誇りをまとった裸身、ジョン・コリア《ゴダイヴァ夫人》が語る静かな反逆
最初にこの絵を目にしたとき、ほとんどの人は同じところで固まります。 「えっ、この人、なぜ裸で馬に乗っているの?」 白い馬の背にまたがる若い女性。彼女の肌は冷たい光を受けてほの白く浮かび上がり、長い髪が、もっとも繊細な部分だけをかろうじて覆っている。線は伏せられ、街は静まり返り、誰ひとりとして窓から顔を出さない。 実は、チョコレートブランド「ゴディバ」のロゴに描かれている、馬に乗った女性のシルエットも、このレディ・ゴダイヴァの伝説が元になっています。ベルギーで生まれた同ブランドは、その勇気ある物語にちなんで「GODIVA」と名付けられました。 つまり私たちは、バレンタインや手土産の箱を開けるたびに、知らないうちにこの物語の“残像”を目にしてきたわけです。
ジョン・コリア《ゴダイヴァ夫人》1898年、ハーバート美術館, Lady Godiva by John Collier.jpg
イギリスの画家ジョン・コリアが1897年ごろに描いた《ゴダイヴァ夫人(Lady Godiva)》。
前ラファエル派の流れをくむ端正なスタイルで描かれたこの大作は、“ただ美しい裸婦の絵”というより、“ひとりの女性の決断の瞬間”を描いた作品として語られてきました。
11世紀コヴェントリー──重税に泣く街
物語の舞台は、11世紀のイングランド、中部の街コヴェントリー。この土地を治めていた領主レオフリックは、重い税を課し、人々を苦しめていたと伝えられています。
その妻が、ゴダイヴァ(Godiva)。名前は古英語の「Godgifu(Godgyfu)=神からの贈り物」に由来すると言われ、伝承のなかでも、慈悲深く、民の苦しみに心を痛める女性として描かれます。
ある日、彼女は夫に訴えます。
「どうか、税を軽くしてください。人々は、もう限界です」
しかし、権力に酔った領主は取り合おうとしません。やがて、嘲りとも冗談ともつかない一言を口にします。
「お前が裸で街を馬で一周できたら、考えてやろう」
誰が聞いても実現しない条件。貴婦人が人前で裸になるなど、ありえない。夫はそれを見越して笑い飛ばしたのでしょう。
「裸で街を行く」──屈辱か、それとも賭けか
伝説によれば、その夜、ゴダイヴァは一人、自室で祈り、迷ったと言われています。
自分の誇りと、民の暮らし。どちらを守るのか。
やがて彼女は決断します。自分の身体を差し出すことで、人々を救う道を選ぶのです。
翌朝、コヴェントリーの街に不思議な噂が広がります。
「今日、ゴダイヴァ様が街を馬で通る。そのときは、窓を閉ざし、決して外を見てはならない」
人々はその意味を悟りました。彼女が自分のためではなく、“自分たちのために”、恥を引き受けようとしているのだ、と。そして、街じゅうの扉と窓は、固く閉ざされます。
沈黙の行進──「誰も見ない」というまなざし
ここからが、ジョン・コリア《ゴダイヴァ夫人》が切り取った「一瞬」です。絵のなかで、ゴダイヴァは白い馬にまたがって進んでいます。
当時の貴婦人の乗り方である横乗りではなく、男性のように脚を左右に分けて座る姿は、彼女の行為が“礼儀”ではなく“決断”であることを強く示しているようです。
同じ19世紀のジュール・ルフェーヴル《レディ・ゴディバ》では、彼女は白馬に横座りになり、両腕で胸を抱きかかえるようにしながら、首をのけぞらせて上空を仰いでいます。祈りとも恍惚ともつかない表情で、手綱は前を歩く女に預けられている。どこか「導かれる殉教者」のような姿です。
それに対して、コリアのゴダイヴァはひとりで手綱を握り、男性のように跨って自ら進んでいく。座り方と体勢の違いそのものが、「運ばれる存在」から「自ら選んで進む存在」へのイメージの差を物語っていると言えるでしょう。
ジュール・ルフェーヴル《レディ・ゴディバ》1890年、ピカルディー美術館, Musée de Picardie, Lady Godiva par Jules Lefebvre (1890) 3.jpg
馬の体は深い赤の布で覆われ、金糸の刺繍が、彼女の白い肌と強い対比をなしています。
左手には小さな結婚指輪。同じ手で、彼女は馬の手綱を握っています。貞淑な妻でありながら、自らの意志で一歩を踏み出した女性としての象徴。そんな読み取りもできる細部です。
背景には、石造りの家々と、彼女と夫が建立に関わったとされるベネディクト会修道院の門とされる建物がひっそりと描き込まれています。しかし窓は閉ざされ、人影は一切ありません。
伝説では、ただ一人、好奇心に負けて覗き見た男「ピーピング・トム」が登場しますが、コリアの絵にはトムは描かれていません。覗く者は、画面の中ではなく、絵の前に立つ私たち自身なのかもしれません。
コリアが描いたのは、「恥」ではなく「誇り」
ここで少し、絵そのものを見つめてみましょう。
まず目を引くのは、光の扱いです。柔らかな光がゴダイヴァの肌にだけ集まり、周囲の建物はくすんだ色調でまとめられています。赤い馬具と白い肌、その周りを包む灰色がかった街並み。色のコントラストによって、彼女の存在は“聖域”のように浮かび上がっています。
彼女の顔はうつむき、頬にはわずかな紅が差している。恥じらいもある。けれど、それは屈辱ではなく、「それでも私は行く」という決意と背中合わせの恥じらいです。
髪や馬の毛並み、布の質感まで執拗に描き込まれた画面は、前ラファエル派風の細密なスタイルを思わせます。
ここには、安易なセンセーショナルさはありません。コリアが描いているのは、「裸そのもの」ではなく「裸にならざるをえなかった理由」だと言ってよいでしょう。
ジョン・コリアという画家──道徳と欲望のはざまで
ジョン・コリア(1850–1934)は、法曹・政治の世界に身を置く名門家庭に生まれ、同時に画家・作家としても活動した人物です。
マリアン・ハクスリー《ジョン・コリアの肖像》1882年-1883年, Collier, Marian - Portrait of John Collier - circa 1882-1883.jpg
彼が生きたヴィクトリア朝後期のイギリスは、「道徳の国」と言われるほど性や裸体の表現に厳しい一方で、
神話や伝説を題材にした“高尚な裸”は、美術の世界で盛んに描かれていました。
コリアもまた、女魔術師サーキュなど、強い意志や危うさを秘めた女性像を繰り返し描いています。
ジョン・コリア《キルケ》1885年, CIRCE、John Collier 1885 - Ger Eenens Collection The NetherlandsFXD.jpg
《ゴダイヴァ夫人》は、その集大成のような一枚です。官能と道徳がぎりぎりのところで釣り合っている。見る側が「いやらしく見る」こともできるが、同時に「崇高さの物語」として受け止めることもできるという、危うい境界線。
コリアはその境界線上に、ゴダイヴァをそっと立たせています。彼女を見つめる観客のまなざしこそが、この絵の意味を決めるのだと言わんばかりに。
伝説か、真実か──それでも残る「物語の力」
実のところ、ゴダイヴァが本当に裸で街を駆け抜けたのかどうかは、歴史的にははっきりしていません。この逸話は、彼女の死後かなり経ってから記録された伝説で、史実としては疑わしいと考える研究者も多いのです。
それでも、この物語は長く生き延びてきました。
「権力に抗うために、自分の身体を張った女性」がいた――そのイメージが、人々の心をつかんで離さなかったからでしょう。
ジョン・コリアの《ゴダイヴァ夫人》は、その伝説をもっとも静かで、もっともドラマチックな形で視覚化した作品と言えます。
今、この絵の前に立つとき
もしあなたが、この絵の前に立つ機会があったらぜひ、二つの視点で見てみてください。
ひとつは、物語として。重税に苦しむ人々のために、ひとりの女性が誇りを賭けた物語として。
もうひとつは、“見る側の倫理”として。自分は、この裸身をどんな目で見ているだろうか。
欲望の目か、それとも、敬意の目か。誇りをまとった裸身は、今日も静かに問いかけています。
あなたは、自分の信念のために、何を脱ぎ捨てられますか。