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【光る君へ】 敦康親王の悲劇 ~藤原定子が遺した一条天皇の第一皇子

草の実堂

風雅に生きた敦康親王(イメージ)

一条天皇とその皇后・藤原定子の間には、三人の子供がいました。

長女・脩子内親王(しゅうし/ながこ)

長男・敦康親王(あつやす)

次女・媄子内親王(びし/よしこ)

しかし、母の定子は、次女の媄子内親王の難産によって生命を落としてしまいます。

この時、すでに伯父の藤原伊周や叔父の藤原隆家らは失脚しており、皇子女といえども十分な後ろ盾がない状態では、前途が危ぶまれました。

果たして、この子らはどうなってしまうのでしょうか。

今回は、藤原定子と一条天皇の第一皇子・敦康(あつやす)親王について紹介したいと思います。

敦康親王の生い立ち

敦康親王と藤原彰子(イメージ)

敦康親王は、長保元年(999年)11月7日に、平生昌(なりまさ。中宮大進)邸で誕生しました。

先述のとおり満足な後ろ盾がなく、定子自身も出家した身で敦康親王を産んでいるため、「横川の皮仙(かわひじり)」と後ろ指を指される状態です。
※横川の皮仙とは出家の身に相応しくないことを言い、出家していながら一条天皇と交わったことを陰口されていました。

恃みは一条天皇の寵愛のみ、という心細い境遇の中、長保2年(1000年)4月18日に、親王宣下を受けます。

当時は天皇陛下の子といえども、無条件で親王/内親王となれるわけではありません。
周囲からは冷たい目が注がれながら、何とか親王の地位を獲得できたのは、定子への寵愛あればこそでしょう。

しかし定子は、長保2年(1000年)12月16日、難産のために崩御してしまいました。

敦康親王らは、叔母(定子妹)の御匣殿(みくしげどの。藤原道隆四女)に養育されました。

やがて、御匣殿が一条天皇の寵愛を受けるようになると、敦康親王は長保3年(1001年)8月に、中宮・藤原彰子(藤原道長長女)の養子となりました。

藤原道長にしてみれば、まだ幼い彰子が今後皇子を産むまでは、敦康親王を養育した方が保険になります。
※もし彰子が皇子を産めなかった場合でも、養育した恩を着せることができて、養祖父(外戚)として権力を握りやすいため。

敦康親王は姉妹と離れて、彰子が暮らす飛香舎(ひぎょうしゃ)へ移住。長保3年(1001年)11月13日に着袴の儀を済ませます。

また、同年に藤原行成が親王家の別当に勅任されました。

皇太子への道が絶たれる

敦成親王が誕生。『紫式部日記絵巻』より

このまま順調にいけば皇太子に立てられ、やがては皇位を継承するものと思われた敦康親王。

しかし、寛弘5年(1008年)9月11日、養母の彰子が第二皇子の敦成親王(あつひら)を出産すると、徐々に雲行きが怪しくなっていきます。

寛弘7年(1010年)1月29日に伯父の藤原伊周が薨去すると、完全に後ろ盾がなくなってしまいました。
叔父の藤原隆家は、完全に道長の配下状態であり、養祖父の道長は自分の血を直接引いている敦成親王を推すでしょう。

ともあれ敦康親王は、同年7月17日に道長の加冠によって元服し、三品大宰帥に任じられました。

そして翌寛弘8年(1011年)、譲位を考えていた一条天皇は、皇太子をどうするべきか藤原行成に諮問します。

すると行成は「敦康親王ではなく、敦成親王こそ皇太子に相応しい」旨を答申しました。

理由その1:天皇陛下の政務を補佐する後ろ盾がいないと世が乱れる。道長の後ろ盾を持つ敦成親王こそ相応しい。

理由その2:皇位継承は神意によるもので、人為的な動機によって決めるものではない(≒寵愛していた定子の遺児という私情は排するべきである)。

理由その3:定子の母方である高階氏は斎宮(いつきのみや/さいくう)の子孫であり、皇位を継承すれば聖俗混交して神の怒りを買う。

理由その4:敦康親王が不憫であるなら、相応の待遇を与えれば十分である。

……以上のことから寛弘8年(1011年)6月12日、皇太子には彰子の実子(道長の実孫)である、敦成親王が選ばれたのでした。

これを知った彰子は、自分の息子が皇太子になれて喜ぶかと思いきや、一条天皇と道長を怨んだそうです。

養子とは言え初めての子であり、またそれだけ心を込めて養育したのでしょうね。

風雅に生きるも、若くして薨去

風雅に生きた敦康親王(イメージ)

皇后が産んだ何の不足もない第一皇子が皇太子になれなかったのは異例であり、世の人々は敦康親王に深く同情を寄せたのでした。

歴史物語『大鏡』によると

「……御才(おんざえ)いとかしこう、御心ばへもいとめでたうぞおはしましし……」

【意訳】ご才能とてもすぐれ、お心映えも素晴らしい方でいらした。

と、名君の器を感じさせる人物だったようです。

だからこそ、道長にしてみればやりにくくなるので、何としても即位を阻止したかったのかも知れませんね。

その後の敦康親王は風雅の道に生き、藤原頼通(道長嫡男)はじめ、多くの公卿らと盛んに交流を持ちました。

長和2年(1013年)12月10日に具平親王の次女と結婚、一人娘の嫄子女王(げんし)を授かります。

しかし、寛仁2年(1018年)12月17日、にわかに発病。生命の危機を感じてか同日中に出家を遂げ、その日の内に薨去してしまいました。享年20。

あまりにも呆気ない最期に、何か不自然なものを感じないでもないような……。

終わりに

今回は、一条天皇と藤原定子の第一皇子である、敦康親王の生涯をたどってきました。

世が世であれば皇位継承者として世を治めたでしょうに、道長の野望によって前途を絶たれてしまった胸中は察するに余りあります。

NHK大河ドラマ「光る君へ」では片岡千之助のキャスティングが決まった敦康親王。果たして悲劇の皇子をどのように演じてくれるのか、今から楽しみですね!

※参考文献:

倉本一宏『人物叢書 一条天皇』吉川弘文館、2003年12月

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