【京都市文化財保護技師が語る】竣工100周年・旧三井家下鴨別邸の意匠の秘密
貴重な近代建築が数多く残る京都のなかでも、日本三大財閥の一つである三井家が下鴨の地に建てた別邸は、江戸期の茶室と明治期の主屋、大正期の玄関棟という三つの異なる時代の意匠を備えた貴重な建築遺産です。2011年に国の重要文化財に指定され、改修に3年半を費やしたのち2016年から一般公開されています。大正14年(1925年)の竣工から100年を迎える2025年、講演や古写真パネル展などの記念事業が行われるのを機に、改めてその魅力をご紹介します。今回は、近代建築の専門家である石川祐一博士に見どころを解説いただきました。
庭から眺めた旧三井家下鴨別邸、百日紅が美しい
撮影:田口葉子
豪商・三井家と、時代を乗り越えていまに残った近代和風建築
世界遺産・下鴨神社を取り囲むように深い緑を見せる糺の森。市街地に残る希少な原生林として知られるこの森のいちばん南の端に、旧三井家下鴨別邸はあります。下鴨神社の参道沿いに高い塀が連なり、その奥から顔をのぞかせる瓦屋根の望楼がひときわ目を引きます。
特徴的な姿の望楼
撮影:田口葉子
「旧財閥が建てた洋館は全国にいくつか残っていますが、明治の和風建築となると非常に少なく、たいへん貴重な建物といえます」。そう解説してくれたのは、京都市文化市民局で主任文化財保護技師を務め、近代建築に関する著書を多数手がける石川祐一博士。重要文化財に指定される以前の調査・検証段階からこの建物に関わり、修復事業や資料の作成、講演などにも携わってきた専門家のお一人です。
旧三井家下鴨別邸について解説してくださる石川祐一博士
撮影:田口葉子
三井家には、本家とそれに連なる家があわせて11家あり、ここは共有の別邸として総領家である三井北家の10代・高棟(たかみね)によって大正14年(1925)に造営されました。かつては隣接して三井家の祖霊を祀る「顕名霊社(あきなれいしゃ)」があり、参拝のための休憩所として利用されていたといいます。
顕名霊社拝殿
出典:三井文庫所蔵資料
主屋は8代目が隠居所として明治13年(1880年)、木屋町三条上ルに建てたものを移築しており、離れの茶室は三井家が土地を購入する以前からこの地にあったもので江戸末期の建築。また、大正14年の造営時に玄関棟が増築されています。戦後の財閥解体を経て国に譲渡され、顕名霊社があった場所には現在、京都家庭裁判所が建っています。別邸は裁判所長の宿舎として使用されたことで残りましたが、2000年代に入り老朽化が進むなかで競売にかけられそうになったこともあり、取り壊しの危機を逃れて現在に至ります。
その価値が認められ重要文化財に指定。3年半の修復を経て公開へ
茶室は建物全体がぼろぼろだったと語る石川博士
撮影:田口葉子
残すか、取り壊すか――。その前段階の調査に入った石川博士によれば、「建築関係者の間では知られていた建物でしたが、ほとんどの人が敷地内へ入ったこともなく、本格的な調査は初めてでした」とのこと。
裁判所の所長宿舎だった際には新しい浴室が増築されましたが、幸いなことに主屋の大部分は建築当時の姿が大きく変えられることなく残っていました。ただ、あまり使われてこなかった茶室は床や天井が抜けている状態。庭には下鴨神社を通る泉川から水を引いた池がありましたが、土管が壊れ池も枯れていたそうです。
調査を受けてその価値が認められ、国の重要文化財に指定されたのち、大正14年当時の状態に戻すための修復工事が3年半がかりで行われました。
大正14年の地図
出典:三井文庫所蔵資料
修復の参考にされたのは大正から昭和にかけて記録された写真や図面。とくに主屋については移築前の木屋町三条上るに建っていたころの写真が残っており、鴨川の眺めを楽しむために望楼を設け、1階座敷も川に面して大きく開けているのがわかります。「明治の建築は質実剛健なところがあり、さらには隠居所という性格上、一見すると派手さや豪華さはありません。ただ、望楼を設けたのは眺望のためだけでなく、ステータスの象徴でもあったでしょう」。
木屋町三条上るにあった頃の主屋
出典:三井文庫所蔵資料
下鴨の地では、糺の森の一角につくられた広い庭に向けて建物の角度を約90度を変えて移築され、邸宅から庭を楽しむ一方、庭からも望楼を頂く建物の全景を眺める趣向になっています。
旧三井家下鴨別邸の全景
撮影:田口葉子
明治の面影を伝える主屋と、初期の和洋折衷を感じさせる玄関棟
現在、主屋の1階部分を中心に、玄関棟や庭が一般公開され、2階と望楼、茶室などは催しなどに応じて期間限定で公開されています。
祖霊参拝の休憩所ということもあり、華美さを排したしつらえになっていますが、1階座敷の床の間には檳榔樹(びんろうじゅ)という木材が床柱として使われています。これは東南アジア原産の椰子の一種で、当時は輸入しなければ手に入らないため大変高価だったと推測されます。
檳榔樹の床柱
撮影:田口葉子
座敷の窓には当時のままのガラスがはめられています。この頃の技術では、ここまで大きな一枚ガラスを幾枚も使うというのは財力があってのこと。建築当初は鴨川を、移築後は庭を見るために備えられた窓はたいへん贅沢な趣向といえます。
季節ごとの庭の景色が楽しめる、大きなガラス窓
撮影:田口葉子
玄関棟では、格天井や壁面にある二段の長押(なげし)などに書院造りの特徴を見ることができます。顕名霊社に参拝する際に三井財閥の重役、支店長クラスの人々が待機する部屋として使用されました。床に絨毯を敷き、椅子とテーブルを置いて洋間として使われていました。これは、和洋折衷建築によく見られた用法です。絨毯は残っていた切れ端をもとにその色が再現されました。
唯一の洋間である玄関棟
撮影:田口葉子
主屋の3階に当たる望楼は、四方がガラス窓のこれも贅沢な造り。よく見ると雨戸を仕舞う戸袋が見当たりません。雨風が強い日には貴重なガラスが破損してしまわないか?と、不安になり聞いてみると、なんと雨戸は窓の下から引き上げる造りになっているのだとか。360度のパノラマを楽しむための工夫は圧巻です。
望楼からはなんと、大文字山や比叡山が見渡せます
撮影:田口葉子
主屋には3つの階段があり、木屋町時代から残る座敷横の町家風の階段と、使用人用の急な裏階段、そして手すりまわりの洋風な東側の階段は大正期に増築されています。当時最新の建材だった合板(ベニヤ板)なども取り入れられ、そのそばに造られた2階のトイレは和式の便器を一段高く設置して、腰掛けて使える洋式風にしています。
また、玄関棟とあわせて大正期につくられた浴室は、この建物が宿泊を旨としていなかったこともあり、水回りの設備ながら傷むことなく残されました。瀟洒な天井やヒノキの浴槽など、当時のままの姿を見ることができる貴重な史料でもあります。
洋式風の水洗トイレ
撮影:田口葉子
復元された茶室と、糺の森の水と水に連なる庭園
静かにたたずむ茶室
撮影:田口葉子
老朽化が進んでいたことから、壁と屋根を落とした大規模な改修となったのが茶室です。「当初は明治のころに建てられたものだろうと考えていましたが、工事のなかで天井裏から慶應四年(1868年)の祈祷札が見つかり、少なくとも建築は幕末期に遡ることがわかりました」。
庭園に面した南側の茶室は、丸窓や中国風の梅型の窓が設けられています。茶の湯(侘茶・わびちゃ)の茶席が静寂でとじられた空間であるのに対し、開放的で庭のせせらぎが響くこの茶席は煎茶の趣向で造られたものと考えられています。
侘びた茶室は陰翳礼讃(いんえいらいさん)の世界
撮影:田口葉子
また北側は一畳台目と呼ばれる最小の広さの茶室で、身をかがめて入る躙口(にじりぐち)と、通常の高さの貴人口(きにんぐち)の両方を備えています。北側には侘茶ならではの露地もつくられており、広い回遊式の庭と茶庭が一つに調和しているのもここの大きな特徴です。修復では池に水を引く管も再建され、静かな水面に映る邸宅の姿もまた見どころです。
庭に立って別邸を眺めてみるとまた違う発見があります
撮影:田口葉子
「書や茶道、華道などで用いられる言葉に『真行草』がありますが、この別邸を庭から眺めていると、書院造りの玄関棟が真、落ちついた空間である主屋は行、そして茶室は草と、3つがそれぞれ引き立てあっていることがわかります。ここを造営した三井高棟は普請道楽として知られる人物でもあるので、そういった意図があったのかもしれないと想像しながら眺めるのも楽しいものです」。石川博士の言葉に、建物を鑑賞する楽しさがさらに広がります。
お茶や季節の甘味が楽しめます
一般公開では玄関棟や座敷でお茶が楽しめるほか、食事付きプランなどもあり、期間限定での特別公開や夜間開館、特別講演など、見るだけでなく体験できる企画も多彩です。
竣工から100年を記念した記念事業では「古写真パネル展」や「記念講演」などの催しが順次開催されます。この機会に訪れて、旧三井家下鴨別邸の歴史と建築美にふれてみてはいかがでしょうか。
■100周年記念事業 イベント詳細
<古写真パネル展>
開催期間:11/3(月・祝)~11/11(火)
テーマ:旧三井家下鴨別邸 三井家時代の面影をたどる 木屋町から下鴨へ
会場:主屋2階 各室
内容:主に古写真を用いて三井家時代の下鴨別邸の様子や使われ方を紹介します。
料金:一般800円 中高生500円 小学生400円 (通常公開部分を含む)
その他:「2025年京都モダン建築祭」の連携企画(パスポート特典施設)として参画
<記念講演>
開催日時:11/2(日)午前の部10:00~11:30、午後の部13:30~15:00
※要予約・入れ替え制 ※座席はご予約順に前からご用意いたします
講師: 公益財団法人三井文庫 主任研究員 下向井紀彦氏
テーマ: 京都における三井の歴史
参加料金:3,000円(100周年記念特別京菓子のお抹茶セット付き)※入館料別途
<特別喫茶メニュー>
提供期間:10/18(土)~11/11(火)
商品:菓銘「藍のはじまり」
「有職菓子御調進所 老松」により、三井家商売の原点となった「松阪もめん」をイメージして特別に誂えた創作菓子をお抹茶とともに喫茶提供します。
<文化財特別講座>
開催日時:2/28(土)13:30~
※事前予約制
講師:京都市文化財保護課 文化財保護技師 石川祐一氏
テーマ:旧三井家下鴨別邸と三井高棟の建築
参加料金:3,000円 ※入館料別途要
上記の他にも、2026年3月まで、各種事業を予定されています。
各事業の詳細については、公式ウェブページをご確認ください。
■リンク
◇竣工100周年記念事業
https://ja.kyoto.travel/event/single.php?event_id=12618
◇旧三井家下鴨別邸 公式HP
https://ja.kyoto.travel/tourism/article/mitsuike/
記事を書いた人:上田 ふみこ
ライター・プランナー。京都を中心に、取材・執筆、企画・編集、PRなどを手掛け、まちをかけずりまわって30年。まちかどの語り部の方々からうかがう生きた歴史を、なんとか残せないかと日々奮闘中。