私たちはいつまでかわいくなり続ける?「宇宙の果てまで、君はかわいい」――昆虫・動物だけじゃない、篠原かをりの「卒業式、走って帰った」
動物作家・昆虫研究家として、さまざまなメディアに登場する篠原かをりさん。その博識さや生き物への偏愛ぶりで人気を集めていますが、この連載では「篠原かをり」にフォーカス! 忘れがたい経験や自身に影響を与えた印象深い人々、作家・研究者としての自分、プライベートとしての自分の現在とこれからなど、心のままにつづります。第24回は篠原さんが、「かわいい」について考察を深めたお話です。
※NHK出版公式note「本がひらく」の連載「卒業式、走って帰った」より
宇宙の果てまで、君はかわいい
赤ちゃんが8か月になった。
それはもう大変なかわいさである。出会ったとき、すごくかわいいと思ったはずなのに、明らかに毎日かわいくなり続けている。
「小さきものは、みなうつくし」と清少納言は書いた。私は、小さければ小さいほどかわいいと思っていた。さすがに生まれたては、人生の寝起きみたいなものだから、一番かわいいということはないだろうと思っていたけれど、生後1~2か月がきっと人生で一番かわいい時期に違いないと考えていた。だが、そんなことはなかった。
地球に誕生してまだたった8か月しか経っていないのに、この速度でかわいくなり続けていったら、近い将来、かわいさが溢れ出して宇宙の端にたどりついてしまう。
こんなにかわいくなり続けることって、理論上あり得るのだろうかとずっと考えていた。はっきり言って、完全に私の理解を超えていた。
赤ちゃんというのは、もしかして、まだ完全にこの世の存在ではないが故に、人智を超えた、天使的なかわいさを有しており、ギリシャ神話のペルセポネのザクロのように、あるいは、ケルト神話の妖精の食べ物のように、彼らにとっての異界である、この世の食べ物を口にすることによって、この世界の住人になり、徐々に人間の範囲のかわいさに収まってくるのではないか。つまり、離乳食をしっかり食べるようになったら、このとどまるところを知らないかわいさの増加も緩やかになるのではないかというファンタジーMy仮説を真剣に夫に語っていた。
ところが、もうちぎったパンを自分で口に運んで平らげるし、ご飯をあげた直後なのに私がご飯を食べているのを見て、同じものを欲しがって激怒するくらいには、この世の食べ物に馴染んできたのだが、かわいさは増す一方である。
一体、人はいつまでかわいくなり続けるのだろう。私のかわいさのピークはいつだったのだろうか。今まで生きてきた30年間のどこかにあるのだろうか。
かわいさが増していると感じる理由の一つに、コミュニケーションが双方向になってきたことが挙げられる。
まだ言葉は話さないけれど、伝わることが増えたと感じる。
なんとなく、英語圏を旅行しているときの私くらいは、周りの人が何を話しているのか分かっているんじゃないかと思っている。参考までに私の英語のリスニング能力は、(おおよそ分かる気がするけど、全然間違っている気もするし、会話で返答できるほどのスピード感で分かってはいないな……)くらいである。
それに私の力不足によって聞き取れないだけで、赤ちゃんは、私の知らない言葉なのだろうなと感じる何らかの言葉を話し、伝えてくる。
私は、日頃、かなり「言葉」に頼って生きている人間である。
作家もタレントも共に言葉を扱う仕事だし、現在の研究分野も文芸表象という、言葉によって成り立つ研究をしている。
しかし、赤ちゃんと過ごしていると、言葉で語れることはほんの僅かだと感じる。逆に言葉以外で語れることの大きさを知る。抱き上げたときにしがみついてくる力強さ、私に向けられる眼差し、安心したときの吐息などの一つ一つに心があると感じる。私もまた愛されていると感じる。言葉を過信し過ぎないように心掛けなければと気を引き締める。
と、格好つけてみたはいいが、赤ちゃんの話す、私の知らない言葉に引きずられて、私もあまり日本語では話していなかったことに気が付いた。
生後6か月くらいまで、かなりの割合を、ジャズの歌唱法であるスキャットのように即興の意味のないフレーズで、ドゥビドゥバシャバダバと話しかけていたのである。
「(私が育てたら)すごく語彙力のある子に育ちそう!」というお世辞を言われることが重なって、実情を省み、このままではまずいと思い立った。
独自のものではない、社会に通用するジェスチャーも6か月を過ぎた頃から教え始めた。「もうバイバイできるの?」などと声をかけられる機会が増え、「できるもできないも、一度も教えたことがないな」と気が付いて、慌てて教えることにした。
昔、実家で、父が「お手!」と犬に声をかけ、キョトンとした犬に、「できないよね、教えたことないもんね。でも、できなくていいよね」と話しかけているのを見て、一体、何の時間なのだろうと疑問に思ったことがあるのだが、恐らく、同じことになっていたのだと思う。
意識的に教え始めてから、私が思っていたよりずっといろいろなことができることを知った。
積み木を打ち合わせて見せ、「これできる?」と聞いたら、ちろりと上目で私を見てから、カチカチと積み木を打ち合わせた。
普段、おむつ替えをするとき、「そんなにひどいことしてないよ」と弁解したくなるくらい、暴れに暴れて、ワニのデスロールのように体を捻りながらどこかへ逃れようとするのだが、積み木を渡して、「これカチカチしといて」と頼んだら、何か、壮大なミッションに挑むように真剣な目をしてコツコツ小さな音を鳴らし、おとなしくおむつを替えられていた。偉くてかわいい。
まだバイバイはできないけれど、「いただきます」と「ごちそうさま」ができるようになった。離乳食を食べ終えた後、「ごちそうさま」に合わせて、初めて、小さな手をもっちりと合わせたのを見たとき、愛おしすぎて泣いた。夫も泣いていた。すばらしくてかわいい。
なぜ、赤ちゃんは、かわいいのか。それは私が愛しているからだ。何かができるようになるのを見ると泣いてしまうのは、頑張って育ってきた1日1日を知っているからだ。愛した日々が積み重なっていくから、きっと何歳になってもかわいい。社会でどう評価されるかとか、他の人にどう見えるかとか、そんなものをはるか置き去りにして、ずっと愛おしいのだと思う。
以前、「ゆき」という犬と暮らしていた。15年と4か月生きた。時とともに、毛は艶を失い、皮膚は柔らかく垂れ下がって、目は白く濁った。知らない人から見れば、清少納言も書いたとおり、きっと老犬よりも子犬の方がかわいく見えるだろう。けれど、私の目に映る彼女は、最後の日までかわいくなる一方だった。出会ってから死ぬその日までずっとかわいい盛りだった。
私もきっと誰かにとって、宇宙が広がり続けるがごとく、かわいくなり続けている存在だ。今はまだピークに向かっている道の途中にすぎない。私のかわいさは、私を愛する人と私の間にのみ存在する言語だ。
私たちはいつまでかわいくなり続けるのだろうか。それは、「愛される限り、いつまででも」だ。
プロフィール
篠原かをり(しのはら・かをり)
1995年2月生まれ。動物作家・昆虫研究家/慶應 義塾大学 SFC 研究所上席所員。これまでに『恋する昆虫図鑑~ムシとヒトの恋愛戦略~』(文藝春秋)、『LIFE―人間が知らない生き方』(文響社)、『サバイブ<SURVIVE>-強くなければ、生き残れない』(ダイヤモンド社)、『フムフム、がってん!いきものビックリ仰天クイズ』(文藝春秋)、『ネズミのおしえ』(徳間書店)、『歩くサナギ、うんちの繭』 (大和書房) などを出版。
バナーイラスト 平泉春奈