「セリフなし」「復讐映画」「ジョン・ウー監督」気になる要素だらけの斬新アクション『サイレントナイト』のスゴ味
「セリフ無しの主人公」は成立するのか?
血濡れのクリスマス・セーター姿で猛ダッシュするジョエル・キナマン。激しいカーアクションに巻き込まれ、撃たれた首から血が吹き出す。いきなり“死”が脳裏をよぎる壮絶な展開だが、手術を受けて一命を取り留める。そう、声帯を失った「喋れない」主人公の誕生だ。
幸せな一日になるはずだったクリスマス・イブのその日、ギャング同士の銃撃戦に巻き込まれた男は、目の前で愛する我が子の命を奪われる。自らも重症を負った男は、なんとか一命をとりとめたものの声帯を損傷。絶望を叫ぶ声すらも失ってしまう。
声なき男の悲しみはやがて憎悪へと変わり、悪党どもへの復讐を決意。ギャング壊滅の日は次の12月24日。聖なる夜に、誰も観たことのない壮絶な復讐劇が幕を開ける――。
4月11日(金)より公開中の映画『サイレントナイト』は全編にわたって、セリフらしいセリフがない。つまり冒頭のダサセーターと映画タイトルには2つの意味があったことがわかる。もちろん誰もがほとんど喋らないので、登場人物たちの名前も年齢も基本的には不明だ。しかし、それらがむしろ本作の魅力であり、物語の最大の推進力となる。
主人公の妻を演じるのは、『そして、ひと粒のひかり』(2004年)でコロンビア人として初めてアカデミー賞にノミネートされたカタリーナ・サンディノ・モレノ。人気ラッパーのキッド・カディことスコット・メスカディが事件を知る刑事を演じる。
名匠が撮るストイックなリベンジ映画
話の大筋は、いわゆる“リベンジもの”だ。最愛の息子を失い、生きる気力を失った男。妻は気持ちを切り替えて前に進もうとするが、夫は過去に囚われ呆けたように無為な時間を過ごす。やがてフラッシュバックする“我が子の最期”に耐えかね、そして憎きギャングへの怒りを抑えられず、男は1年間を復讐の準備に捧げる。
チャールズ・ブロンソンの『狼よさらば』(1974年)やケヴィン・ベーコン『狼の死刑宣告』(2007年)、そして『ジョン・ウィック』シリーズなど、リベンジ映画は世界中で大きなトレンドになっている。しかし、多くの映画ファンは“ジョン・ウー監督の劇場公開最新作(※翌年フランスで撮ったセルフリメイク作の配信あり)”ということで、本作を鑑賞リストに入れたことだろう。過去のウー作品でも復讐は度々重要なテーマになっていたが、今回は完全に一般人、普通のパパが主人公だ。
アクション映画にしてはカチャカチャとカットを切り替えず、人物の表情をコッテリ捉えるあたりに往年のウー節も見え隠れする。そして素人リベンジ映画のセオリーとして、その“準備期間”こそが面白いことも当然ながら理解している。しかもセリフがないせいか緊張感がマシマシでキープされ、復讐前から観客の口内をカラカラにさせる。やがて、猫背で頼りなさげだったキナマンの身体がムキムキにパンプアップされたあたりから、「いよいよだな……」と思わず腕まくりしてしまうだろう。
熟練のジョン・ウー仕事を堪能できる快作アクション
セリフがないだけで即興の舞台劇のようにも見えてくるから不思議だが、陳腐で説明的な言葉が無いことによって感情表現にはむしろリアリティが生まれたように感じる。そもそもアクションパートには基本的にセリフは不要なのだが、その合間のセリフの代わりに銃撃音、エンジン音にクラッシュ音、うめき声や叫び声、そしてメロドラマチックな音楽が躊躇なく挿入される。流麗な構成は潤沢ではなかったであろう予算を感じさせないし、熟練の演出はストレスフリーだ。
もはや目新しさの薄くなったリベンジ映画に新たな息吹を吹き込んだジョン・ウー監督。終盤には“らしさ”全開のケレン味あふれるショットも挿し込むが、形骸化してしまったウー節を自ら覆すような演出も。2020年代らしからぬベタベタの設定が気になるところもあるが、自身が撒いた復讐系アクション映画の種を意外なほどサッパリと刈り取った快作とも言える。あまり前情報を入れずに劇場で鑑賞すれば、超大作を観たような満足感を得られるはずだ。
『サイレントナイト』は4月11日(金)より新宿バルト9ほか全国公開