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くだらねえとつぶやいて、エレファントカシマシの故郷・赤羽台地と荒川土手を歩く【街の歌が聴こえる・赤羽編】

さんたつ

赤羽1

新宿から湘南新宿ラインに乗って赤羽駅で降りる。と、ホーム上に聞き覚えのある曲が流れていた。エレファントカシマシ(以下エレカシ)の「今宵の月のように」だ。これはテンションが上がる。ちなみに向かい側5番線の発車メロディは20年ほど前に強壮剤のテレビCMでよく流れていた「俺たちの明日」だという。宮本、石森、富永(敬称略)といったエレカシのメンバー 3人は赤羽で生まれ育ち、中学生の頃から一緒にバンドをやってきた。この街は彼らの故郷であり、エレカシの発祥地というわけ。発車メロディにその代表曲を使うのは当然、というか他のミュージシャンの曲を使ったりするとカドが立つ。たぶん。

「土手」(1988年)「今宵の月のように」(1997年)

生まれ故郷なだけに、赤羽のことを歌ったエレカシの曲は多い。

Webで調べるとよく出てくるのは「土手」。赤羽駅から北へ1kmほど行った荒川の旧岩淵水門が、その歌の舞台だという。旧岩淵水門は大正時代に完成し、役割を終えた現在も近代化産業遺産の需要文化財として保存されている。陽に映える赤色の外観が美しく”赤水門”の別名で昔から地域の人々に親しまれている名所だ。

ちなみに、ここの土手は「今宵の月のように」のPVやアルバム『RAINBOW』の撮影でも使われた場所で、赤い水門も映り込んでいる。エレカシのファンたちが巡礼する聖地のひとつなのだ。

”赤水門”の別名で知られる旧岩淵水門は、1924年(大正13)に竣工した重要文化財。

「土手」を作詞・作曲したのはドラム担当の富永で、宮本以外のメンバーが作った楽曲はこれが唯一だという。そういった意味ではかなりレアな曲でもある。

『3年B組金八先生』のオープニングにでてくる足立区の荒川土手と比べて起伏が多く、また草が深い……ふかふかの柔らかい草の上に寝転がってみたくなる。心地よい陽射しと風、草の匂いにつつまれて、ついウトウトと寝入ってしまう。気持ち良さげ。この近所に住めば、そういったこともやってそうだ。

赤羽付近の荒川土手は草が深く、柔らかげで寝心地がよさそう。

彼らの故郷は街を見下ろす高台にあった

荒川土手から赤羽駅のほうに戻る。駅西口から5分ほど歩いいたところに、エレカシの“生まれ故郷”の赤羽台団地がある。

赤羽並木通りを赤羽台トンネルのところまで行くと、トンネルの脇に団地へと通じる長い石段がある。石段を上り切って振り返れば、赤羽の街を一望する眺めが広がっていた。そういえば『町を見下ろす丘』ってタイトルのアルバムもあったけど、きっとこれのことなのだろうな。

赤羽台団地の坂の上には、街並みが一望できる絶景が広がっていた。

三方を崖に囲まれた赤羽台は、戦国時代には城砦も築かれた難攻不落要害。維新後は陸軍が火薬庫や兵器工場となり、戦後もしばらくは米軍に接収されていた。

赤羽台が日本に返還されたのは1958年のこと。高度経済成長が始まり東京の人口が急増してきた頃、返還された広大な土地にはすぐに赤羽台団地の建設が開始される。1962年には団地の入居が開始された。新婚の夫婦が多く入居し、数年後には団地内でベビーブームが起きていたという。宮本たちは1966年の生まれだから、彼らの両親もそのパターンか?

赤羽台団地でもっとも古い1962年(昭和37)完成の4棟は登録有形文化財として保存されている。

赤羽台団地は55棟が建ち並び、最盛期には1万人以上が暮らす“街”だった。家族や単身者など様々な需要にあわせて、1Kから4DKまで豊富なバリエーションの部屋がある。宮本も大学卒業後は単身者向きの部屋に移って1人暮らしをしていた。「今宵の月のように」が大ヒットした1997年頃まで住んでいたという。

しかし、現在の赤羽台団地は、宮本はじめエレカシメンバーが住んでいた頃と様変わりしている。2000年代に入ると再整備事業が始まり、老朽化した住棟はUR都市機構の「ヌーヴェル赤羽台」に建て替えられた。

また、団地に隣接してあった北区立赤羽台中学校、このメンバーたちの母校も2006年に統合により移転し、跡地は東洋大学赤羽台キャンパスになっている。

「桜の花、舞い上がる道を」(2009年)

現在は3棟の住棟が登録有形文化財に指定されて保存されているが、その他の建物はすべて2000年以降のもの。エレカシのメンバーが住んでいた頃とは景観が激変して、まったく別の“街”になっている。が、変わらない場所もまだある。

団地のある高台からは、下界の赤羽の街に下りる坂道が何カ所もあるのだが。駅から遠い南東側の細く目立たない坂道……あまり整備されていない。色褪せた壁や錆びたガードレール、古い形状の滑り止めが刻まれたコンリート舗装の路面などは、おそらく、昭和の時代からのまま。この坂道からの眺めは、エレカシのメンバーたちが暮らしていた頃に近いものだと思う。

そしてまた、私にもこの眺めは見覚えがある。「桜の花、舞い上がる道を」のPVを撮影した坂道だ。コンクリートの壁と緩いカーブの形状、路面に刻まれたすべり止めの形状などがそっくり。おそらく間違いないだろう。それはファンの間でよく知られた事実で、ここも「聖地」のひとつになっている。

PVにはコンクリート製の車止めが映っていたが、現在は鉄製のものに交換されている。

かつてはホントに桜の花が舞い散っていた!?

PVでは桜吹雪が舞い散る坂道を宮本が傘をさして歩いていた。また、彼が立ち止まっていた場所には、コンクリート製の黄色い車止めが3個あったのを覚えている。けど、現在は2個が撤去されて真新しい鉄製の車止めに交換されていた。道路端の1個はいまも残っているのだが、こちらもPVに映っていた当時と比べると塗装が剥げ朽ち果て感じ。時の流れを感じてしまう。

また、10年くらい前はこの坂道にも八重桜の並木があり、PVで見たように桜の花びらが舞い散っていたという。昔の赤羽台には桜の木が多くあり、あちこちに花見が楽しめる桜の園があったのだが、団地と同じように桜の木も老いる。いまはほんどの木が寿命尽きて伐採されたのだとか。

桜舞い散る眺め、それはこの団地で生まれ育った者たちにとって、懐かしい故郷の春の風物だったのだろう。

赤羽駅からほど近い稲村城跡(静勝寺)も、境内がエレカシのPVに映っているという。

取材・撮影・文=青山 誠

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