Yahoo! JAPAN

ルネサンス期の哲学はなぜ軽視されてきたのか?『哲学史入門Ⅰ 古代ギリシアからルネサンスまで』より

NHK出版デジタルマガジン

ルネサンス期の哲学はなぜ軽視されてきたのか?『哲学史入門Ⅰ 古代ギリシアからルネサンスまで』より

 人文ライターの斎藤哲也さんが、第一人者たちへの「聞き書き」で主要哲学者の思想の核心に迫るシリーズ『哲学史入門』。発売即増刷が決定した第一巻『哲学史入門Ⅰ 古代ギリシアからルネサンスまで』より、ルネサンス思想史・芸術論が専門の伊藤博明さんによる「ルネサンス哲学の核心 新しい人間観へ」を抜粋して公開します。

『哲学史入門Ⅰ 古代ギリシアからルネサンスまで』2024年4月10日発売 定価1100円(税込)

ルネサンス期の哲学はなぜ軽視されてきたのか

斎藤 一般向けの哲学史入門のような本だと、ルネサンス期の哲学はほとんど黙殺されています。本題に入る前に、ルネサンス哲学の存在感が薄い理由から教えていただけますか。

伊藤 イギリスの有名な哲学者バートランド・ラッセル(1872-1970)は、『西洋哲学史』という著書のなかで、ルネサンス期を「哲学において偉大な業績を上げた時代ではなかった」と評しています。ルネサンス期は、重要な理論的哲学者を一人も生み出していないというわけです。

斎藤 ずいぶんな評価ですね。

伊藤 でも、ラッセルのような評価は珍しくはありません。それは、狭義の哲学という観点から見ると、正しいと言えば正しいんです。たとえば、教科書に出てくるエラスムスやトマス・モア、モンテーニュといった人文主義者は、一般的なイメージで言えば哲学者じゃないんですよ。哲学史に残るような、独自の存在論や認識論を展開したわけじゃありませんからね。

 彼らの思想は、文学や文献学、歴史学、芸術理論などを含めたより広い文脈で捉えないと、うまく理解できないだろうと思っています。つまり、ルネサンス期の思想というのは、哲学史にはきれいに収まらない。この後にもお話ししますが、むしろそこから外れていくような神秘主義やオカルト的な思索をも含めた文化的な豊穣さこそがルネサンス思想の魅力でもあるんですね。まさしく、百花繚乱という感じです。

 だから「ルネサンス期の哲学はこうだ!」とまとめるのは難しいし、それゆえに既存の哲学史には嵌まりにくいんです。そういう点をふまえると、ラッセルのような哲学者がルネサンス期の哲学を軽視するのはよくわかります。

スコラ哲学への対抗意識

斎藤 たしかに、高校倫理の教科書や大学で使われるような哲学史のテキストでも、ルネサンス期の哲学や思想の特徴としてヒューマニズム(人文主義)が挙げられます。でも、その説明を読んでも、あまり哲学という感じはしないのですが。

伊藤 おっしゃるように、人文主義は哲学じゃないですね。人文主義的なものが土台になって、近世の哲学的思考が生まれてきたとは言えるかもしれませんが、人文主義イコール哲学というのは、僕も違うだろうと思います。

斎藤 まず「人文主義とは何なのか」ということから教えていただけますか。

伊藤 人文主義は、英語で言えば「ヒューマニズム」ですね。ヒューマニズムというと、現代では、人間の価値や尊厳を重視する立場を表しますが、ルネサンス期を特徴づける「人文主義」はそれとは無関係とまでは言えなくとも、現在の用法とは大きく異なります。

 人文主義は、一九世紀初頭にドイツの教育学者ニートハンマー(1766-1848)がつくった「フマニスムス Humanismus」という言葉に由来します。フマニスムスは、ラテン語の「フマヌス humanus」(人間の)にもとづく造語です。

 当時、ドイツでは産業が発展し、実用的な教育、つまりすぐに仕事に結びつくような教育を求める声が高まっていました。このような流れに対して、人格形成には古典が重要だということで、旧来の教育、すなわちギリシア語やラテン語を教える古典教育を守ろうという運動が起こったんですね。

斎藤 なるほど。人文主義はもともと、ドイツの古典教育運動を表現する言葉だったんですね。

伊藤 そうです。一方で、ルネサンスもギリシア・ローマ文化の古典文化復興をめざしたわけじゃないですか。それで一九世紀の歴史家たちは、人文主義という言葉をルネサンス期の知識人たちの運動にあてはめたんです。

斎藤 でも、ヒューマニズムは、ラテン語の「フマニタス humanitas」(人間性)を語源とするという説明もよく見かけるんですが。

伊藤 ラテン語のフマニタスは、ローマ時代から、市民階級にふさわしい教養という意味でも用いられていました。もとをたどれば、古代ギリシアの「パイデイア」(教養)の理念に遡さかのぼります。

 それが中世ではより具体的に、七つのリベラル・アーツ(自由学芸)として整理されます。文法・論理学・修辞学という三学と、算術・幾何・天文・音楽という四科です。 

 なお、「リベラル」という名称は、古代ローマ社会では、奴隷に対して市民を「自由人」と呼んだことに由来する歴史的用語です。つまり、リベラル・アーツとは「自由人にふさわしい教養」ということ。そして、リベラル・アーツは一二世紀に大学が創立されると、法学・医学・神学という専門的学問を学ぶ前段階として、教養課程に組み込まれていきます。

「ルネサンス哲学の核心 新しい人間観へ」より

 さらにルネサンス期になると、この伝統は「フマニタス研究 studia humanitatis」に受け継がれていきます。文字通りには「人間性の研究」という意味です。このフマニタスを研究し、教える人を「フマニスタ humanista」といいます。英語で言えば、ヒューマニストです。少しややこしくなりますが、それを日本語では人文主義者と訳したわけです。

斎藤 人間性の研究というのは、具体的にはどういう内容なんですか。

伊藤 文法・修辞学・歴史学・詩学・道徳哲学などが中心ですね。こういった学問について、ルネサンス期の人文主義者たちは、自らの文化のルーツであるギリシア・ローマ文化に関心を抱いて、批判的精神を発揮しながら古代のさまざまな著作を読み解いていったんです。

伊藤  同時に重要なのは、彼らはしばしば、自分たちのやっている「フマニタス研究」を、中世の大学で教えられていた法学・医学・神学といったスコラ的な学問に対置していたことです。

斎藤 スコラの学問にライバル心を抱いていたわけですね。

伊藤 それははっきりと感じられます。その意味では、ペトラルカからエラスムスまで、ルネサンス期のヒューマニズムは、スコラ的な学問に対抗意識を燃やした学芸運動と評することもできますね。なぜペトラルカはスコラ学者に反発したのか

斎藤 ルネサンスの時代でも、学問の主流は中世から続くスコラ哲学ですよね。人文主義者たちは、なぜスコラ哲学に対抗しようとしたんでしょうか。

伊藤 人文主義者の先駆者であるペトラルカの作品を見ると、そのことがよくわかります。

 ペトラルカは1304年生まれですから、ルネサンス最初期の人物です。イタリア中部の都市アレッツォで生まれた彼は、父が法律家だったこともあって、当時のエリート大学であるボローニャ大学で法律を学びますが、早くから詩人になりたいと思っていた。そして父が亡くなると、詩人として生きていくことを決めるんですね。

 このペトラルカは、さまざまな著作で、当時のスコラ的な学者を攻撃しています。わかりやすい一節を引用してみましょう。

人間の本性はいかなるものか、なんのためにわれわれは生まれたのか、どこから来て、どこへ行くのか、ということを知らず、なおざりにしておいて、野獣や鳥や魚や蛇の性質を知ったとしても、それがいったいなんの役にたつでしょうか。

『無知について』近藤恒一訳、岩波文庫、三四頁

 要するに、スコラ学者というのは動物や生物の性質なんかはよく知っているけれど、人間の魂のことは考えたことがないだろうと批判しているわけですね。

 ペトラルカのこの一節は「自然(Nature)から人間本性(human nature)へ」というルネサンス思想の方向性も示唆するものです。当時の大学教育は、アリストテレスやトマス・アクィナスなど、権威あるテキストを注解したり、それについて討論したりすることが中心でした。こういう教育は、ともすればテキストの字義に拘泥して、衒学的な議論になりがちです。

斎藤 いまでも、やたらと細かいだけで実がない議論のことを「スコラ的」と揶揄しますね。

伊藤 ペトラルカも、まさにそういう意味でスコラの学問を批判したんです。

 そこでペトラルカのような人文主義者たちが向かったのが古代の著作です。それも原典に帰る。原典に帰ろうという姿勢は、ルネサンスの人文主義者に共通するばかりか、のちに触れる哲学的なプラトン主義者にもアリストテレス主義者にもはっきりと見てとることができます。

 だから人文主義というのは、一つの教義というべきものではないんですね。ペトラルカに代表されるように、古代の原典を再生させ、それに学ぼうという意欲と、人間性や人間がつくる社会への関心という精神的な態度や知的な方向性と捉えるのが適切だと思います。

伊藤博明
1955年生まれ。専修大学教授。専門はルネサンス思想史・芸術論。著書に『ルネサンスの神秘思想』(講談社学術文庫)、『綺想の表象学』(ありな書房)など。

斎藤哲也(聞き手)
1971年生まれ。人文ライター。東京大学文学部哲学科卒業。著書に『試験に出る哲学』シ
リーズ(NHK出版新書)、監修に『哲学用語図鑑』(プレジデント社)など。

関連記事

【関連記事】

おすすめの記事

新着記事

  1. 菅井友香、役作りのこだわりを明かす「人生で初めて髪色に赤を入れました」ドラマ『ビジネス婚ー好きになったら離婚しますー』制作発表にて

    Pop’n’Roll
  2. 【函館市・ラーメン】透明なスープに細打ち麺、チャーシュー、メンマ、ネギがのるシンプルな「塩ラーメン」だからこそ、各店のセンスが光る!函館の塩ラーメンの名店10選!

    まっぷるトラベルガイド
  3. 【ゴールデンカムイ舞台探訪】団子をかじって最終決戦! アシㇼパたちの長い長い旅の終着地、函館を訪ねる

    ロケットニュース24
  4. Nothing’s Carved In Stone、5度目の野音ワンマン『Live at 野音 2024』開催が決定

    SPICE
  5. ライズプロダクションから新グループ・雨のち、ハレーション、デビュー!【メンバーコメントあり】

    Pop’n’Roll
  6. 【AliExpressで爆売れ】958円の『電気ダンスロボット』がヤバい / レビューは「私の赤ちゃんはスーパー好きです」「素敵なおもちゃ」など

    ロケットニュース24
  7. SKE48 熊崎晴香、佐藤佳穂、末永桜花、写真集 『ずぶ濡れSKE48 Team E』の魅力をアピール!【コメントあり】

    Pop’n’Roll
  8. JUN SKY WALKER(S)、初の対バンツアー開催が決定 SA、ハルカミライ、ROTTENGRAFFTYら第一弾アーティストを発表

    SPICE
  9. AKB48、19期研究生が劇場公演デビュー! フレッシュな魅力をたっぷりお届け【コメントあり】

    Pop’n’Roll
  10. 【男性編】離婚後のひとり暮らしで実感した“自由と寂しさ”のリアル #4「逃げられないこと」

    ウレぴあ総研