メガバン妻が悟ったリーマン家庭の限界値。吉祥寺より2駅下った先の中古マンション
【何者でもない、惑う女たちー小説ー】
【武蔵境の女・竹島千佳33歳 #1】
武蔵野の自然を携えそびえる瀟洒な白亜の建物は、まるでこの場所がヨーロッパの一都市であるかのような錯覚を与えてくれる。
竹島千佳は独身時代に友人と訪れたパリのモンマルトルにある美術館を思い出した。
武蔵境駅からすぐの武蔵野プレイスは、図書館などが入る公共施設だ。
数年前は、名建築として雑誌・BRUTUSにも掲載されたことがあるという。開館は2011年とまだ日は浅いが早くもこの街のランドマークとなっている。
葉桜が季節の移ろいを知らせる日曜の昼下がり。千佳は建物前の丸いベンチに座り、この街に住む優越感に酔いしれた。
それはまるで、自己暗示をかけるように…。
夫とペアローンで中古分譲マンションを購入
マーケティング会社で働く33歳の千佳は1年前、結婚を機に築浅の中古分譲マンションを夫・正信とペアローンで購入した。
今はやっと、この街の環境に慣れてきたところだ。
――駅周辺で何でも完結するし、丸の内にある職場にはJR中央線で乗り換えなしの1本で行ける。子育てもしやすそうだし…。
そんなことを考えながらも、千佳にはまだ子供はいない。メガバンクに勤務する正信は、優しくて家事も率先して行う良き夫であるが、ふたりの時間をまだ味わっていたいのだ。
彼への不満は、こんな天気のいい休日も出勤がある激務なことくらい。
「キャアアアアアーーーー」
突然、未就学児たちが甲高い奇声をあげて目の前を通り過ぎていった。
ユニクロのフリースを着たママたちが子供を追いかけている。ヨーカドー帰りなのか、傍らのベビーカーにはダイソーの袋とカルディのエコバッグが乱雑にぶら下げてあった。
千佳はひとつ、ため息をついてその場を立ち去った。
南麻布の鮨店で結婚記念日を祝う
「大将、お元気そうで何よりです」
その晩は、千佳と正信の初めての結婚記念日だった。
彼が帰宅してすぐ車を走らせ、独身時代に通っていた南麻布の鮨店を訪れる。
この店に初めて訪れたのは、5年前。当時、懇意にしていた、だいぶ年上の男性に連れてきてもらった。
ことの経緯は正信に内緒だが、大将もそれを理解し、含みつつ対応してくれるので、安心して贔屓にできる。
「本当においしいね。千佳は本当にグルメだなぁ」
「マサ君は舌が子供なのよ。東京に住む大人なら贔屓の鮨屋の1軒くらいは持っていないと」
大将に渡された手巻きのウニを堪能しながら、互いに肩を寄せ合い、笑いあった。その仲睦まじさに、周囲の弟子たちも顔がほころぶ。
ソムリエの何気ない問いに…
千佳の冷酒グラスが空になったのをきっかけに、店のソムリエがワインをふたりに勧めた。
「すみません、今日は車で来たんです。家が遠いので」
正信は丁寧に断り、引き続きノンアルコールビールを頼んだ。
「そうなんですね。ご自宅はどちらでしたか」
ソムリエは残念そうに微笑みながら、何気なく尋ねる。ほろ酔いでリラックスしていたはずの千佳がピンと背筋を伸ばした。正信が答える前に、会話に割って入った。
「自宅は…吉祥寺なんです」
吉祥寺は2駅も先なのに…嘘をついた千佳の本心
千佳と正信は食事を終えるとそのまま帰路についた。
もう1軒の余裕がある時間だったが、家まで1時間かかる上に、都心の駐車場代は高いから仕方ない。
まだ物足りなそうな妻の様子を察した正信は、わざわざ都心環状線内回りを通る。芝公園付近、東京タワーが見えるあたりで、千佳は目を輝かせた。
「千佳はネオンとかタワーが好きだからね」
「ありがとう」
うっとりと瞳に映るのは東京タワーのライトアップ、湾岸エリアのマンション群、レインボーブリッジ。
千佳は故郷の夜空の星の光より、人工的なネオンが好きだ。
そのひとつずつに、人の息遣いを感じることができるから。
割り切れない現実
運河の向こうにそびえる塔に住んでいるのはどんな人だろう、と思いを馳せる。
少なくとも自分たちより余裕ある人であることには違いない。
――あの無数の光のひとつにも、私はなれない…。
「どうしたの? 飲みすぎた?」
愛車・トヨタハリアーのハンドルを手にする正信は、隣で顔を曇らせた妻を気遣った。千佳は優しい夫の思いやりを無にしないよう、首を振り口角をあげた。だが、内心は憂鬱なままだ。
車はしばらく都内を走り、首都高速から中央自動車道を経て自宅まで続く天文台通りに入っていく。
煌めきとはかけ離れた、信号と街灯だけの暗い道が続く。理想の世界から現実にたどり着くまでの移動時間はあまりにも長い。
未だ割り切れない現実を千佳はかみしめる。
本当はもっと都心に住みたかった
武蔵境に住み始めた理由は、よくある金銭面の問題だ。二馬力で頑張れば千佳の望む都心に家を購入できないことはなかったが、堅実思考の正信に押し切られたのだ。
メガバンク勤務といえど技術職で、年収は今のところ大台に満たない彼 。千佳も同様だ。お互い実家は普通のサラリーマン家庭で、格別裕福なわけでもなく、親に頼ることはできなかった。
賃貸でも千佳は構わなかったが、夫婦ともに33歳という今の年齢ならローン審査も通りやすいからと説得され、結局、都下に3LDK・ファミリータイプのマンションを購入することになった。
「ハァ…」
見慣れた鮮やかなロゴが溢れる駅前が見えてきて、千佳は静かにため息をついた。
チェーン店が並ぶ街は、地元・群馬の中心地と変わらない無個性さ。東京都のほぼ真ん中に位置しているはずなのに、先ほどまでいた西麻布の雰囲気からは程遠い。
――本当は、もっと都心に住みたかった。
独身時代の研ぎ澄まされた感覚はなかなか抜くことができない。
いつかは慣れると思いながらも、慣れたくはない自分がせめぎあう。
暗がりの窓には、精気を失った女の顔が映っていた。
【#2へつづく:千佳の前に湾岸在住の専業主婦が現れる。その女は…】
(ミドリマチ/作家・ライター)