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#2 アンネの日記が出版されるまで――小川洋子さんが読む『アンネの日記』【NHK100分de名著ブックス一挙公開】

NHK出版デジタルマガジン

#2 アンネの日記が出版されるまで――小川洋子さんが読む『アンネの日記』【NHK100分de名著ブックス一挙公開】

作家・小川洋子さんによる『アンネの日記』読み解き #2

苦難の日々を支えたのは、自らが紡いだ「言葉」だった――。

第二次世界大戦下の一九四二年、十三歳の誕生日に父親から贈られた日記帳に、思春期の揺れる心情と「隠れ家」での困窮生活の実情を彩り豊かに綴った、アンネ・フランクによる『アンネの日記』。

『NHK「100分de名著」ブックス アンネの日記』では、『アンネの日記』に記された「文学」と呼ぶにふさわしい表現と言葉と、それらがコロナ禍に見舞われ、戦争を目の当たりにした私たちに与えてくれる静かな勇気と確かな希望について、小川洋子さんが解説します。

今回は、本書より「はじめに」と「第1章」を全文特別公開いたします(第2回/全6回)

日記が出版されるまで

『アンネの日記』は、一九四二年六月十二日の日付から始まります。この日、十三歳の誕生日を迎えたアンネ・フランクは、誕生日プレゼントとして格子柄の日記帳をもらい、すぐさま日記を書くことに夢中になりました。最初は、通っているユダヤ人学校の様子や男の子についての、たわいもない記述が続きますが、すぐに情勢が一変します。ユダヤ人狩りを逃れるため、フランク一家がアムステルダムの自宅から隠れ家に移動したのは、日記を書き始めてまだひと月も経っていないときでした。

 日付はそれから二年後の、一九四四年八月一日で途切れます。三日後の八月四日、何者かによって隠れ家が密告され、一家はゲシュタポ(ナチスの秘密警察)に連行されます。アンネはその後、二度とこの大切な日記帳を見ることはありませんでした。したがって『アンネの日記』は、隠れ家時代を中心とした二年あまりの期間に彼女が綴った、心の記録と言えます。

 無名のユダヤ人少女が書いた、この『アンネの日記』が出版されるまでには、ドラマがありました。隠れ家の住人たちを献身的に助けた支援者のひとり、ミープ・ヒースという女性が、彼らがゲシュタポに連行された当日、すばやく日記を回収し、ずっと読まずに大切に保管していました。戦後、一家で唯一生き残ったアンネの父オットー・フランクは、アムステルダムに戻り、しばらくミープ夫妻の家に身を寄せます。そして一九四五年の七月頃、アンネの死が確認されたとき、ミープは日記をオットーに手渡しました。オットーは「しばらくだれにも邪魔されないようにしてくれないか」と言ってひとり部屋に籠ったと、のちに彼女は回想しています。アンネ以外で日記をはじめて読んだのは父親でした。

 日記の内容は、アンネの一番の理解者だった父親にとっても、驚くべきものでした。隠れ家にありながら、生き生きと想像力をはばたかせ、冷静に世界を観察した、すばらしい文章の数々……。娘の早熟ぶりを目の当たりにした父親は、あらためて喪失の念を濃くしたにちがいありません。

 オットーは当初、スイスに住む自らの母、つまりアンネの祖母に宛て、日記の一部をドイツ語に翻訳して送ったり、知人に請われて日記の朗読などをしていました。そこに、ある歴史学者から、この日記はもっと広く世界に知られるべきだとのアドバイスを受けます。オットーは、長い逡巡ののちに出版を決心します。

 そして一九四七年、オランダ語で「後ろの家」を意味する『ヘト・アハテルハイス(Het Achterhuis)』と題して日記が出版されました。戦後間もない時代でもあり、初版本は粗悪な紙のささやかな本でした。のちに世界中で読み継がれる本になろうとは、この時点では誰も考えていなかったでしょう。真に価値のある文学は、時にこうして家族の手を離れ、多くの人々のものになっていくのです。

言葉は心を外に放つ「通路」

 アンネは日記のなかで、「紙は人間よりも辛抱づよい」と書き記しています。心の内に抱えている限り、もやもやと渦を巻き、袋小路に陥ってしまうだけの感情も、言葉にして紙に書きつけることで、外に放つための「通路」ができる。彼女ははやくからそれに気づいていました。わたしが十七歳で『アンネの日記』を読み、もっとも共感したのもこの部分でした。反抗期の只中にあるとき、自分とまったく同じ問題を抱え、それを言葉に表現することでより深く自己の内面と向き合っていた人がいた──それは、とても衝撃的な出会いでした。

 たとえばこの部分です。

でもわたしはもう赤んぼでもなければ、なにをしても笑って許される、甘やかされた駄々っ子でもありません。自分なりの意見も、計画も、理想も持っています。ただそれを、うまく言葉では言いあらわせないだけなんです。

(一九四三年十月三十日)

 母親が、「あなたのことは何でもわかっているのよ」という態度で接してくるときの、あの嫌悪感──。それに対して言い返したい気持ち──。自分はもう赤ん坊ではないという、当たり前のことをわかってもらいたい苛立ち──。そうした感情を彼女は、とても明確に書いています。

 アンネが日記に、人に言えない気持ちを語ったように、わたしは『アンネの日記』を読むことで、「そうだ、そうだ」とアンネの言葉にうなずき、彼女に心の内を聞いてもらっている気になりました。そして彼女が持つ言語感覚の鋭さ、言葉の豊かさに憧れを抱くようになったのです。

 自分も真似をしてなにか書いてみようと思うものの、実際はこんなにはうまくいきません。日記をつけてみても、ただの愚痴や不満や、読み返す価値もない文章のつらなりになるばかりです。それでも野球少年がグローブを抱いて寝たり、いつもボールをポケットに入れているのと同じように、わたしはつねに紙と言葉に触れていたいと感じるようになりました。だんだんとものを書く原初的な喜びを知り、自分にとって書く行為こそが人生で必要なことだと認識するきっかけを与えてくれたのが、『アンネの日記』なのです。

 大人が思春期を回想して書いた文章とは違う、思春期の少女のリアルな声がここにはあるのです。

著者

小川洋子(おがわ・ようこ)
作家。1962年、岡山県生まれ。早稲田大学第一文学部文芸科卒業。88年「揚羽蝶が壊れる時」で海燕新人文学賞を受賞し、デビュー。91年「妊娠カレンダー」で芥川賞を受賞。2004年『博士の愛した数式』で読売文学賞、本屋大賞、『ブラフマンの埋葬』で泉鏡花文学賞、06年『ミーナの行進』で谷崎潤一郎賞、13年『ことり』で芸術選奨文部科学大臣賞、20年『小箱』で野間文芸賞、21年菊池寛賞を受賞、同年紫綬褒章を受章。その他、小説作品多数。エッセイに『アンネ・フランクの記憶』、『遠慮深いうたた寝』などがある。

※著者略歴は全て刊行当時の情報です。

■『NHK「100分de名著」ブックス アンネの日記 言葉はどのようにして人を救うのか』(小川洋子著)より抜粋
■脚注、図版、写真、ルビなどは権利などの関係上、記事から割愛しております。詳しくは書籍をご覧ください。

*本書における『アンネの日記』の引用は、アンネ・フランク著、深町眞理子訳『アンネの日記増補新訂版』(文春文庫)を底本にしています。また、小川洋子著『アンネ・フランクの記憶』(角川文庫)を参考にしました。

*本書は、「NHK100分de名著」において、2014年8月および2015年3月に放送された「アンネの日記」のテキストを底本として加筆・修正し、新たにブックス特別章「言葉はどのようにして人間を救うのか」、読書案内などを収載したものです。

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