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【産山村】つわものどもがゆめのあと。阿蘇の草原に夢を残しそびえ立つ「卑弥呼の里」に迫る!

肥後ジャーナル

【産山村】つわものどもがゆめのあと。阿蘇の草原に夢を残しそびえ立つ「卑弥呼の里」に迫る!

産山村の草原にどーんと浮かぶ廃墟「卑弥呼の里」。 その大きな廃墟は熊本だけでなく、全国的に有名となっております。今回はその「卑弥呼の里」、取り残された「未完成の大型リゾート施設」の独特の美しさに魅了され、装備を整えて行ってまいりました。

野焼きの後の阿蘇も美しき

熊本市内中心部から車で一時間半。 「豊後街道」を通り、【阿蘇】歴史の道 「豊後街道 二重峠石畳」を歩いて絶景と昔の人々のエネルギーを見る散歩道~「豊後街道 二重峠石畳」と「牛王の水」~ | 肥後ジャーナル - 熊本の今をお届けするメディアサイト

夏に来た時は緑がまぶしい場所でしたが、野焼き直後にて、ごつごつとした山肌が現れ、黒黒とした色が迫力のある景色となっておりました。

これから向かう廃墟にどきどきしながら、牛の横を通りすぎます。 場所は分かりにくくはありません。 近くには「阿蘇やまなみリゾートホテル&ゴルフ倶楽部」もありますし、「UBUYAMA PLACE(施設総合)」に向かう人々の車がよく通ります。

ヒゴタイロードを降り、農道のような道へ入ってゆきます。お仕事の車も通られているようで、道は綺麗でした。

卑弥呼の里、全貌を見たい

見えてきました。卑弥呼の里。 卑弥呼の里は、1978年(昭和53年)に産山村の「過疎からの脱出」という計画の元、阿蘇山麗の国立公園に隣接する素晴らしい立地条件を生かして、105万平方米と言われる広大な土地に「大型リゾート開発」としてスタートされました。

この日は風が強かった為、中から、がたごととまるで人が居るかのような大きな音が鳴り響いておりました。

当時のデベロッパー(開発事業者)は東京都にあった株式会社ドッパー。当時の産山村村長は全国の過疎地域開発を事業目的とするそのドッパーに一切の業務を任せました。

完成を急いでいた1981年(昭和56年)7月26日「卑弥呼の里ビッグイベント」として、南こうせつさんの野外コンサートがこちらで開催されております。

WELCOMEと書かれたらくがきが寂しさを増す

その時の野外イベントは、早い人は一週間前からキャンプをして待機し、遠くは北海道からの参加者もあり、当時2,000人ほどの人口であった産山村におよそ10,000人の人が集まったそうです。

未完の建物なので、腐ったものや、生活感は全くない

その野外コンサートは約2時間経った頃、雷雨で中止になったようですが、南こうせつさんと村長は来年の開催を誓い、産山村の盛り上がりは最高潮に達しておりました。

こちらの卑弥呼の里計画総額はおよそ240億円。宿泊施設の客室876部屋のオーナー募集という形で、資金が集められ、工事は進んでおりました。

3階にはこんな施設も作られる予定だったよう

卑弥呼の里宿泊施設オーナー(投資者)は熊本が最多ではありますが、福岡、大阪、東京、千葉、秋田など、22都道府県に渡り広がっておりました。そして、投資者の多くは40代、50代の男性。働き盛りの年齢の頃で、自営業や医師が多かったようです。

今にもライトが付きそうな桜のシャンデリアがとても美しい

そんな中、人々の夢を抱えたまま、1982年(昭和57年)開発事業者のドッパーが倒産。内装の途中にて、産山村に建つはずだった「卑弥呼の里」はそのまま廃墟となってしまいました。

巨大回遊水槽も出来るはずだった模様

過疎地を蘇生させ、過密都市とのバランスを取り共生させるという事が企業理念であったドッパーは昭和53年に創立され、過疎地開発の第一号がこの産山村の開発だったようです。

バスタブが放置され、ガラスはなく風がびゅんびゅんと入ってくる

産山村は、ドッパーの開発計画が、山を削り、川を埋めて自然を壊すような開発ではなく、村民それぞれの意欲を高めるような開発計画に惚れ込んで、村会議満場一致でドッパーに依頼をしました。

解放された場所には沢山の資料。アダルトな漫画などの廃棄は一切なく、卑弥呼の里の資料ばかり。まるで工事の途中で時が止まっているよう。

吹きさらしの場所だが、雨風は意外と入ってこないのか、どの資料もわりと綺麗

邪馬台国九州説から「卑弥呼の里」と名付けられたのでしょう。

ドッパー倒産後、投資者が多く、不動産権利があまりにも複雑なため、買い手は付かず、取り壊しも行われないまま、卑弥呼の里は人々の夢の残骸となってしまいました。 換金も行われておらず、記者の親の知人(当時40代後半~50代)も投資者であり「○○さんも金ださしたばってん、ドッパーが倒産してぱーたい」と話しておりました。

そんなリアルな話を聞くと、まだそんなに大昔の事ではないんだなと驚き、その頃の村の盛り上がりの火が、まだどこかにあるのではなかろうかと、廃墟の中の空気に心を通わせてみます。

令和の子供たちは使う事はあるのでしょうか。この受話器。

卑弥呼の里の構想は地下2階から。地下2階はナイトクラブやディスコなど大人のスペースが作られる予定でした。

廊下は細くて通りにくい

ホラーゲームに出てきそう

外が恋しくなる暗さ

客室に入ってみる

イベントホールや、プールや、語らいの場、などが2階3階と作られ、人と人との交流の場に重きを置いたホテルであったからか、宿泊する個室はとても狭く感じます。

このような感じ。ベッドを置いたら「寝るだけの部屋」という感じになる気がして、それはまるで昔の豪華客船の内部のようです。

ただし、船と違って窓はとても大きいです。

そして完成すればこの部屋の窓から見えるはずだった阿蘇の景色。 本来はこちら側が夢のリゾートホテルで明るい筈だったのに、ここは暗く、阿蘇の眩しさに打ちのめされるような光景です。

二階へと上がってみます。

二階の客室も狭く感じます。

ベランダがありました。

外へ出て見ると、隣の部屋との距離が近いです。 ドッパーによると、「卑弥呼の里」は独自の誘客システムにより年間186万人の入込を予測していたようです。投資したオーナーの優先利用はもちろんの事、オーナーによる誘客。阿蘇観光者、企業などの研修、イベントなどでの利用を期待していました。

上からぶら下がる配線?

資料によると年間少なくとも「186万人の利用を想定」とありますが、いくらなんでも多い気がします。

しかしこの後バブルが来るわけですから、この令和の現在の「なんでも高い」「節約しなきゃ」「この先不安」という雰囲気とは全く違った時代で、その時の思考や理想は今を生きる私達とは全く違ったものだったのでしょう。

一通り、ぐるりと施設を見て周りました。幽霊が出そうなんて事は一切感じませんでした。お昼だった事もあるのかもしれません。

ずらりと並ぶ客室。ここが賑わっていた未来を想像してみます。

この卑弥呼の里は未完である事から、人による汚れがないので、危なかったり、埃っぽかったりはしますが、不快感はなくそこにあったのは、夢の残骸の寂しさのみでした。

客室が多い割には狭い廊下。何か避難するような事があった時、沢山の人がいっぺんに出れるのか?

と思っていたら、このようなものも落ちていました。

卑弥呼の里、あなたは壮大すぎた。

沢山の人間の高揚感を抱えたまま、草原に取り残され、その寂しさは、哀愁を誘い美しささえ感じさせます。

ふと足元を見ると野焼きのあとから、春のふきのとうがひょっこり。季節はまた繰り返し、「卑弥呼の里」の周りの風景だけが変わってゆきます。 「つわものどもがゆめのあと。」 関わった方々のご多幸をお祈り申し上げます。

まとめ

立ち入り禁止ではありませんが、頭上や足元がかなり危険なので、行くことはお薦めいたしません。

そして施設の周りには、人がすっぽりと落ちてしまうような穴が開きっぱなしになっており、一人で落ちてしまったら出る事は出来ないような恐ろしい罠もあります。 夜は絶対に危険です。 助けを呼ぶための携帯の電波もギリギリですので、注意してください。 (ー参考資料 1981年発行 どっぱあ №10)

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