龍馬の隠れ部屋 桝屋清右衛門宅 〜 坂本龍馬が宿泊した江戸時代の豪商の屋敷。龍馬の滞在した屋根裏部屋を見学できる
福山市を代表する観光地・鞆の浦。
実は、鞆の浦は日本史の重要人物・坂本龍馬とゆかりがあることを知っていますか?
そして坂本龍馬の足跡は、今も鞆の浦に残されているのです。
そのひとつが「龍馬の隠れ部屋 桝屋清右衛門宅(ますや せいえもん たく)」。
名前のとおり坂本龍馬に関わりがある史跡です。
さらに1階には、雑貨店「瀬戸内小物と暮らしの雑貨 MASUYA(マスヤ)」を併設しています。
鞆の浦の歴史で欠かすことのできない坂本龍馬ゆかりのスポット「龍馬の隠れ部屋 桝屋清右衛門宅」について、坂本龍馬との関わりや見どころなどの魅力を紹介しましょう。
龍馬の隠れ部屋 桝屋清右衛門宅とは
龍馬の隠れ部屋 桝屋清右衛門宅(以下 桝屋清右衛門宅)は、江戸時代に廻船問屋を営んでいた豪商・桝屋清右衛門の店舗兼自宅だった建物です。
福山市鞆支所の北側に位置し、昭和後期ごろまでは実際に住居として使用されていました。
「昔、坂本龍馬がこの家に泊まった」という伝承があり、平成元年(1989年)に地元有志が建物を調査。
すると、天井裏に隠れ部屋が発見されました。
部屋はホコリや傷みがひどかったのですが、当時のまま手つかずの状態で残されていたのです。
その後、平成22年(2010年)に整備され、平成23年(2011年)4月に一般公開されました。
桝屋清右衛門宅の料金は、以下のとおりです。
鞆の浦と坂本龍馬の関係〜いろは丸事件
そもそも「福山の鞆の浦と坂本龍馬にどんな関係があったのか?」と思うかもしれません。
そこで鞆の浦と坂本龍馬について紹介します。
鞆の浦と坂本龍馬のつながりを語るうえで重要なのが「いろは丸事件」です。
江戸幕府最後の年となる慶応3年(1867年)の4月23日、「いろは丸」という船と「明光丸(めいこうまる)」という船が、現在の笠岡市笠岡諸島の六島(むしま)付近で衝突しました。
いろは丸は大洲藩(おおずはん:現在の愛媛県大洲市に拠点を置いた藩)が所有し、坂本龍馬らの海援隊(かいえんたい)が乗り込んだ蒸気船です。
いっぽう、明光丸は紀州藩(現在の和歌山市に拠点を置いた藩)が所有していた大型の蒸気船でした。
いろは丸は大坂(現 大阪市)を目指して東へ、明光丸は長崎を目指して西へ進んでいた最中の事故だったのです。
いろは丸は大きく壊れ、一番近い港だった鞆の浦(鞆津)まで明光丸が引いていましたが、途中で沈没してしまいます。
その後双方の乗船者は鞆の浦に上陸し、海援隊は桝屋清右衛門宅に泊まり、紀州藩側は圓福寺(えんぷくじ)に泊まりました。
そして両方の中間に近い場所にある商家「魚屋萬藏宅(うおや まんぞう たく:現 御舟宿 いろは)」と「福禅寺 対潮楼(ふくぜんじ たいちょうろう)」で賠償の交渉(談判)をおこないます。
4日間にわたって交渉はおこなわれましたが決着せず、紀州藩は長崎へ向かって出航したのです。
龍馬たち海援隊は、鞆の浦に停泊していた長州藩(現在の山口県に拠点を置いた藩)の船に乗り、あとを追っていきました。
長崎でも交渉が重ねられて決着し、紀州藩から海援隊側に賠償金が支払われたのです。
この「いろは丸事件」は日本最初の蒸気船同士の海難事故で、同時に日本最初の万国公法による海難審判事件となりました。
沈没したいろは丸は平成18年(2006年)に海底調査がおこなわれ、調査結果などは鞆の浦にある「いろは丸展示館」に展示されています。
桝屋清右衛門宅に龍馬が名前を隠して宿泊
さきほど紹介したとおり坂本龍馬ら海援隊は、いろは丸事件の直後、約4日間にわたり鞆の浦に滞在していました。
しかし坂本龍馬は「才谷 梅太郎(さいたに うめたろう)」という変名を使い、しかも屋根裏部屋に泊まっていたのです。
いろは丸談判の交渉記録である「備後鞆津応接筆記(びんご ともつ おうせつ ひっき)」という文書が残っています。
そこには、坂本龍馬が「才谷梅太郎」を名乗って交渉したことや、桝屋清右衛門宅に泊まったことが記されているのです。
龍馬は、いろは丸事件の約7ヶ月後に殺害されます。
このころからすでに龍馬は、自分の命をねらわれていると知っていたのです。
桝屋清右衛門宅の内部
龍馬が泊まったという桝屋清右衛門宅を紹介していきましょう。
鞆の浦でも有数の豪商だったため、立派な建物です。
▼建物の中は昔の雰囲気が残されており、とても趣があります。
▼また龍馬や海援隊、いろは丸に関する資料も展示されていました。
昔の家具や道具も展示されています。
そして、家具などが展示された部屋の天井裏に隠し部屋があるのです。
▼現在は、見学用に天井裏への階段が設置されています。
▼隠し部屋への通路はとても狭いです。
▼隠し部屋への入口。
▼ここが坂本龍馬が隠れて泊まった部屋です。
▼広さは約6畳だそう。
▼なんと、壁は当時のままだそうです。
▼よく見ると年季が入っています。
▼今は窓から日光が入ってきていますが、昔はすぐ外に蔵があっため、部屋の中はもっと暗かったと思われます。
▼部屋には、龍馬が世話になっていた京都の寺田屋の女将・お登勢(とせ)にあてた手紙の複製が置いてありました。
この手紙は、鞆の浦に滞在時に書かれたものといわれています。
坂本龍馬は鞆の浦で、わざわざこんなに狭くて暗く、上り下りも大変な部屋に泊まりました。
数ヶ月後に龍馬が暗殺されたことを考えると、いつ命をねらわれてもおかしくない、本当に緊迫した状況だったのだろうと思います。
そんななかでも、大藩相手に一歩も引き下がらない坂本龍馬の芯の強さと駆け引きの上手さも流石だと思いました。
▼なお桝屋清右衛門宅の1階の土間スペースには、雑貨店「瀬戸内小物と暮らしの雑貨 MASUYA(マスヤ)」があります。
鞆の浦や福山市をモチーフとしたご当地雑貨をはじめ、県内外からセレクトした商品など、たくさんの個性的な商品を取りそろえています。
桝屋清右衛門宅を訪れたときには、ぜひ立ち寄ってみてください。
鞆の浦土産にどうぞ。
鞆の浦に残る坂本龍馬の足跡
坂本龍馬といえば、日本史の教科書に必ず出てくる有名な歴史的人物。
そんな龍馬が鞆の浦に数日とはいえ滞在したと思うと、ワクワクしませんか。
鞆の浦に訪れた際には、幕末の雰囲気を今に残す桝屋清右衛門宅の屋根裏部屋で、坂本龍馬が生きた時代を感じてみてはいかがでしょうか。