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ザ・フォーク・クルセダーズ「イムジン河」戦争によってもたらされる悲しみを歌った曲

Re:minder

1967年10月15日 ザ・フォーク・クルセダーズのアルバム「ハレンチ」発売日(イムジン河 収録)

ラジオで流されて大きな反響を得ていた「イムジン河」


フォークソングには戦争によってもたらされる悲しみを歌った曲が少なくない。その中でも「イムジン河」は、僕にとってとくに印象に残っている歌のひとつだ。

「イムジン河」は、京都の学生フォークグループ、ザ・フォーク・クルセダーズによって歌われ、知られるようになった曲だ。もともとはメンバーの友人だった松山猛が、サッカー仲間だった在日朝鮮人に教えてもらった曲だった。世界の民謡をテーマにしていたザ・フォーク・クルセダーズは、この曲に松山猛の日本語詞をつけて「イムジン河」としてレパートリーに加え、ステージで歌っていた。彼らが大学卒業で解散する記念として1967年に自主制作したアルバム『ハレンチ』にも収められている。

『ハレンチ』のために加藤和彦ときたやまおさむがつくった新曲「帰って来たヨッパライ」が深夜放送でオンエアされて大評判になり、レコード会社の争奪戦の結果、1967年12月に東芝音工(当時)から発売されミリオンセラーの大ヒットとなったエピソードは有名だけれど、この「イムジン河」もラジオで流されて大きな反響を得ていた。

「帰って来たヨッパライ」の大ヒットによって、日本のフォークシーンの勢いは一気に加速していき、ザ・フォーク・クルセダーズも1
年間だけの限定でプロ活動をすることになった。ただし、この時に参加したオリジナルメンバーは加藤和彦ときたやまおさむの2人だけで、新たに同じ京都のグループ、ドゥーディ・ランブラーズのリーダーだったはしだのりひこを加えて活動することになった。

ザ・フォーク・クルセダーズは「帰って来たヨッパライ」に続くシングル曲として「イムジン河」を1968年2月に発売することになっていた。その背景には、コミカルな「帰って来たヨッパライ」の後にメロディアスで “真面目” なテーマを持った「イムジン河」を出すことで、ザ・フォーク・クルセダーズへの評価も上がるだろうという大人の計算もあったはずだ。

急遽発売中止となった「イムジン河」


しかし、「イムジン河」発売直前に問題が起きた。そもそもこの曲は、1910年(明治43年)年に日本に併合されていた朝鮮が1945年(昭和20年)の日本の敗戦によって独立したものの、アメリカとソビエト連邦(現:ロシア)の対立によって大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)のふたつに分割される形になったことに対する悲しみを北に住む人の立場で歌ったものだ。

松山猛やザ・フォーク・クルセダーズのメンバーは「イムジン河」を作者不明の民謡だと思っていたが、朝鮮総連(在日朝鮮人総聯合会)から東芝音工に対して、この曲には作詞・作曲者がいることが伝えられ、レコード化するのであれば作詞・作曲者のクレジットを掲載し、原詞に忠実な日本語訳にして欲しいとの申し入れがあった。

大きなトラブルになることを恐れた東芝音工は「イムジン河」の発売を急遽中止して、そのかわりに加藤和彦に新たな曲を書かせ、詩人のサトウハチローに歌詞をつけてもらった「悲しくてやりきれない」をひと月遅れの3月に発売した。この時、加藤和彦は「イムジン河」のコードを逆にして曲をつくったというエピソードもあった。

明確な理由が示されないまま、「イムジン河」が発売中止になったことはザ・フォーク・クルセダーズにとってもきわめて不本意だった。朝鮮半島の南北問題はあるとしても「イムジン河」という素晴らしい曲が葬り去られることは納得がいかない。「イムジン河」という曲で歌われていることを、自分たちは他人事としてではなく、自分たちにもかかわりがあることとして受け止めるべきではないか。そのためにも、なんとかこの作品を世に出す方法が模索された。

ミューテーション・ファクトリーによって改めて紹介された「イムジン河」


さらに、1968年5月には岡林信康のデビュー曲になるハズだった「くそくらえ節」がタイトルを「ほんじゃまあおじゃまします」と変えられたあげく発売中止となるなど、社会的な視点をもったフォークソングが企業の論理によって発売を拒まれるケースが生まれていったことに対して、自分たちの歌をそのままの形でリリースできる体制をつくろうと、1969年初頭に会員制のアングラ・レコード・クラブ(URC)が誕生した。

URCはレコード店での販売はおこなわず、会費を払うと2か月ごとにLP1枚とシングル盤2枚が配布されるというシステムだった。そして、2月に第1回配布レコードとして配布されたのがLP『高田渡 / 五つの赤い風船』とベトナムのシンガーソングライター、トリン・コーン・ソンの反戦歌「坊や大きくならないで」、そしてミューテーション・ファクトリーの「イムジン河」のシングル盤だった。

ミューテーション・ファクトリーとは、ザ・フォーク・クルセダーズの「イムジン河」の日本語詞を書いた松山猛とプロ活動をしなかったザ・フォーク・クルセダーズのオリジナルメンバーである平沼義男、芦田雅喜によるユニット。A面に「イムジン河」、そしてB面には原詞に忠実な日本語詞による「リムジンガン」が納められている。このレコーディングのディレクターはきたやまおさむが務めている。

ミューテーション・ファクトリーによって改めて紹介された「イムジン河」は、その後、多くの人々に歌い継がれ、ザ・フォーク・クルセダーズの代表曲として、そして戦争がなにをもたらすのかを考えさせてくれる歌として、今も親しまれている。

他にもあるメッセージソング「戦争を知らない子供たち」


「イムジン河」の他にも、戦争について考えさせるメッセージソングは少なくないが、その中からこのタイミングで改めて注目して欲しいのが、直接的な反戦の言葉はないけれど、太平洋戦争の終戦後に生まれた世代としての正直な “平和” に対する思いが歌われている「戦争を知らない子供たち」だ。

この曲の作詞はきたやまおさむ、作曲はジローズの杉田ジロー。1970年に大阪で行われた万国博覧会のために作られ、8月に万博会場で “全日本アマチュア・フォーク・シンガーズ” によってはじめて歌われ、翌1971年にはジローズが歌った「戦争を知らない子供たち」がヒットして広く知られ、その後も歌い継がれる曲になった。1970年の大阪万博から55年後に行われている今年の大阪・関西万博からは、次の時代に歌い継がれる “平和の歌” は生まれるだろうか?

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