昭和のモンスターアイドル【ピンク・レディー】伝説の幕開けは「ペッパー警部」から
ピンク・レディーが達成した大記録
思い込みというのは恐ろしい。
僕は長らく、ピンク・レディーは1979年から行われた “アメリカ進出” に失敗して、それが引き金となって失速したとばかり思っていた。多分、僕と同じような認識の人は少なくないだろう。
でも―― 当コラムを書くにあたり、改めて当時の彼女たちの軌跡をひも解くと、少しばかり違う側面が見える。まず、「S・O・S」以来のオリコンチャート9作連続1位の記録が、1979年3月発売の「ジパング」(最高4位)で途切れたものの―― 同シングルで2人はオリコン史上初となる「シングルレコード・総売上合計枚数1000万枚」を達成する。大記録だ。この偉業が過小評価されていないか。
そして、肝心のアメリカ進出――。同年5月に世界40ヵ国で同時リリースされた「Kiss In The Dark」が全米『ビルボードHOT100』の37位にランクイン。ちなみに、日本人の楽曲で全米TOP40(日本のベスト10のニュアンスが、あちらではTOP40である)に入ったのは、現在に至るまで坂本九の「Sukiyaki(上を向いて歩こう)」と同曲のみである。
更に、そのヒットを受けて翌80年3月、米3大ネットワークのNBCがプライムタイム(あちらではゴールデンタイムをこう呼びます)で始めた、ピンク・レディーがホストを務める『Pink Lady』なる1時間のレギュラー番組――。同番組は5週に渡り放送され、視聴率は13〜15%と堅調に推移。今もって、日本人がアメリカで冠番組を持ったのは、ピンク・レディーの2人と、こんまり(近藤麻理恵)くらいである。
ちなみに、同番組は当時、あちらの TVガイド誌が選ぶ「史上最低のTV番組50本」に選出されたそう。勘違いしちゃいけないのは、かの『8時だョ!全員集合』(TBS系)も全国のPTAが選ぶ “ワースト番組” の常連だったことを思えば、バラエティ番組の酷評は、むしろ勲章。本当に憂慮すべきは、誰も番組について話題にしなくなった時である。
アメリカ進出は成功した部類
そんな次第で、ピンク・レディーのアメリカ進出はむしろ成功の部類であり、それが直接的な失速の原因となったとは考えにくい。
ただ、1つ言えるのは、日本の芸能界で “売れる” とは、要は “売れ続けている” こと。常にテレビを始めとするメディアに露出している人が、日本では人気のバロメーターになる。だから、作品を選ぶ売れっ子俳優は、数多くのCMと契約し、出演作がない時もお茶の間への露出を欠かさないし、レギュラー番組を持たない中堅どころのお笑い芸人は、来た仕事を全て受けることで “露出” を維持する。かつてアイドルが3ヶ月おきに新曲をリリースしたのも、歌番組に出続けるためである。
―― となると、1979年にピンク・レディーが “失速したように見えた” のは、ひとえにアメリカ進出の期間、日本から姿を消したことが要因の1つとも考えられる。実際、あちらで活躍する2人の様子は、当時ほとんど日本のお茶の間に報じられなかった。
そんなわけで、少々前置きが長くなったが、改めて当時の “誤解” を解かせてもらったピンク・レディーが今回のテーマである。まずは、2人のデビューに至る軌跡に光を当てたいと思う。
ミイとケイの出会い、そして “クッキー” 誕生
その物語は、1972年の初夏に始まる。静岡県静岡市の中学で、ミイ(現:未唯mie)が所属する演劇部に、ケガでバスケット部を退部したケイ(現:増田惠子)が途中入部してくる。ともに中学3年だが、クラスは別で互いに面識はなかったが、秋の文化祭で披露した演目で姉妹役を演じ、急接近。共に、密かに芸能界への夢を抱いていることを知った2人は親友になり、同じ高校へ進学する。
73年、高校生になった2人はヤマハ主催のオーディション『チャレンジ・オン・ステージ』を受けて、共に授業料免除の特待生として合格。翌74年、高校2年の4月から2人で浜松市のヤマハボーカルスクールに片道1時間半かけて通い始める。運命の扉は、それから1ヶ月ばかり過ぎた5月、講師の何気ないひと言で開けられた。
「2人でデュオを組んでみないか?」
その時点まで、彼女たちはそれぞれソロ歌手を目指していた。だが、2人の異なる声質が織りなすハーモニーの魅力に目をつけた講師のアイデアから、アマチュアの女性デュオ「クッキー」が誕生する。言わずもがな、後のピンク・レディーである。
まぁ、この辺りの経緯は、かつて小学生時代にピンク・レディーの全盛期に遭遇した女性なら、みんな知っている話だろう。何せ2人のデビューに至る物語は、当時の少女漫画誌に漫画作品として必ず連載されていたのだから――。
「ポプコン」、「君こそスターだ!」 に挑戦
かくして2人は、プロの歌手になるべく、厳しいレッスンに明け暮れる一方、ヤマハ公認のアマチュアデュオとしても、地元のお祭りやイベントなどに積極的に参加する。当時の2人は、トム・ジョーンズやスプリームスに憧れ、当時流行りのホットパンツ姿で、アップテンポの曲を多彩な振り付けで歌ったという。驚くべきことに、既にピンク・レディーの片鱗があったのだ。よく知られる、後に2人が『スター誕生!』で見せるフォークデュオの姿ではなかった。
同年、スクールの後押しで『ポプコン』(ヤマハポピュラーソングコンテスト)にも挑み、見事、東海地区大会の決勝に進出する。歌ったのは、ヤマハから提供されたオリジナル楽曲の「恋のレッスン」である。探せば、YouTubeでも聴けるが、これがアップテンポで、悪くない。だが、残念ながら本選へは進めなかった。
1975年、2人は高校3年生になった。ヤマハのバックアップもあり、アマチュアのデュオとしてクッキーは地元ではそこそこ知られた存在になっていたが、なかなかプロへの道が開けなかった。ヤマハはミュージシャンを発掘する術には長けていたが、アイドルを育てるノウハウに決定的に欠けていたのだ。
2人は焦った。時間がない。既にクラスメートたちは進学や就職へ向けて行動を始めている。進路が決まらないのはミイとケイの2人だけだった。そこで、ヤマハに内緒でフジテレビのオーディション番組『君こそスターだ!』に応募する。2人はスクールで培ったパフォーマンスを披露し、自ら満足する出来栄えだったと確信するが、審査員の意外な言葉で敗退する。
「出来上がりすぎてる。新鮮味がない」―― それが、2人への評価だった。そう、テレビのオーディション番組は、セミプロを求めていなかったのである。
もう、2人に残された道は1つしかなかった。オーディション番組の老舗、日本テレビの『スター誕生!』である。文字通り、背水の陣だった。
背水の陣で臨んだ、スター誕生!
だが、1つ問題があった。同番組の予選は地方ごとに行われ、静岡の人間は静岡の予選にしか出場できなかった。つまり、ひたすら静岡に予選が回ってくるのを待つしかないが、それでは高校を卒業してしまう。当時、アイドルとしてデビューするには、中学時代にオーディションに合格するのがベストで、遅くとも高校在学中に芸能界に足場を作る必要があった。2人に残された時間はほとんどなかった。
さて、彼女たちはどうしたか。
意を決して、静岡から東京の日本テレビを訪ね、番組プロデューサーに直訴したんですね。人間、切羽詰まったらなんだってできる。そんな2人の気迫が通じたのか、高校3年と後がない2人に同情したのか、プロデューサーはミイとケイの東京予選出場を特例で認める。
そして2人は考えた。『君こそスターだ!』と同じ轍は踏むまい、と。ミイとケイは、衣装を流行りのホットパンツから、ちょっと懐かしいサロペット(オーバーオール)に変更し、歌唱する楽曲もフォークソングに変えた。振りも、これまでの3分の1に減らし、動きも遅くした。ざっくり言えば―― “田舎の素朴な少女” に変身した。知らぬは、審査員ばかりだった。
2人はテレビ予選を高得点で通過し、決選大会を迎えた。時に、1976年2月18日―― 高校の卒業式が、もう間近に迫っていた。
白いシャツに、ミイは赤、ケイは青のサロペットに身を包み、2人はポプコン出身のフォークグループ “ピーマン” の楽曲「部屋を出て下さい」を歌った。どこから見ても、純朴な田舎娘の様相だった。
2人に挙がった札は8社だった。この中から後日、レコード会社はビクター音楽産業(現・ビクターエンタテインメント)、芸能プロダクションはアクト・ワンの座組が決まる。札を挙げたビクターの担当者は飯田久彦氏で、かつて歌手として鳴らし、サザンの「チャコの海岸物語」のモデルにもなった御仁である。アクト・ワンはこの2ヶ月後に、新興の芸能プロのT&Cに吸収され、前社で社長だった相馬一比古氏は同社の制作部長に就任する。
4月12日、高校を卒業したミイとケイは上京し、相馬氏の実家に下宿する。ビクターの飯田氏は、2人のデビュー曲の作詞を『スター誕生!』の審査員も務める阿久悠サンに依頼する。作曲は阿久サンの提案で同じく同番組の審査員を務める都倉俊一サンに決まった。実は審査員でミイとケイを最も評価していたのが都倉サンだった。
芸名候補に挙がったのは…
さて、2人の芸名である。
有名な話だが、当初、ビクターから候補として挙がったのは、“白い風船” “ちゃっきり娘” “みかん箱” だったという。これを聞かされた2人は目の前が真っ暗になったとか。オーディションに合格するために、ほんの出来心でフォーク風に “変装” したまではよかったが、まさか、その路線で芸名まで付けられるとは――。それにしても “みかん箱” は凄い(笑)。これに決まっていたら、2人はその後、どんな軌跡を辿っただろう。
幸い、芸名の話は一旦先送りされ、その前にデビュー曲が立案された。こちらは現場サイドの判断に委ねられ、ビクターの飯田氏を始め、阿久悠サンも都倉俊一サンも一様にフォーク路線には反対だった。この時、阿久サンの脳裏によぎったのが、アニメソングだったとか。この先見の明は凄い。そうして紡ぎ出された、いくつかのタイトル候補の中に、「ペッパー警部」があったという。
阿久悠×都倉俊一によるデビュー曲「ペッパー警部」
ペッパー警部 邪魔をしないで
ペッパー警部 私たちこれからいいところ
曲作りは、まずタイトルを阿久悠サンが考え、次に、そのイメージで都倉俊一サンが作曲。再び阿久サンに戻って、曲に合わせて詞をはめ込むという手順が踏まれた。結果、まるでおもちゃ箱をひっくり返したような、唯一無二の楽しい楽曲に仕上がった。それにしても、なぜペッパー警部なのか。誰も理由を説明できなかった。
あなたの言葉が 注射のように
私の心にしみている ああ きいている
むらさきいろした たそがれ時が
グラビアみたいに見えている ああ 感じてる
それから間もなく、2人の芸名も決まった。“ピンク・レディー”―― 命名者は都倉サンである。元ネタはカクテルの名前。複数形にしないところがミソで、“2人で1人” を表しているとか。とはいえ、カクテルの名前を知らないと、誤解を生みかねないネーミングにも聞こえる。
合格からわずか半年でデビュー、すべてがプラスに作用した
続いて、振り付けが考案された。呼ばれたのは、振付師の土居甫(はじめ)サンである。この分野の第一人者。そのいかつい風貌に反して、女性アイドルの可憐な振り付けもお手の物。この時、彼が考案したのが、後に賛否両論の大騒ぎとなる “大股開き” だった。曰く、「ピンク・パンサー」のクルーゾー警部の、追っかけの場面をイメージした――。
その時なの もしもし君たち帰りなさいと
二人をひきさく声がしたのよ アアア…
ペッパー警部 邪魔をしないで
ペッパー警部 私たちこれからいいところ
デビュー日は8月25日に決まった。普通なら、ありえない日取りだ。少なくとも新人賞を狙うなら、4月前後にデビューするのがこの世界の常識。となれば、翌年の4月まで、じっくり時間をかけて育てるのが筋だが、そこまではしない。この一件からも、いかに当時のビクター音楽産業がピンク・レディーに過度な期待を寄せていなかったかが分かるというもの。
『スター誕生!』の合格からわずか半年後、2人のデビュー日が間近に迫っていた。誤解を生みかねない芸名、奇抜すぎるデビュー曲、賛否両論の火種になりそうな振付け、そして季節外れのデビュー―― まさか、その全てがプラスに転ぶなど、この時点で一体、誰が予想しただろうか。
伝説の、幕開けである。