古代ゲノム分析で迫る日本人の起源「渡来人が縄文人と混ざり合って弥生人となっていく」という定説を覆す驚きの結果とは?【新・古代史】
日本人はどこから来たのか、弥生人とは何者だったのか? そうした日本の始まりの謎を科学的に解き明かそうという最新研究が国立科学博物館で進んでいます。古代人のゲノムを抽出して解析したその結果は、調査チームも驚く予想外のものでした。
大反響の『新・古代史 グローバルヒストリーで迫る邪馬台国、ヤマト王権』より、古代ゲノム解析によって日本人の起源を解き明かす最新研究についての章を抜粋して公開します。
古代ゲノム研究が解き明かす日本人の起源
日本人はどこから来たのか、弥生人とは何者だったのか。そうした日本の始まりの謎を科学的に解き明かそうという最新研究が国立科学博物館で進んでいる。注目するのは、鳥取市青谷町にある青谷上寺地遺跡。他に類を見ないほど保存状態の良い人骨群に残された古代人のゲノムを抽出し、解析しようという試みだ。
古代ゲノムの研究と言えば、2022年(令和4)のノーベル生理学・医学賞を受賞したスバンテ・ペーボ博士が確立した、絶滅した人類の遺伝情報を解析する技術が記憶に新しい。DNAは親から子どもに伝わる遺伝物質の本体なので、その解読が進めば系統や血縁をこれまでにない精度で明らかにすることができるのだ。DNAは四種類の塩基(A、T、G、C)が連なったもので、その配列によって決まる遺伝情報の全体をゲノムという。
簡単にゲノム研究の歩みと基礎知識を確認しておこう。私たちの身体を構成する数十兆個の細胞には、DNAを含む細胞小器官が二つある。それが、ミトコンドリアと核である。 ミトコンドリアとはエネルギーを生み出す細胞小器官のことで、母から子どもに遺伝するという特徴がある。一つの細胞に多数存在していることから、DNAのコピー数も多く、分析が容易とされるも、そこには必要最低限の遺伝情報しか存在していないことから、ミトコンドリアゲノムの長さは短く、せいぜい1万6500塩基ほどと言われる。
かたや、核ゲノムは生物の設計図である遺伝子を数万個含んでおり、ゲノムの長さは32億塩基と膨大である。しかし、両親から一本ずつしか受け継がないため、細胞あたりの本数は二本に限られてしまい、分析が難しいとされてきた。
分析の手法については、2000年代までは、ゲノムのうち特定の領域を増幅することでDNAの配列解読を行ってきた。しかしこの方法では、遺跡から出土した人骨のようにDNAの大部分が分解されているような場合、分析可能なものはコピー数の多いミトコンドリアDNAに限られていた。核DNAの分析はほとんどの人骨では不可能であったのだ。
こうした状況を一変させたのが、2000年代の後半に登場した次世代シークエンサと呼ばれる機器である。人骨から抽出したDNAの配列を網羅的に解読することができ、特定の領域だけでなくミトコンドリアゲノム全体、核ゲノム全体を対象とした研究ができるようになった。
国立科学博物館は、この最新技術をもとに2018年(平成30)から青谷上寺地遺跡の出土人骨の分析を行っている。従来はわからなかった青谷上寺地遺跡の人々の遺伝的な性格や、死後の状況などを明らかにし、ひいては日本人の起源に迫ろうというのだ。
古代ゲノム研究からわかったこと
青谷上寺地遺跡におけるゲノム研究の流れは次の通り。分析に用いた出土人骨のサンプルは33点で、次世代シークエンサを用いてミトコンドリアDNAと核DNAの全配列を読み取る。これを分析すると、頭骨と下顎骨でDNAが一致し、同一個体であると判明したものが一組あった。したがって、分析できた33点のサンプルは、32個体分の人骨から構成されていることがわかった。
青谷上寺地遺跡の出土人骨は100体ほどの人骨群であるとされているため、この調査で、全体の三分の一程度の個体を分析したことになる。分析結果は、研究者たちの思いもしないものだった。異なる個体間でミトコンドリアDNAの配列が完全に一致したものは、ごくわずかにとどまり、32個体のうち、母系の血縁がある可能性のある個体は三組のみ。つまり、ほとんどの個体の間には、母系の血縁が認められなかったのだ。
一般的に、人の往来や流入が少ない状態が長く続いた村落では、同族の婚姻が増えることで、やがて構成するミトコンドリアDNAのタイプは少なくなる。現代のような移動手段がない古代においては、集落間の往来は少ないと考えられるため、母系の血縁は多くなるだろうというのが研究者たちの見立てであった。
だが、その予想は見事に裏切られた。つまり、青谷上寺地遺跡は外部との人的交流が少ない集落ではなく、様々な地域から絶えず人が流入を繰り返す、都市的な拠点であった可能性が高いと考えられるのだ。
さらにゲノム研究からは、彼らの血縁関係のみならず、地球上のどこからやってきたかを辿ることもできる。核DNAの分析によれば、形態学的な研究からは捉えることの難しい混血の程度までを明らかにすることが可能だからだ。
原理としてはこうだ。核ゲノムには膨大な遺伝情報が含まれており、その中には数百万〜数千万箇所に及ぶ変異が起こっている。それらの現象はSNP(スニップ)と呼ばれ、遺伝情報を保つDNA配列を構成する一つの塩基が置き換わることを指す。この変異を比較することが、重要なポイントとなる。
例えば、もともと縄文時代から日本列島に定住していた者を祖先に持つのならば、縄文系のDNAを色濃く受け継いでいるだろう。その逆に、中国など大陸から渡ってきた者を祖先に持つのならば、渡来人系のDNAを色濃く受け継いでいるはずである。
遺伝情報であるDNAの配列パターンは血縁関係や人種が近いほど似たものになる。これまでの研究により、縄文時代の日本列島に多く認められる配列(縄文人系)と、中国大陸の各地で見られる配列(渡来人系)とで、パターンが異なることがわかってきた。
従来、弥生人のルーツとして定説のように言われていたのは、「稲作とともに大陸からやって来た渡来人が、日本列島にいた縄文人と混ざり合って弥生人となっていく」というストーリーであった。国立科学博物館の調査チームも、当初は32個体のうち二割ほどは縄文人系が含まれているのではないかと予想していた。しかし、その見立ては大きく覆されることになる。
定説を覆す、出土人骨の正体
果たしてどんな結果が出たのか。次の図は分析結果をまとめたものだ。
この図について、端的に言うならば、東アジアの人々の遺伝上の近さを表したグラフになる。現代の日本人を含む東アジアの集団と、縄文人、青谷上寺地遺跡から出土した人骨、弥生人などのSNPデータを用いている。中央は中国人、左上が縄文人。青谷上寺地は、双方の間にあり、海を越え、混血が進んだことを示している。
驚くべきことに、分析を行った32個体のうち31個体が渡来人系で、縄文人系は全体の3パーセントにあたる一個体しかなかった。つまり、青谷上寺地遺跡の弥生人骨は、縄文人と渡来人が徐々に混じり合って弥生人が誕生したという、これまで盛んに唱えられてきた定説とは異なる結果を示したのだ。
国立科学博物館・人類研究部研究主幹の神澤秀明さんは、こうした予想外の結果を喜ばしく感じている。
「驚きましたね、青谷上寺地では渡来系の遺伝要素がかなり濃く受け継がれています。予想を裏切る面白い結果です」
卑弥呼の時代、すでに日本は世界と想像以上に深くつながっていたのである。そして、人骨の殺傷痕は、互いにほとんど血縁関係を持たない渡来人系の人々が、まとめて殺傷されたことを示している。いったいどんな状況だったのだろうか。
青谷上寺地遺跡の発掘調査を担当する鳥取県文化財局の濵田さんは、調査結果と「魏志倭人伝」の記述をもとに、奴隷の人々が集団で葬られたのではないかという仮説を立てている。
「出生地の異なる人たちで構成される奴隷層が定期的に青谷上寺地に供給され、死後は集団埋葬の対象になっていたとすれば、遺伝的に多様で血縁関係が希薄な集団の成り立ちをより理解しやすい」
「魏志倭人伝」によると、倭の社会は支配者層である「大人」、一般層の「下戸」、奴隷層の「生口」「奴婢」で構成されていた。かたや青谷上寺地遺跡の発掘調査では、鋳造鉄斧などの「輸入品」、管玉や花弁高坏といった「輸出品」が出土している。こうした状況からも、青谷上寺地は日本海を通じた交易拠点で、交易品とともに、奴隷の人々も運ばれていた可能性が高いと考えられる。
さらに、時代による墓の変遷にも注目したい。鳥取県内の遺跡では、弥生時代中期までは、土壙墓群や木棺墓群といった死者を単体埋葬した墓域が確認されており、そこに有力者たちも埋葬されていた。ところが、身分の差がよりはっきりしてくる卑弥呼の時代・弥生時代後期になると事情が異なってくる。支配者層の墳丘墓など巨大な墓が相次いで見つかる一方、被支配者層の埋葬地は確認しづらくなるのだ。
棺に入れられることもなく、うち捨てられた大量の奴隷の亡骸……。それが青谷上寺地遺跡の出土人骨の正体なのではないかと、濵田さんは推測する。もしそうであるならば、各地から連れてこられた奴隷たちは、栄養状態が悪く結核などの病に苦しんだり、争いに巻き込まれたりして亡くなったことになる。決して平穏とは言えない当時の社会状況を、人骨はありありと伝えているのだ。
NHKスペシャル取材班
私たちの国のルーツを掘り下げ、古代史の空白に迫るNHKスペシャル「古代史ミステリー」の制作チーム。他にもこれまで「戦国時代×大航海時代」「幕末×欧米列強」といったテーマを掲げ、グローバルヒストリーの観点から新たな歴史像を描いてきた。