横浜大空襲から80年 紙芝居で綴る 平和の尊さ 「奥津家に疎開」の女性の記
80年前の1945年5月29日、容赦なく降り注ぐ焼夷弾が横浜の市街地を焼き払った。のちに横浜大空襲と呼ばれるその惨禍を生後9カ月の身で生き延びた女性が戦中戦後の体験を綴った紙芝居が、区内新治町の「にいはる里山交流センター」に保管されている。
15枚が「語る」メッセージ
女性の名は、有田佑子さん。『一命をとりとめて生きた証し』と題した紙芝居を、親交のある絵本作家との協力で製作し、一昨年9月、同センターに寄贈した。
作品は、自身の誕生を喜ぶ両親の笑顔や、横浜の空を舞うB29、自身を背に負い空襲に逃げ惑う母、戦後に実現した父との再会、自身の結婚などを描いた計15枚。綴られた幼少期の体験は父や親戚らから聞いたという。
有田さんは「子どもたちに、平和の大切さや『戦争はしてはいけない』というメッセージを伝えたい。ただ、戦争の記憶は口伝えだといずれ消えていってしまう。紙芝居の形で残せばインパクトがあるので、書きたいと思った」と、製作を思い立った経緯を語る。
母に抱かれ、つないだ命
1944年8月19日、父の転勤先である上海で誕生した有田さん。戦中、召集された父と離れ、横浜にある父の実家に移って1945年5月28日まで過ごした。
翌29日。その日、横浜には朝から青空が広がっていた。晴れ渡る空に、やがて約500機ものB29編隊が飛来。じゅうたん爆撃の末、市街地は焼け野原となったという。
すさまじい炎と煙の中、母の背に負われ、防空壕に逃げ込んだ。立ち込めた大量の煙に巻かれた母。我が子を必死に胸に抱き、うずくまった姿のまま命を落とした。22歳の若さだった。
地面から数cmまでは煙が降りて来ず、赤子だった有田さんは一命を取り留めた。祖父母に引き取られると、現在の緑区新治町にあり、祖父の実家である奥津家に疎開した。奥津家は江戸時代からの豪農名主。現在でも残る旧奥津邸の長屋門の2階で祖父母と暮らしたという。
長屋門は現在、同センターの一角に位置する。有田さんは「いつか紙芝居を、この交流センターで一般向けに披露したい」と話している。