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全編ユーミンの楽曲で綴られる原田知世&三上博史主演による映画『私をスキーに連れてって』はこうして誕生した

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全編ユーミンの楽曲で綴られる原田知世&三上博史主演による映画『私をスキーに連れてって』はこうして誕生した

連載 第3回【私を映画に連れてって!】


~テレビマンの映画武者修行40年


文・写真&画像提供:河井真也

1981年にフジテレビジョンに入社後、編成局映画部に配属され「ゴールデン洋画劇場」を担当することになった河井真也さん。そこから河井さんの映画人生が始まった。
『南極物語』での製作デスクを皮切りに、『私をスキーに連れてって』『Love Letter』『スワロウテイル』『リング』『らせん』『愛のむきだし』など多くの作品にプロデューサーとして携わり、劇場「シネスイッチ」を立ち上げ、『ニュー・シネマ・パラダイス』という大ヒット作品も誕生させた。
テレビ局社員として映画と格闘し、数々の〝夢〟と〝奇跡〟の瞬間も体験した河井さん。
この、連載は映画と人生を共にしたテレビ局社員の汗と涙、愛と夢が詰まった感動の一大青春巨編である。

 これまで関わってきた映画で、振り返って最もミラクル(奇蹟的)だと感じるのは『私をスキーに連れてって』(1987)だ。僕にとって初プロデュース作品とも言える映画だが、スタート時は完成すら危ぶまれていたからだ。
 日活撮影所でのオールラッシュ(スタッフ用)間近の試写の時に、同僚たちのヒソヒソ話で「フジテレビも遂に公開出来ない映画を作ったかも……」というのを聞いてしまった。僕自身も心の中では、否定する言葉を持てなかった。

▲『私をスキーに連れてって』には、原田知世、三上博史に加えて原田貴和子(原田知世の実姉)、沖田浩之、髙橋ひとみ、布施博、さらに、竹中直人、田中邦衛らが出演。田中の役名は田山雄一郎。田中が青大将・石山新次郎を演じた『若大将』シリーズで加山雄三が演じた若大将・田沼雄一の役名とを合体させたことは想像に難くない。こうした遊び心が映画ファンを喜ばせる。

 企画は、スキー&ユーミンフリークでもあるホイチョイ・プロダクション代表の馬場康夫氏だ。
 ホイチョイは成蹊大学の付属小学校時代からの同級生である仲間で立ち上げた、「ビッグコミックスピリッツ」(小学館)で4コマ漫画「気まぐれコンセプト」を連載する(現在も!)などのコンセプト・クリエーター集団だ。
 出会いは『子猫物語』(1986)。『南極物語』(1983)から映画のヒットで勢いに乗るフジテレビは、『子猫物語』の宣伝でホイチョイ・プロダクションにいろんなアイデアを出してもらった。
 当時、馬場康夫氏は日立製作所の広報(宣伝)に勤めるサラリーマンでもあった。
 たとえば、こんな事があった。
『子猫物語』の社内宣伝会議(当時は河田町のフジテレビ内)で、座長が我々に、「頭使ってもダメなら金使え! 今は金はあるんだから……」と。
 何故かその会議にはホイチョイ・プロダクションが同席している。その数日後の「気まぐれコンセプト」にはしっかり、その模様が4コマ漫画で「頭使ってもダメなら金使え!」という風に掲載された。
 こんな宣伝のやり方もあるのかという感じだが、そのお陰で、ホイチョイチームと知り合うことになった。
『子猫物語』は無事に大ヒット。そして運命のシナリオ「スキー天国」(仮題)の台本を渡され、読むことになった。

 これはユーミンの楽曲「サーフ天国、スキー天国」(1980)から取ったタイトルであろう。シナリオとしては至らない点も多かったが、〝ユーミン命〟であることは察しがついた。しかもラストは苗場のユーミンのコンサート(今も継続中だから凄い)で事件が解決する。そして、ラストにユーミン本人が登場するシーンも。ユーミンに会いたいだけなのか!?
 僕も大学生になって最初に買ったアルバムが『MISSLIM』(1974)だったので、共感しながらも、フリークのレベルが違い過ぎてツイて行けないところも。しかも商業映画の経験の無いホイチョイチーム(僕も製作補やプロデューサー補の経験しかない)にユーミンの楽曲が提供され、しかも本人が出演するなんてあり得ない……。これが第一印象だった。
 目の前の馬場さんは日立製作所の社員で、いつもネクタイをビシッとして、かつ「気まぐれコンセプト」を連載するコンセプト集団の代表である。
 しかし、このシナリオには何か時代の空気が詰まっていると感じた。〝バブル〟の命名はこの後で、この映画は象徴のように言われたが、我々には〝バブル〟の感覚は無かった。僕は、たまに苗場でスキーをする程度だったが、確かにユーミンの曲が流れていた。

▲フジテレビでの『私をスキーに連れてって』の打ち合わせの様子。左から筆者、企画・監督の馬場康夫氏、編集の冨田功氏、脚本の一色伸幸氏。脚本家の一色氏が参加しているので、恐らく、撮影前のシナリオの打ち合わせと思われる。

 フジテレビの同年代の仲間たちには「これこそ自分たちの世代の映画だ!」と好評だったが、年齢が上がるに連れ、「これは映画じゃないだろ」「ユーミンのプロモーションビデオだろう」と不評で、「そうかな……」と思うこともあった。
 ただ「面白くなければ・・・じゃない!」のフジテレビのステーションコールのように、若手の中では大いに盛り上がっていった。
 第一に考えたのは「テレビドラマ」との差別化だった。テレビドラマではない、テレビ局が作る映画。
 当時、映画企画制作集団だった<メリエス>のプロデューサーの面々に会えたことが、後の『私をスキーに連れてって』の完成に繋がって行く。
<ホイチョイ>という、商業映画は素人集団(僕も駆け出しのようなもの)に、<メリエス>という映画集団が関わったことで、「テレビドラマのような映画」では無く、「映画」として誕生出来たのである。
 勿論、何よりも馬場康夫氏のユーミンに対するリスペクトがあって完成に漕ぎつけたと言える。

 ユーミンの詩があって、シナリオが作られる。普通はシナリオがあって音楽を付けて行くことが殆どだが、「詩・曲」があってそれにシーン(映像)を付けて行く感覚。
 映画が公開されて「映像にぴったりユーミンの歌がはまってますね!」と言われたが、当たり前で正確には「ユーミンの歌に映像をピッタリくっ付けている」と言うべきか。
 シナリオライターの一色伸幸氏も大変だったに違いない。むしろ、正統派映画脚本家でもある彼の常識では考えられないことも多々あったろう。まだ、20代半ばで、凄い柔軟な対応で、オリジナリティを発揮してもらった。彼が「スキー天国」(仮)を映画のシナリオにしてくれた。
 メガホンを取ったのは、馬場康夫氏である。脚本を作り始めたころは、「誰が監督するんだろう?」と本気で思っていた。日立製作所の勤務を終えた5時以降、フジテレビ社内で一緒に脚本打ち合わせをやっているネクタイ姿のサラリーマンを見ていて、撮影現場での映画監督の姿を想像できなかった。ホワイトボードにスキー人口の増加グラフや、遊びのアイテムの数々を自らが描いているこの人に監督が務まるのか……。まさに宣伝部の人がマーケティング戦略のレクチャーをしている風景だった。
 結局、「馬場さんしかこのスキー映画を撮れる人はいない!」ということになった。元々、移動手段の一つだったスキーを、ここまで娯楽エンタテインメント(映画)に出来る監督は当時、他に見当たらなかった。
 馬場監督からの大きなリクエストは一つで、撮影を長谷川元吉さんにお願いしたいと。日立製作所の企業CMを撮っていた関係で、馬場さんが昔からリスペクトしていたと言う。実は、僕は『おニャン子・ザ・ムービー危機イッパツ』(原田眞人監督:1986)で、たまたま御一緒したので既知の仲だった。
 撮影以外は主にメリエスのメンバーが人選してくれた。
『南極物語』で出会った同世代の編集マン(当時は編集助手)の冨田功氏。彼がいなければ、完成も危うかったかもしれない。恩人である。馬場監督にも、手取り足取り? 編集のイロハから映画とは何か! まで語り続けてくれ、同時に僕も随分勉強させてもらった。その後、冨田氏とは『病院へ行こう』等10本以上の映画を一緒に創った。残念ながら45歳での早逝だった。

『私をスキーに連れてって』はテレビ局のノリと、映画スタッフとの合体の成果物である。
 20代中心の若手メンバーで<フジテレビアソシエイツ>を結成し、編成から営業まで部署を取っ払ったチームになった。それでも最終ジャッジするのは幹部(管理職)なので世代ギャップは大きかった。  たとえばタイトルも、最初の印刷台本は僕が妥協案として出した「白い恋人たち‘88」だった。20代が考えるタイトルに40代以上はついて来れず、最後まで決まらなかった。結局アソシエイツの一人が「私を野球に連れてって」(大リーグで7回表終了時に球場で歌う歌/同名の映画もある:1949米)と『私を月まで連れてって!』(竹宮恵子著の漫画)をもじって『私をスキーに連れてって』はどうでしょう? と。
「これだ!」と思ったものの、上層部の一部からは猛反対。「それは映画じゃなく、PV(MV)のタイトルだろ!」と言われたものの、若手で押し切った感じになった。今の自分が逆の立場だったら……とふと考えることがある。
 オリジナル映画の場合は自由にタイトルを付けることが出来る。しかも誰でも参加できる。故に紛糾することは多い。
 過去形で、になるが、一度も「私を野球に~」のパクリですよね、と言われたことがない。しかも映画が話題になったおかげで「私を~に連れてって」は流行語のようになった。ただMLB中継を見るたびに「私を野球に連れてって」が自分の頭の中を過るのである。

 一方、製作は困難を極めた。資金面でもフジテレビは上限1億円。それ以外は自分たちで調達。直談判で、小学館とポニーキャニオンが各々数千万円を出資してくれて解決。感謝!
 当初、1987年の1~2月に撮影を組む予定だった。雪がないと始められないので当然の時期である。
 2つのアクシデントが発生した。
 一つは、冬なのに雪が積もらなかった。志賀高原ほか各所、白ではなく、土色の風景で、とても撮影できる状態ではなかった。自然が相手では厳しい。2月になっても同じ状態で1~2月の撮影は断念。翌シーズンにしたいという監督らのリクエストもあったが、ここで実現できなければ次は無いと思った。

▲主演の原田知世

 もう一つはキャスティング。主演の原田知世さんは我々の一致した候補だったが、当時所属していた角川春樹事務所とのトラブルで、契約が残っている3月末までは仕事の依頼をすべて行なわないよう事務所からお触れが出た。これはルールだから致し方ない。
 このアゲインストな状況で撮影をやるのか、やらないのか。
 2月後半になり、ようやくドカ雪が。ただ、これから準備して、原田知世さんに出演してもらうとなると撮影は4月から。さすがにGWを過ぎてスキーの撮影は……。監督からも、2月の雪の結晶の形が、4月以降では六角形が削れて五角形になってしまう……など、僕には理解できない、スキーフリークらしい拘りの発言。新雪ではなく、ベチャベチャの雪が映ってしまう意か。

▲SALLOT(サロット)は、映画『私をスキーに連れてって』に登場する架空のカスタムブランドで、映画の企画段階では、【SALLOT】ブランドを商品化してヒットさせようと商標登録までしたという。残念ながら、公開時には間に合わなかった。2018年に『私をスキーに連れてって』公開30周年記念プロジェクトが立ち上がり、映画にも協力していたISG石井スポーツから【SALLOT】の板が今風のモデルとデザインで復刻販売され、予約が殺到した。公開当時、アルペンやヴィクトリアには映画で主人公が着た白いスキーウエアを求めてスキーファンが殺到したというニュースも懐かしい。映画の公開により、スキーブームが再燃したことは間違いない。

「4月からやる」と決めた。1日に編成局長を伴い、角川春樹氏に会いに行った。仁義を通すような感じだが、3月にはインせず、4月からの仕事で原田知世さんに出演してもらうことを伝えた。
 4月2日。雪が少ない中で、メインは奥志賀の焼額山に陣取り、原田知世さんらキャストも参加して無事? クランクインした。
 この時点で、この映画の出来に期待する人は殆どいなかっただろう。
 しかも、ドタバタの中で、ユーミンの事務所も不安だらけだ。
 実際、製作発表的なことを渋谷のシードホールを借りて行なったが、プレス(概要)に「松任谷由実」とは書けなかった。ユーミンがウリの映画に、ユーミンが無い! ただ事務所のマネージャーの気持ちになれば御尤もである。完成が危ぶまれていたのを察知したか……。本当はこんなことは、あってはいけないが、ユーミンの許諾が出たのは、撮影もすべて終わりオールラッシュ(ダビング前の音無し試写)の日。SE(効果音)などは無く、音と言えば殆どユーミンの歌だけだった。事務所のマネージャーの率直? な言葉が忘れられない。 「何かうちのユーミンの歌だけが目立ってますね……」まだ、ダビング前なので当たり前なのだが、最終形も、「最初からその予定です!」とは言えず、「これからダビングで、いろんな音が付いて……」などと、しどろもどろに話す中、待望の「OK」をいただいた。OKでなければ、この映画はどうなっていただろうと考えると今でもゾッとする。
 一難去って、また一難、十難位を乗り越えてやっと完成に漕ぎつけた。撮影面、キャストとのトラブルなど数えきれないピンチはあったが慣れてしまったのか。馬場監督も初監督、僕も初プロデュースのようなものである。怖いもの知らずか。今だったら、最初から「これは無理!」と白旗を上げていたかもしれない。
 元々、映画界の閑散期の11月公開。当たっても正月映画公開までの最長4週間興行。しかも東宝邦画系の2本立てで、メインは『永遠の1/2』(根岸吉太郎監督)。最初はこの映画に自分も参加していた。過去に参加した東宝系夏公開でヒットを宿命づけられている映画を考えると、そのプレッシャーはなかった。好評で、単体の映画として正月を越えて行った。ポスターをユーミンの『SURF&SNOW』のアルバムジャケットのようにイラストに拘ったため、東宝の上層部から反対されたり、公開直前まで、〝若いチーム〟が暴走しながらも、何とか11月21日を迎えた。

 ここからのこの映画のことは、多くの方がご存じの通りである。
 昨年、名古屋のミッドランドスクエアシネマで『私をスキーに連れてって』の35ミリ上映の興行(2週間程度)を行なうため、一人だけの舞台挨拶に招かれた。あの公開から35年だ。満員の観客とのトークで「映画館で観るのは25回目!」など、自分よりも遥かにこの映画を愛し続けてくれている人々に出会った。映画がヒットするのも嬉しいが、究極の喜びはこれかな……と。
「面白いスキー映画を創りたい!」。
 映画のスタートは、だいたい「Passion=情熱」と「Will=志」だ。
 そして『彼女が水着にきがえたら』(1989)、『波の数だけ抱きしめて』(1991)と、「SURF&SNOW」の如く、また荒波に揉まれに行くのである。

▲2022年6月12日に、名古屋のミッドランドスクエアシネマ2で開催された『私をスキーに連れてって』の上映イベント。〝河井真也プロデユーサー特集〟と謳われており、筆者のトークショー付イベントで多くの観客が足を運んだ。

かわい しんや
1981年慶應義塾大学法学部卒業後、フジテレビジョンに入社。『南極物語』で製作デスク。『チ・ン・ピ・ラ』などで製作補。1987年、『私をスキーに連れてって』でプロデューサーデビューし、ホイチョイムービー3部作をプロデュースする。1987年12月に邦画と洋画を交互に公開する劇場「シネスイッチ銀座」を設立する。『木村家の人びと』(1988)をスタートに7本の邦画の製作と『ニュー・シネマ・パラダイス』(1989)などの単館ヒット作を送り出す。また、自らの入院体験談を映画化した『病院へ行こう』(1990)『病は気から〜病院へ行こう2』(1992)を製作。岩井俊二監督の長編デビュー映画『Love Letter』(1995)から『スワロウテイル』(1996)などをプロデュースする。『リング』『らせん』(1998)などのメジャー作品から、カンヌ国際映画祭コンペティション監督賞を受賞したエドワード・ヤン監督の『ヤンヤン 夏の想い出』(2000)、短編プロジェクトの『Jam Films』(2002)シリーズをはじめ、数多くの映画を手がける。他に、ベルリン映画祭カリガリ賞・国際批評家連盟賞を受賞した『愛のむきだし』(2009)、ドキュメンタリー映画『SOUL RED 松田優作』(2009)、などがある。2002年より「函館港イルミナシオン映画祭シナリオ大賞」の審査員。2012年「SKIPシティ国際Dシネマ映画祭」長編部門審査委員長、2018年より「AIYFF アジア国際青少年映画祭」(韓国・中国・日本)の審査員、芸術監督などを務めている。

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