MITが芸術カリキュラムに力を入れる理由とは?イノベーションの原動力として重要視される「人文学」の存在
ハーバード大学やマサチューセッツ工科大学では近年「芸術・人文学」課程に益々力を入れている。その狙いは一体何なのか? 苦境に立つ日本の音楽大学や「音楽軽視」が進む義務教育のあり方と比較しながら分析する。
芸術とビジネスが交差する場所を求め、これからクラシックが進むべきビジョンを問う『揺らぐ日本のクラシック 歴史から問う音楽ビジネスの未来』より、第8章「社会にクラシックをつなぐには」を抜粋して公開。
苦境に立つ音楽大学
現在日本には東京藝術大学、武蔵野音楽大学、桐朋学園大学、国立音楽大学など、数多くの音楽大学があるが、それらはどのように生まれたのだろうか。
武蔵野音楽大学の前身である武蔵野音楽学校が創立したのは1929年で、戦後の1949年に日本初の音楽大学となった。創設者の福井直秋は1928年に創設された第一次帝国音楽学校の校長で、同校の教職員を引き連れて武蔵野音楽学校を作るに至った。ちなみに、1930年に「第二次帝国音楽学校」として帝国音楽学校の再開校に尽力したのがヴァイオリニストの鈴木鎮一で、のちの「スズキ・メソード」の創設者である(第二次帝国音楽学校は1945年の東京大空襲による焼失で廃校となっている)。
同じ私立の有名大学としては、桐朋学園大学音楽学部が設立されたのが1961年のことだ。仙川の山水高等女学校が前身で、音楽科のルーツは齋藤秀雄・井口基成らの「子供のための音楽教室」(1948年開設)にある。幼き日の小澤征爾が通った音楽教室である。現在、日本のクラシック音楽家を目指す若者たちにとって〝桐朋〟は憧れのブランドだ。作曲家三善晃やチェリストでサントリーホール館長の堤剛らが教鞭をとり、ピアニストでアリオン音楽財団理事長だった江戸京子や、ベルリン・フィルの第一コンサートマスターを務めた安永徹を筆頭に、多数の世界的音楽家が同校の出身者である。
それでは現在の日本の音楽大学の数はどのくらいかというと、音楽学部やコースを持つなど音楽関連のカリキュラムを持つ大学は54校だという(株式会社ライセンスアカデミー社調べ。サウンドデザインや文化創生などの学部学科も含む)。しかし2000年度から2020年度までの21年間で増減はあるものの、およそ80校もの音楽教育系大学があったとされ、そうすると現在その数は7割程度まで減っていることになる。
昭和後期のバブル期頃までは、純粋な音楽への興味関心や、「音大に行けば奏者になれる」と大きな夢を抱いて音大に進学するのは珍しいことではなく、日本の家庭にもそれを支える経済力があった。しかしながらバブル崩壊から始まる長い不況、そして少子化が加速したことで、多くの大学が経営に不安要素を抱えるようになった(これは音大に限った話ではないが)。2020年7月に東京都の上野学園大学が次年度からの学生募集を停止すると発表したことも話題となった。
学生数も見てみよう。文部科学省の調査によれば、1990年度には2万2053人いた音楽関係学科の学生数は、2020年度には1万5592人まで減少したという。実に3割の減少である。大学の定員割れも相次いでいる。2012年以降、音楽学部の入学定員充足率はずっと9割程度で、大幅な定員割れとなっている(日本私立学校振興・共済事業団調べ)。一般大学を含めた入学定員充足率の平均は102・6%なので、音楽関係大学の不振と苦況は明らかである。
音大に行っても音楽家にはなれない?
これには、音大の学費が一般大学(文系学部)の2倍以上かかることに加え、演奏レッスンなどで追加費用が必要となることから、不景気の時代に学費を捻出するのが難しくなったという経済的な要因がまず挙げられる。とはいえ、全体の大学進学率は2000年度の39・7%から2024年度には59・1%まで上昇している。子どもの数は減っている一方で、大学進学希望者が増えているということは、音大に生徒が集まりづらくなっているのは確かなようである。
音大が避けられるようになっているのには別の理由もありそうだ。先行きが見通しづらい社会情勢の中で、高い学歴が必要だという意識の高まりや、キャリア支援を積極的に行うなど就職に関しての面倒見のよさが大学選びの中で重視される傾向もある(就職先の紹介だけでなく、インターン求人確保やキャリアサポート、エントリーシート作成補助、果ては親へのサポートまで行うところさえある)。そうした流れの中で、学生たちは希望の職に就けない(音楽家になれない)かもしれない、また音楽家になれたとしても不安定な職業であることから、音大を避けているという見方もできる。
確かに音楽だけで生計を立てられる演奏家は多くはない。日本のオーケストラは数こそ多いが、入るのは至難の業である。一団体に年に数人の奏者公募があればまだよいほうだ。オーケストラに所属できたとしても(第1章で見た通り)十分な給与体系とは言えない団体のほうが多いし、フリーランスならば経済的な自立はさらに難しい。「音大に行ってもなかなか演奏家になれない」というのが、今の日本の偽わらざる実情だ。
しかしながら、この「音大に行っても」という条件付けについて、今一度振り返ってみる必要があろう。そもそも大学とは、学術を中心として真理を探求し、専門の学芸を研究することを本質とするものだ。文部科学省が発表している中央教育審議会「我が国の高等教育の将来像(答申)」の中でも、次のような記載がある。
今後の知識基盤社会において、我が国が伝統的な文化を継承しつつ国際的な競争力を持って持続的に発展するためには、知的創造を担い社会全体の共通基盤を形成するという大学の公共的役割が極めて重要であり、大学はその設置形態のいかんを問わず、大学としての社会的責任を深く自覚することが必要である。
大学は個々の希望する職業に就くために存在するのではなく、社会全体の知的基盤を形成するためにこそ存在する。音大にしても同様ではないだろうか。明治の先人が西洋音楽の日本での発展を目指して音楽教育機関を整備したのは、「商業的に成功する演奏家を育てる」ためであったのだろうか。法律学科の学生がみな法曹界で仕事を得るために進学するわけではないように、教育学部の出身者がみな教員になるわけではないように、音楽大学への進学を音楽家に「なれる」「なれない」で考えるものではないということを改めて確認したい。
ちなみに欧州ではどうかというと、例えばクラシックの本場ドイツでは「総合大学」「専門大学」「芸術大学」と、大学の位置付けが明確に3つに分けられている。総合大学は研究と教育を通じて学問の発展に寄与することが目指され、専門大学は応用志向の教育を通して職業教育を行うことを主な目的にしている。これに対して芸術大学の目的は造形芸術、音楽、表現メディア芸術などの分野で芸術家を育成することとされ、そのための高等教育機関が24校存在する。学生数やその研究分野、専攻から見ると、総合大学は音楽学や音楽史などの学術系分野を担い、芸術大学は主に器楽や管弦楽などの演奏系分野をほぼ独占的に担っている、つまり、音楽研究者は総合大学へ、音楽教員を目指すものは専門大学へ、演奏家を目指す者は芸術大学へ進学することになる。芸術大学は専門性と実践力を身につける場所と言えばよいだろうか。
日本で音楽大学のイメージは、ドイツで言う「芸術大学」の要素が強いように感じる。昨今の日本では、音大に対して演奏家になるために必要な権利関係の講義やブランディング、個人事業主の税法セミナーの開講までもが要望されたりしているからだ。大学で音楽を学ぶことと就業が直結して、演奏や作曲などのプロになりたい学生が多いからこそこうした流れが生まれる。しかし社会の中で音楽、ひいては音楽教育のプレゼンスを高めていくためには、音楽大学はそもそも学究の場であると広く伝えていくことも必要なのではないだろうか。
「技術革新が進むほど、人間理解が求められる」
もう少し音楽教育の中での芸術とビジネスの折り合いについて考えてみたい。
芸術としてクラシック音楽が守られていることを踏まえ、それを受け継いでいくための音楽家を育成するという面で大学の役割が大きいことは言うまでもないが、それだけでなく、音楽を学ぶことと演奏家を育成することが直結しない大学での学びと研究も存在する。リベラル・アーツ教育である。
アメリカで1754年に創立したコロンビア大学では、1947年から「音楽人文学」と「美術人文学」が全学必修科目となった。音楽人文学とは、西洋音楽史を学びながら音楽家の思想や芸術観を学ぶカリキュラムである。講義で音楽に触れるだけでなく、コンサートホールで実際に演奏を鑑賞し、批評を行い、ディスカッションも行う。また、アメリカ最古の大学であるハーバード大学には、1885年に音楽学科が誕生している。ここでは音楽文化や歴史とともに作曲、音楽理論、分析、批評といった、音楽を学問として極めるカリキュラムのほか、演奏家や音楽教育者を目指すための集中的なコースも設置されている(現在では音楽学科のカリキュラムも「一般教養科目」であり、どの学部でも受講可能だ)。
あるいは同じケンブリッジにあるマサチューセッツ工科大学では、全学部の必修科目の中に「人文・芸術・社会学」があり、音楽史や和声・対位法などの理論を学ぶクラスや演奏の実技クラスが充実しており、楽器の個人レッスンを受けることも可能だ。ハーバード大学の音楽科目との連携プログラムも多い。「タイムズ」紙が実施する世界大学ランキングでは、2019年度に「芸術・人文学」分野の第2位となるなど、工学系の大学でありながら、リベラル・アーツ教育の比重が高いのである。
約1万人の学部生と大学院生、そしておよそ2000人の教授や教員を擁し、卒業生らには90名以上のノーベル賞受賞者がいる同校の理念は「学術知と発見の喜びをもって世界の諸問題に取り組むこと」であり、それが多くのイノベーションを生み出している。その原動力のひとつとして、人文学やアートの経験が役に立つことが自覚されているのだ。同大の音楽学科長で作曲家のキーリル・マカンは「技術革新が進むほど、人間理解が求められる」と言う。
こうしたリベラル・アーツの考え方はアメリカに限ったことではない。シンガポールでも2000年以降、経済発展に必要とされる創造力を文化・芸術教育に求める「ルネッサンス・シティ・プラン」が展開されている。また2008年には芸術を通じて英語、数学、国語、理科、社会などの科目を学ぶ方法を採用した「スクール・オブ・ジ・アーツ・シンガポール」が設立された。現在は2025年までの長期計画「アート・アンド・カルチャー・ストラテジック・レビュー(ACSR)」の期間にあたり、文化芸術の政策が経済成長の中核を担うと謳われている。
具体的な目標も見てみよう。シンガポールでは2025年までに、国民のうち毎年少なくともひとつの芸術イヴェントに参加する人を80%にまで増やし、さらに芸術文化イヴェントに〝積極的に〟参加する人をそれまでの20%から50%まで引き上げることが目標に掲げられている。資源を持たない国として国力を高めるには創造力の強化が必須で、そのために文化教育に力を入れることを、国を挙げて示している格好だ。
これは同じく国策として文化芸術やエンターテインメント産業に力を入れている韓国とはまた違った様相である。先にも見たように、韓国は経済効果を高めるための文化振興という意味合いが強い。韓国の芸術大学や音楽分野の学校のカリキュラムは商業ベースに乗れるアーティストの育成に直結しており、リベラル・アーツとは内容を異にする部分が多い。
翻って日本はどうだろう。こうした考え方と対照的に、この50年を見ると、義務教育では年々音楽の授業時間が減らされている。1971年には合計452時間あった小学校6年間での音楽授業時間数は、1992年には418時間、2002年には358時間となり、約30年で100時間近く減少した。その後、ゆとり教育から方針転換し、2011年、2020年の学習指導要領の改訂で全体の授業時間数は増えたが、音楽の授業時間はどの学年も現状維持のままである。つまり相対的に音楽が軽んじられていると言える。中学校の音楽授業も傾向は同じだ。特に中学2年、3年生の時間数は年間35時間で、これは週に1時間も音楽の授業がない計算である。
義務教育と高等教育を同一に論じるのはフェアではないとはいえ、この日本の義務教育の「音楽軽視」は、質の高いイノベーションのために音楽など人文分野への理解が不可欠だとするマサチューセッツ工科大学や、リベラル・アーツを国力を高めるために推進するシンガポールの方針とは正反対である。
日本の初等・中等教育は、子どもの豊かな心や健やかな体を育成し、未来の社会を切り拓くための資質・能力を養うこと、そしてその能力を社会と共有していくことが目的とされている。それがその先にある社会、国、地球全体の利になると考えられているからだ。この理念そのものは、リベラル・アーツで目指すところと何ら変わりはない。他教科とのバランスや受験との兼ね合いで音楽教科の扱いが難しいことは致し方ない部分もあろう。しかしそうであればなお、不足している音楽という「人文知」を学校以外で子どもたちへ与え続けることこそが、今のクラシック音楽界に求められていることではないだろうか。
渋谷ゆう子
音楽プロデューサー、文筆家。大妻女子大学文学部卒。株式会社ノモス代表取締役。香川県民ホール文化事業プロデューサー。著書に『ウィーン・フィルの哲学─至高の楽団はなぜ経営母体を持たないのか』(NHK出版新書)、『名曲の裏側─クラシック音楽家のヤバすぎる人生』(ポプラ新書)など。