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待望の大林宣彦監督との初仕事に挑んだ『水の旅人 侍KIDS』公開までのスリリングな日々、そして『タスマニア物語』のこと

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待望の大林宣彦監督との初仕事に挑んだ『水の旅人 侍KIDS』公開までのスリリングな日々、そして『タスマニア物語』のこと

連載 第7回【私を映画に連れてって!】


~テレビマンの映画武者修行40年


文・写真&画像提供:河井真也

1981年にフジテレビジョンに入社後、編成局映画部に配属され「ゴールデン洋画劇場」を担当することになった河井真也さん。そこから河井さんの映画人生が始まった。
『南極物語』での製作デスクを皮切りに、『私をスキーに連れてって』『Love Letter』『スワロウテイル』『リング』『らせん』『愛のむきだし』など多くの作品にプロデューサーとして携わり、劇場「シネスイッチ」を立ち上げ、『ニュー・シネマ・パラダイス』という大ヒット作品も誕生させた。
テレビ局社員として映画と格闘し、数々の〝夢〟と〝奇跡〟の瞬間も体験した河井さん。
この、連載は映画と人生を共にしたテレビ局社員の汗と涙、愛と夢が詰まった感動の一大青春巨編である。

▲〝映画ファンのための映画まつり〟という趣旨で、76年に初開催された「おおさか映画祭」。2006年からは、おおさかシネマフェスティバルと名称が変更になった。94年2月に開催された「第19回おおさか映画祭」では作品賞に輝いた『月はどっちに出ている』の崔洋一監督、主演の岸谷五朗、最優秀主演女優賞を受賞したルビー・モレノらに加え、作品賞では2位になった『僕らはみんな生きている』で脚本賞を受賞の一色伸幸氏、『眠らない街 新宿鮫』と合わせて主演男優賞受賞の真田広之、助演男優賞受賞の岸部一徳ら、すばらしき映画人たちが顔をそろえた。後列右から3番目が特別賞を受賞した筆者。

 

『病院へ行こう』(1990)の後は、怒涛のように映画を創った。5年位は「がん患者」でもあり、抗がん剤治療も続いていたが、見かけ上、仕事には完全復帰した。片方の足を一部失くしたので、自転車は乗れない、走れない、屈伸できない、正座出来ない……など機能上のハンデはあったが、映画製作とはほとんど関係無かった。一点だけ、映画絡みで言えば映画館の狭めの椅子だと、足が曲げられず、今でもそうだが、座席は必ず通路のある端に座るようになった。
 映画製作が止まらなくなったフジテレビで、最も重要な映画となるのは〝東宝系夏休み公開〟だ。
『病院へ行こう』は僕自身の企画にもかかわらず、「来年の夏休み映画を」との指令が出る。組織人としては光栄なことかもしれないが、ようやく退院して『病院へ行こう』をそのままメインでやれるのかと思いきや、〝夏の映画〟の企画が優先であるとのお達し。1989年夏である。公開まで1年しかない。「転んでもただでは起きぬ」とか「土壇場に強い」とか、麻雀なら嬉しいが、「1年後の東宝系で配収25億円目標!」と言われ、「企画は?」と聞くと、「それを河井がこれから考えるんだよ!」とあっさり言いきられ、「わかりました……」というしかない。
 これから企画を考えて、撮影は冬場で、公開は夏休み。『南極物語』のように清涼感があって夏休みに大ヒット! は経験しているものの、あんなことは滅多に実現できることではない。

 日曜の朝、家で朝日新聞をいつものように別刷り(日曜版)から読もうとすると、そこにセピア色に映ったタスマニアタイガーの大きな写真。犬? 狼? と思ったが、読んでみるとタスマニア島のタスマニアタイガーが何故、絶滅したか……の記事。その時タスマニア島の存在は知らず、アフリカかな……程度の知識だった。
 読んでみると、日本の商社などが森林伐採をやりすぎて、生息場所を失い、絶滅したのではないか……と現地の人は推測している、というような記事だった。
 その日の午後だったか、娘の小学校の文化祭に参加すると、テーマが「オゾン層の破壊から地球を守ろう!」という凄い標語があった。見てみると「オゾン層の破壊が激しいオーストラリアでは世界で最も皮膚がんが多い……」ということだった。小学生が、こんなことまで考えているのか……との驚きがあった。
 映画『タスマニア物語』(1990)は、この二つの事を体験したことから生まれたのである。翌月曜日だったか、この記事を書いた朝日新聞の記者にアポを取り、会いに行った。そして速攻で、ストーリーを書く(でっち上げる?)。「自責の念に駆られた商社マンが、最終的には自らがタスマニアタイガーを発見する……」という内容。この間、数日だが、〝大作〟を作って〝ヒット〟を狙うのには時間が無さすぎる。オーストラリアでの撮影が、日本の冬から春だとすれば、南半球は逆なので夏の撮影になる。7月の公開は何があっても動かない。色々、企画は考えたいところだが、時間切れ(そもそも時間切れからスタートしたようなものだが)で上司に提出。
 タスマニアの位置を知る人もほとんど居なかったが、皆、考える時間を持てないので、「これで行こう!」と。シナリオもないが、大作?? なので6~8億円位の製作費がOKになった。『私をスキーに連れてって』の1億円の捻出は大変なハードルがあったが、さすが〝国民映画〟製作はあっさり決定した。

▲1990年公開の映画『タスマニア物語』。メガホンを取ったのは、高倉健主演の多くの作品で知られる降旗康男監督で、脚本はテレビドラマ「前略おふくろ様」「茜さんのお弁当」「池中玄太80キロ」「向田邦子新春ドラマスペシャル」などの脚本に関わり、向田邦子賞も受賞している金子成人さんが手がけている。25億円を超える配給収入は、90年邦画配収では2位の成績で、多くの観客を劇場に呼び込んだ。田中邦衛、薬師丸ひろ子、根津甚八、緒形直人らに加え、小林桂樹、加藤治子、富司純子らベテラン俳優たちも出演している。

 

 監督は降旗康男さん。これは僕のリクエストではなく、〝大作〟映画の監督として相応しい人かと。脚本の金子成人さんともお会いし、企画の説明などを行なうが、そもそも確固たる自信を持って臨めるべくもなく、脚本家には大変な苦労をさせてしまった。降旗監督も、それまでやって来られた映画とは全くテイストが違う作品。現場を仕切ってくれたフィルムフェイス(『あ・うん』等制作)の方にも、申し訳ない気もした。
 それでも、シナリオ制作~ロケハン~タスマニアでの撮影~仕上げ、と否応なく時間は進む。東京現像所のゼロ号試写で観た直後、僕は〝暴言〟を吐いたらしい。〝らしい〟というのは自分が憶えてないからだ。クライマックスの「タスマニアタイガーだ!」と発見するシーンで愕然としたことは憶えている。今ならCGがあるのでクッキリ創れるのだが、当時の技術ではなかなか上手くいかず、そこにはボケボケのタイガーしかいなかった。試写室が明るくなり、僕が降旗監督にむかって「ダメでしょう! 作り直しましょう!」というようなことを言ったらしい。物理的な時間的な問題も含めて〝暴言〟になったようである。
 僕の腹は決まり、映画の内容にはあまり触れず、ひたすらウォンバットやカンガルーといった動物映画のようにファミリーにアピールした。テレビスポットも28パターン作った。久石譲さんの音楽だけは素晴らしかったが、宣伝のため、藤井フミヤさんのイメージソングも突如加えて15秒スポットを作った。あらゆる自社媒体宣伝と動員戦略により、予想に反して配収25億円(興行収入だと40数億円後半)を越えるヒットになった。

「さすがフジテレビ!」の声も僕自身は、そんな境地ではなかった。やっぱり、映画を作るときはパッションと志を持たなくては……。何よりまずは企画の吟味が必要だ。それから3年間は、シネスイッチも含めると10本以上の映画に携わった。シネスイッチでは『新・同棲時代』(1991)に『きらきらひかる』(1992)。その他には、『マドンナのごとく』(1990)、『波の数だけ抱きしめて』(1991)、『パ★テ★オ』(1992)、『七人のおたく』(1992)、『病は気から 病院へ行こう2』(1992)、『眠らない街 新宿鮫』(1993)。さらに、僕自身の学生時代の体験をベースにした『国会へ行こう』(1993)……etc.1993年の<おおさか映画祭>では「よく(こんなに?)やったで賞」的な「特別賞」をもらった。

▲PART1、PART2をテレビで放映し、完結篇を劇場公開するというメディアミックスの試みにより制作された92年公開の『パ★テ★オ』。旅行添乗員の菊池桃子と、考古学者の加勢大周が、香港、シドニー、ジャカルタ、インドネシア、日本各地に点在するパテオ伝説をめぐり冒険を繰り広げるサスペンス・ミステリーで、鈴木京香、松雪泰子、鶴見辰吾、佐藤慶らが共演している。監督は映画『花より男子』、テレビドラマ「愛しあってるかい!」の楠田泰之、脚本はテレビドラマ「ママはアイドル!」「もう誰も愛さない」の吉本昌弘が手がけている。写真はインドネシアでの撮影時の一枚で、筆者によると、撮影が困難な状態に陥り、スタッフィやキャストに大迷惑をかけたということだ。前列右端の筆者の隣は、昨年亡くなった俳優・宝田明さん。

 その間に、久石譲さんからコンサートのお誘いがあり、座席に付くと、隣は大林宣彦監督だった。終了後、楽屋に行くと、久石譲さんから大林宣彦監督を紹介された。『転校生』が大好きだったので、いつかこの監督と一緒に出来たら……というか、長く大林監督の音楽をやっている久石さんからは「是非、一緒に組んで!」と言われているような気がした。これが『水の旅人 侍KIDS』(1993)になる。
『タスマニア物語』で学習したことは、〝志〟とか〝信念〟を持った企画で勝負する、ということだった。
 再び、フジテレビの上司からのお達し。『南極物語』以降、フジ製作の夏休み映画が3年以上間を空けたことはない。必ず、夏休み映画を製作してきた。とのことで『タスマニア物語』から3年後の1993年の〝夏休み東宝系公開日〟が先に決定した。
 運よく『雨の旅人』(末谷真澄:著)の原作に出会えた、『ET』(1982)好きの僕には、やりたかったファンタジーものだった。しかも、末谷さんはシナリオも書いてみたとのことで、これが、とても良かった。またまた、時間もあまりなく、他に企画があるわけでもなく、すんなり決定した。そして、僕にとっては満を持して? 大林宣彦監督で行く旨の了解ももらった。ここまでは、何とツキがある人間だと思ったが、「天国と地獄は2つでセット」を味わうことになる。

 夏休みに「雨の~」だと、ちょっと淋しいのでタイトルを『水の旅人 侍KIDS』に変更してもらった。決まっているのは、「1993年夏休み東宝系公開」「監督:大林宣彦」「音楽:久石譲」だけだった。勿論「配収20億円以上!」は決まっていた。映画館が減り続け千数百館(現在は3500スクリーン)となり、夏休み大公開でも百数十スクリーン(今なら300スクリーン以上か)で、邦画はピンチの時代でもあった。
 大林宣彦監督は映像の魔術師とも呼ばれていたが、あまり今回の「特撮」(ハイビジョン合成)には興味が湧かないことを後で知った。僕は何となく『時をかける少女』のようなファンタジー感を期待していたのかも知れない。ある意味では、大林監督なら映像は頭の中にあり、シナリオなどが仮に無くても撮れる人かもという意識はあったが、今回は〝ヒット必須〟であり、しかも僕が気にいったシナリオが既にあり、大林監督もにこやかに引き受けて下さっていた。
 撮影の数日前に、オールスタッフ打ち合わせを東宝成城撮影所で行なった。スタッフ全員が参加し、チーフ助監督MCの元、監督とスタッフが撮影シーンを共有する場である。監督は遅刻、監督からはシナリオの潤色(直し)をやってオールスタッフに間に合うように……との事だったが、間に合わなかった。2,3日後には福岡から撮影開始だが、脚本がなかった……。
 結局、毎日、監督の書く、手書きのコピーがシナリオになった。「潤色」の意味を自分が間違えていたのか、全部「書き換える」とは思わなかった。

 スタートで躓くと、なかなか元の軌道には戻せない。しかも、シナリオが事前に無いのでスタッフも動けない。明日の撮影場所が決まらない状態の中で、何とか持ちこたえていたが、物理的にギブアップになった。こうなると新たなスタッフを投入するしかない。別班A班、B班と、どんどん膨らんで行く。1月クランクイン、3月アップの予定が、ずるずると延びていく。監督作品『青春デンデケデケデケ』(1992)が日本アカデミー賞に入ったので東京へ戻る大林監督に見張り番として付いて行って、一刻も早く現場に戻ってもらわねばいけない。
 撮影が延びているので上司に「一度、東宝撮影所に来てもらって大林監督にビシッと!」という依頼をした。結局、現場に来て「監督、頑張ってください!」と激励はしてもらったが、自分としては「もう頑張らなくていい!?」と言ってほしかったのだ。上司と熱い握手をした監督が「河井さん、上司もお墨付きでOKだね」と理解不能なリアクション。それでも憎めない愛すべきキャラなのだが……。
 大林監督と話すのは面白く、楽しい。しかし、100人を越すスタッフの中で「もう撮影ストップ!」などと言えるのは、悲しいかな、プロデューサーだけである。既に4月アップもままならぬ状況。スタッフの数も膨れ上がり、予算も当然オーバー。軌道修正も上手く出来ず、撮影は5月にずれ込む。3月アップ予定で2か月のポスプロを経て5月末完成、7月17日公開。この最後の「公開日」は発表もされており、ずらせないのだ。
 此方で最初に印刷した台本は、大きく書き換えられ、10%程度しかオリジナルの内容は残っていない状態。しかも、日々、書き換えられるので結末はわからない。スタッフも準備の時間がなく右往左往である。

 その後、編集作業で東宝成城撮影所に殆ど、泊まり込み状態。撮影は無事? 終了したが、編集作業が延々と続き、ついに完成披露試写会の前日になった。僕も結局、撮影所で夜明けを一緒に迎えることになる。
 日の出を見ながら、忘れられない監督の一言。

「河井さん、いよいよ『映画』らしくなって来ましたねえ……」

 僕は、普通に睡眠したい派だが、監督は1時間くらい(の睡眠)がちょうど良いらしい。恐ろしい監督とご一緒したものである。結局、有楽町マリオンでの夜の完成試写会(そう、すでに7月に突入していた)の当日の朝なのに完成していない。

「監督、流石にもう(編集済みを)現像所に出さないと、今夜の試写会に、間に合わないんじゃないですか?」

「大丈夫。イマジカは優秀だし、慣れてるから!」

 この言葉を信じ(騙され?)、9時過ぎまで作業は続いただろうか。現像所の完成予定は夕方になりそうで、果たして6時台のマリオン試写に間に合うのか……?
 現像所と電話連絡を取り、タクシーで運んで渋滞にハマるとまずいので、フィルムを山手線で、五反田から有楽町まで手持ちで持ってきてもらうことになった。
 フィルムは来ないのに、舞台挨拶は始まってしまう。普段は長~い監督の舞台挨拶を、こちら側は「出来るだけ短く!」と手信号を送ったこともあったが、今回は「延ばしてOK」と合図を送るしかない。そして、そこで観客席に向けて驚くべき監督の発言。

「皆さん。今夜、ご覧いただく映画は、ここでしかご覧いただけないものです。最後の仕上げの途中で……今宵限りの……」

「それって、未完成?完成試写会じゃないの?」という観客の声が、自分の心の中では拡散しつつも、現像所からプリントが届き、無事? 上映開始。プリントの一部に不具合がありつつも(当然、監督は承知の上でか)、何とか上映終了。
 監督から「さあ、東宝撮影所に戻って続きやりましょう!」と、元気な声で……。
 そこからまた数日ポスプロがあり、公開には間に合ったような。本当にちゃんと完成しているのか? それは、監督のみぞ知る状態……。とにかく全国の映画館で上映は始まった。
 並行して宣伝展開もやっていたが、中味を、内容をアピールしてという所には持って行けなかった。あまりにカット数が多く、監督も「このカット数は新記録じゃないか」と……。久石譲さんの素晴らしい音楽は今回も存在しながら、映画の内容をしっかりと伝えることができなかったことは、此方の力不足で申し訳ない気持ちだった。

▲93年公開の、時空を超えて現代の東京に流れ着いた水の精である一寸法師のように小さな老侍と、ひ弱で内気なところがある現代の少年が織り成す友情を描いた心温まるSFファンタジー『水の旅人 侍KIDS』。少年は、小さな侍から、勇気や自然のやさしさ、武士の心を学ぶが、侍は水質汚染で体を蝕まれてしまう。少年は侍を助けるために水源へと向かう……という環境問題や自然保護のテーマを盛り込んだみずみずしい作品である。全編の80パーセントがハイビジョン映像で撮影されている。老侍を演じたのは山﨑努で、原田知世、風吹ジュン、岸部一徳らも出演している。本作は筆者の待望であった、大林宣彦監督との仕事であったが、この作品に関わったことにより、筆者は映画製作について、映画プロデユーサーという仕事について考えさせられることになる。また、本作のメイキングビデオを、筆者の友人でもある舞台演出家として名を成している鴻上尚史氏が撮影している。大林監督から映画を学びたいとしてメイキングの撮影を嘆願したという。『映画の旅人 大林宣彦の世界』としてリリースされているが、メイキング監督としては、ずっと一緒に大林監督といられる、と筆者に語っていたという。

 公開スタートは、予想通り? 低調かと思いきや、夏休みに入り客足が伸び、最終的には配収20億円(興行収入だと40億円弱)を越えるヒットに。配給関係からは「パート2」も! との声も聞こえてきたが、「あり得ません!」と言うしかなかった。
 挫折感はなかったと思うが、「これじゃダメだ」とは強く感じた。同時に、自分の至らなさや未熟さを思い知った経験にもなった。プロデューサーとしての目論見、目標、そしてそこまでのプロセス……。ある意味では、スタッフ、キャストらの期待に応えられなかったこと。アメリカの「映画プロデュース講座」などを読みながら、いかに自分の、そして日本の映画製作が世界と異質であるかを考えさせられた。

 そんな時、紹介で米米CLUBのカールスモーキー石井さんと会うことになった。また、同時期に、まだ映画を撮ったことがない岩井俊二さんに会うことになり、新たな展開がスタートする。

かわい しんや
1981年慶應義塾大学法学部卒業後、フジテレビジョンに入社。『南極物語』で製作デスク。『チ・ン・ピ・ラ』などで製作補。1987年、『私をスキーに連れてって』でプロデューサーデビューし、ホイチョイムービー3部作をプロデュースする。1987年12月に邦画と洋画を交互に公開する劇場「シネスイッチ銀座」を設立する。『木村家の人びと』(1988)をスタートに7本の邦画の製作と『ニュー・シネマ・パラダイス』(1989)などの単館ヒット作を送り出す。また、自らの入院体験談を映画化した『病院へ行こう』(1990)『病は気から〜病院へ行こう2』(1992)を製作。岩井俊二監督の長編デビュー映画『Love Letter』(1995)から『スワロウテイル』(1996)などをプロデュースする。『リング』『らせん』(1998)などのメジャー作品から、カンヌ国際映画祭コンペティション監督賞を受賞したエドワード・ヤン監督の『ヤンヤン 夏の想い出』(2000)、短編プロジェクトの『Jam Films』(2002)シリーズをはじめ、数多くの映画を手がける。他に、ベルリン映画祭カリガリ賞・国際批評家連盟賞を受賞した『愛のむきだし』(2009)、ドキュメンタリー映画『SOUL RED 松田優作』(2009)、などがある。2002年より「函館港イルミナシオン映画祭シナリオ大賞」の審査員。2012年「SKIPシティ国際Dシネマ映画祭」長編部門審査委員長、2018年より「AIYFF アジア国際青少年映画祭」(韓国・中国・日本)の審査員、芸術監督などを務めている。

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