「止むことのない災厄の嵐!」桓武天皇を恐怖させた早良親王の荒ぶる怨霊とは
桓武を苦しめる怨霊絡みの事件が再び起きる
781年4月、父・光仁天皇から譲位を受け第50代天皇となった桓武天皇は、784年6月に、藤原種継(ふじわらのたねつぐ)と佐伯今毛人(さえきのいまえみし)らを造長岡京使に任命し、長岡京の造営を本格的に開始した。
桓武が平城京を捨てて長岡京への遷都を目論んだのは、自らの即位に関連して非業の死を遂げた井上内親王と他戸親王の「怨霊」から逃れるためであった。
新都造営は、通常の宮城建設と比べても異例ともいえるほどのスピードで進み、785年元旦には、完成した大極殿で百官の賀を受ける「朝賀の儀」が執り行われた。
この迅速さは、副都であった難波宮の諸宮殿を移築したことによって実現したが、井上内親王・他戸親王の呪いに満ちた平城京から一刻も早く離れたいという桓武の強い思いの表れともいえるだろう。
この時、長岡京は政治機能の中枢である朝堂院や大極殿こそ完成していたものの、街並みなどは未整備で、都市全体が完成していたわけではなかった。
それにもかかわらず、桓武が急いで長岡京へ移り住んだことから、その焦りのほどがうかがえる。
だが、ここでも事件が勃発した。
それは、皇太子である弟・早良親王(さわらしんのう)の身に悲劇をもたらすものであり、皮肉にも桓武が忌避したはずの「怨霊」の影が、再びその前に立ち現れることとなった。
「藤原種継 暗殺事件」の嫌疑をかけられた早良親王
785年9月23日の夜、その事件は起きた。
藤原種継が、造宮監督中に何者かに矢で射られ重傷を負い、翌日自邸で息を引き取ったのだ。
事件後、暗殺の実行犯として衛府所属の兵である伯耆桴麻呂(ほうきのむねまろ)らが直ちに捕らえられ、彼らの供述から事件に関与した人物の名が次々に明らかになる。
まず、首謀者として左少弁・大伴継人(おおとものつぐひと)とその弟・竹良(ちくら)が逮捕された。
さらに、春宮少進・佐伯高成、春宮主書首・多治比浜人も捕らえられ、春宮坊(東宮の家政機関)に仕える者たちに容疑者が多いことが判明した。
彼らは、かつて東宮大夫で中納言でもあった大伴家持(おおとものやかもち)が中心となって仕組んだと自白した。
家持は事件当時すでに死去していたため、彼を黒幕とすることで、早良親王に累が及ぶのを避けようとしたのかもしれない。
しかし、親王と親しかった家持の名が浮上したことで、春宮坊の関係者の多くが事件に深く関与していたことが明らかになっていった。
桓武は首謀者たちを処刑し、事件に連座したとして、光仁天皇の皇女・能登内親王の子・五百枝王(いおえのおう)、藤原永手の子・藤原雄依(ふじわらのおより)、紀白麻呂、大伴永主を流罪に処した。
さらに、犯人たちは皇太子・早良親王の許しを得て種継暗殺を実行したと判断し、9月28日、親王は皇太子の地位を剥奪され、乙訓寺(おとくにでら)に幽閉された。
種継暗殺の嫌疑をかけられた早良親王は、事件への関与を一貫して否定したが、桓武天皇は聴く耳を持たず淡路への配流を命じた。
これに対し、親王は抗議の意を示して一切の飲食を断ち、淡路へ移送される前に自ら命を絶ったのだ。
ただし、一説には、桓武天皇が水や食事を与えることを禁じ、意図的に親王を餓死に追いやったとも言われている。
では、なぜ桓武は血を分けた弟に対し、これほどまでに厳しい処分を下したのか。
その背景には、藤原氏の支援を受けた自らの皇位継承を正当化し、藤原良継の娘で皇后となった乙牟漏(おとむろ)の子である安殿親王(後の平城天皇)と神野親王(後の嵯峨天皇)に皇位を継承させる意図があったと考えられる。
つまり桓武は、実の弟と藤原氏を天秤にかけた末、藤原氏を選んだのだ。
そもそも桓武は、母・高野新笠が百済系渡来人の血を引く中級貴族の出身であったため、皇位継承者としての立場は必ずしも強くなかった。
その桓武が皇位に就くことができたのは、本人も述べているように、ひとえに藤原良継の後押しによるものであった。
桓武にとって、良継の恩に報いるためにも、次代の天皇には乙牟漏が生んだ皇子たちを立てる必要があったのである。
事件の裏側には藤原による「大伴・佐伯の排除」があった
早良親王を支えた東宮坊の中心スタッフは、大伴氏と佐伯氏によって固められていた。
奈良朝を通じて、藤原氏は天皇の親衛軍ともいうべき両氏の排除に動いていたが、その力を完全に削ぐには至らなかった。
もちろん、大伴氏・佐伯氏もその危機感を常に抱いており、彼らもまた藤原氏打倒を企ててきた。
しかし、いずれも藤原氏側の勝利に終わり、橘奈良麻呂の乱では、継人の父・大伴古麻呂が殺害され、高成の一族である佐伯全成(さえきのまたなり)が自刃している。
藤原氏にとって種継暗殺事件は、大伴氏・佐伯氏を排除する絶好の機会であったのだ。
早良親王は、幼少期より東大寺に住し、等定(とうじょう)を師として11歳で出家。21歳で受戒した後は、大安寺東院に移った。
その後も親王は東大寺と深く関わり、東大寺開山・良弁(ろうべん)の後継者として、東大寺はもとより、造東大寺司においても発言力を持つ高い地位にあったとされる。
その親王が、桓武天皇の即位に際して還俗し、立太子されたのである。
南都の寺院勢力に強い影響力を持ち、さらに桓武には乙牟漏との間に二人の皇子がいたにも関わらず、あえて早良親王が皇太子とされた背景には、さまざまな説がある。
おそらくは、桓武による長岡京造営に際し、これに反対する南都勢力を抑えるため、兄のために一肌脱いだ結果としての皇太子就任であった可能性が高いのではないだろうか。
親王禅師として安定した地位を捨ててまで兄の事業に協力した早良親王。だが、親王は桓武に見放され、罪を着せられた末に、悲惨な最期を遂げた。
それゆえ、早良親王が桓武天皇、そして自らを陥れたとされる人々に対して、深い怨念を抱いていたとしても不思議ではない。
その生涯を「怨霊」と戦い続けた桓武天皇
こうして藤原種継暗殺事件は、一段落ついたかに見えた。
しかし、早良親王が憤死した3年後から、桓武の宮廷内では次々と不幸な出来事が起きた。
まず、788年6月に桓武妃・藤原旅子(ふじわらのたびこ)が30歳で没した。彼女は藤原百川の娘で、母方の祖父は藤原良継である。
この時点で桓武は、忍び寄る早良親王の影に、うすうす気づいていたのかもしれない。
続いて790年4月には、良継の娘であり、安殿親王(後の平城天皇)・神野親王(後の嵯峨天皇)の母である皇后・藤原乙牟漏も、30歳で亡くなった。
そして同年1月には、母の高野新笠までもが薨去した。
桓武は、わずか2年のうちに生母と第一・第二夫人を失ったのである。
さらに皇太子・安殿親王が病に倒れたことで、桓武は、さまざまな災厄が早良親王の「怨霊」による祟りであることを認めざるを得ない状況となった。
天皇は急ぎ親王の墓を整備するなどの対応を行うとともに、早良親王の「怨霊」が渦巻く長岡京から逃れる準備を始めた。
藤原小黒麻呂と紀古佐美(きのこさみ)に、長岡京の東に位置する山城国葛野郡の地を視察させ、794年10月、ついに長岡京を捨てて平安京へ都を遷したのである。
桓武天皇は早良親王の霊を鎮めるため、800年に崇道天皇の天皇号を贈った。
しかし、親王の怨霊はなおも荒ぶり続け、804年には天皇自身や近親者が病に倒れ、さらには飢饉や疫病といった社会不安が続発したのだ。
これに対し、桓武は早良親王の鎮魂にいっそう力を注ぎ、亡骸を淡路から大和へ改葬した。
しかしながら、806年、その甲斐もなく桓武天皇は危篤に陥ってしまう。
桓武は最後の手段として、崇道天皇のために諸国の国分寺僧に2月と9月に金剛般若経を読誦させるよう命じたものの、その日に崩御してしまった。
平城京から長岡京、そして平安京へと都を遷し、古代から中世への転換期である平安時代の幕開けを創造した桓武天皇であったが、その一生は「怨霊」との戦いに明け暮れた日々であったのである。
参考 :
佐藤信編 古代史講義 戦乱篇 ちくま新書
佐藤信編 古代史講義 氏族篇 ちくま新書
関裕二著 古代史に隠された京都の闇 PHP文庫
文 / 高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部