愛人を葬ったことから、橋姫神社は「縁切りの神様」としても知られています。
「橋姫」の哀しいアナザーストーリー
j実は「宇治の橋姫」の話には、嫉妬の鬼以外のアナザーストーリーがあります。
古くは『古今和歌集』(905年)第14巻の「読み人知らず」に、
さむしろに 衣かたしき今宵もや 我をまつらん宇治の橋姫
という歌があります。
意訳すると、「ムシロの上に衣敷いて、今宵も私を待ちながら 一人寂しく眠っているのだろうか」というような意味でしょう。
丑の刻参りの鬼女・恐ろしい橋姫の姿とは随分と異なる寂しげで切ない内容ですが、以下のような物語になっています。
昔、宇治川のほとりに、仲睦まじい若い夫婦が住んでいました。
夫は妊娠した妻の体を慮り、海にわかめを採りに行ったのですが、いつまでたっても帰ってきません。
しびれを切らした妻は海辺まで夫を探しに行くものの、見付かりませんでした。
前述の歌は、海から竜宮城に行き、お姫様の婿となって帰ることを忘れた夫が、時々陸に残した妊娠中の妻を思い出し「今ごろ、妻は私を想って一人寂しく寝ているのだろうか」と懐かしんだ歌だといわれています。何とも厚かましく身勝手極まりない夫です。
独り帰りを待つ妻が、宇治川のほとりに住んでいたことから、「宇治の橋姫」と呼ばれるようになったといいます。
さらに、和歌の解説書『奥義抄』に記されている内容は、また異なる展開を見せています。
二人の妻がいる男が、本妻が妊娠したためワカメを採りに海へ出かけますが、そこで龍王にさらわれ、行方不明になってしまいました。
本妻は失踪した夫を探し、海辺の小屋にたどり着きました。その夜、夫が現れ、「さむしろに…」という歌を詠みながら、海から戻ってきたと告げ、これまでの経緯を語りました。しかし、夜明けとともに彼は再び姿を消してしまいました。
この出来事を知ったもう一人の妻も、同じように海辺の小屋に向かい、夫を待ちました。
やがて夫が現れますが、彼女は「私を捨てて本妻を恋い慕うのね」と嫉妬に駆られ、夫に襲いかかりました。すると、瞬く間に小屋も夫も雪のように消え去ってしまったのです。
このように「愛人を持ち離縁されて鬼と化す女性」、「漁に出たまま帰らない夫を心配して待ち続ける女性」、それぞれの物語は全く異なる印象ですが、いずれも「身勝手な男によって運命を狂わされた女性の話」で、どこかもの哀しさを感じます。
終わりに
橋姫の伝説を起源とする「丑の刻参り」は、江戸時代に頻繁に行われていたようで、浮世絵の題材にもなりました。
現代でも映画やドラマなどに時折登場し、その影響力は色褪せることがありません。
驚くべきことに、現在でもインターネット上では、わら人形や五寸釘といった呪いのグッズが販売されています。冗談としてなのか、本気で誰かを呪おうとする人向けなのかは不明ですが、その存在自体が衝撃です。
どれほどIT技術が進歩し、時代が変わったとしても、人間の心に渦巻く嫉妬や憎しみの感情は、完全には消え去ることがないのかもしれません。
参考:
新訳平家物語 国立国会図書館デジタルコレクション
立命館大学アート・リサーチセンター 剣の巻
橋姫 京都通百科事典
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