「傷つき」をめぐる環境の変化──【学びのきほん 傷つきのこころ学】
精神科医・宮地尚子さんによる「傷とともに生きる人」のための、こころのケア論
人と人との距離感が変わりつつある現代では、誰もが多くの「傷つき」を経験します。
『NHK出版 学びのきほん 傷つきのこころ学』では、精神科医で一橋大学教授の宮地尚子さんが、トラウマ研究の第一人者として「傷つき」の背景を分析しながら、数十年培ってきた専門的知識を初めて私たちの日常生活に落とし込んで解説します。
現代に特有の「傷つき」を生んだ「環境の変化」とは何なのでしょうか。
本書より、宮地さんによる解説を公開します。
「傷つき」をめぐる環境の変化
集団で生活を営む人間は、古来、傷ついたり、傷つけられたりしながら生きてきました。それはいまも昔も変わることはありません。
人の心は傷つきやすい。
これは、どんな時代にも共通する人間の心の特性です。しかし私たちが生きる現代社会では、「傷つき」をめぐる環境にすさまじい勢いで変化の波が押し寄せてい
ます。
たとえば、現代は急激なグローバル化やオンライン化、気候変動などによって、あらゆることが予測不可能な時代になりました。ビジネスのあり方もどんどん変わり、これからどんな職業が生き残り、どんな職業がAIに取って代わられていくのかなど、先が見えない不安は、老若男女問わず心に大きな負荷をかけています。各地を襲う災害や原発事故の処理の難航、今後の大地震発生の予測なども、先が見えない不安を増幅させ、私たちの未来に影を落としています。
少子高齢化が進んでいることも見逃せません。少子高齢化が進むということは、生老病死のなかの「老病死」の割合が増えるということです。そのため、闘病や看護・介護にまつわる苦しみや、離別や死別など悲しい出来事が増えてしまう現実と直面していかなくてはなりません。
家族間の問題もあるでしょう。ともにいたわり合い、支え合っているという家族像は、ある種の幻想です。家族同士でも憎しみ合い、傷つけ合うケースはいくらでもあります。
いつもそばにいる近しい存在だからこそ、小さな衝突は起きがちですし、嫌なことがあっても簡単に離れることができないので、こじれてしまいがちです。血がつながっているのだからわかり合えるはず、愛があるからお互い支え合えるはずといった思い込みが、逆に風通しを悪くすることもあります。
家族間の傷つきは従来からありましたが、少子高齢化に伴うケアの負担の増加が家族から余裕を奪い、傷つきを増やしているということもあります。
また、家族に代わって支え合う仕組み、つまり家族以外の人同士でサポートし合う生き方のモデルケースがあまりないため、個々が別々に漂流せざるをえない状況も生じています。そうした孤立した環境のなかで、「自己責任」という大義名分を掲げられ、自分ひとりで頑張っていかねばならないと多くの人が思い込まされていることも、大きな問題でしょう。
さらに、ネット社会の発展によって、他者とのコミュニケーションのあり方が急激に変化したことも挙げられます。他者と物理的に距離をとることを強いられたコロナ禍の数年で、オンライン上でのコミュニケーションが一気に加速したことは、皆さんもご存じのとおりです。けれども、オンライン上での関わり方は世代によって大きな違いがあります。
また、心理的な距離と物理的な距離が必ずしも一致しないことが増えています。共通のマナーやルールができあがらないまま、どんどん新たなコミュニケーションツールが登場し、匿名による発信がおこなわれています。それは自由な表現を活発化させると同時に、心ない発言や誹謗中傷が飛び交う空間を生んでしまっています。
つまりひと言で言うと、現代は「傷つきやすい時代」である、そう言えるのではないでしょうか。
心の「傷つき」は、精神医学や心理学といった学問だけで理解できるものではありません。心というものはつねに、社会や文化に開かれているからです。
『NHK出版 学びのきほん 傷つきのこころ学』では、「傷つきやすい時代/「傷つく」と「傷つける」/傷つきの練習/傷つきを癒やすには、といった4つのテーマで、「傷つき」について考えていきます。
著者紹介
宮地尚子(みやじ・なおこ)
一橋大学大学院社会学研究科教授。1986年京都府立医科大学卒業。1993年同大学院修了。専門は文化精神医学・医療人類学。精神科の医師として臨床をおこないつつ、トラウマやジェンダーの研究をつづけている。著書に『トラウマ』(岩波新書)、『ははがうまれる』(福音館書店)、『環状島= トラウマの地政学』(みすず書房)、『傷を愛せるか』(ちくま文庫)など。
※刊行時の情報です
◆『NHK出版 学びのきほん 傷つきのこころ学』より抜粋
◆ルビなどは割愛しています
◆TOP画像:Shutterstock