ロールス・ロイス「スピリット・オブ・エクスタシー」の悲しい神話
ロールス・ロイスのフードオーナメント、「スピリット・オブ・エクスタシー」は、エレガンスを象徴する荘厳な存在であるだけではない。その背後には、許されない愛の、悲劇の物語が隠されていた。
bysimon de burton
「シルバー・レディ」、あるいは「フライング・レディ」とも呼ばれる「スピリット・オブ・エクスタシー」は、世界で最も有名なトレードマークのひとつであることは間違いない。それは優雅さ、上品さ、洗練、そして成功を意味するものだ。しかし、その背景には、悲しい物語がある。
ロールス・ロイス社が設立される4年前の1902年、「英国王立自動車クラブ(RAC)」初代会長であり、英国ハンプシャー州のボーリュー村を統治していた領主、ジョン・ダグラス・スコット・モンタギュー卿は、創刊間もない自動車雑誌『カー・イラストレイテッド』のために新しい秘書を採用した。彼女の名前はエレノア・ヴェラスコ・ソーントン。南ロンドン出身の22歳、アルバイトで女優やアーティストのモデルもしていた女性である。以前、王立自動車クラブの幹事をしていたクロード・ジョンソンと仕事をしたことがきっかけで、クルマへの情熱を持っていた。
魅力的で快活、知的で何よりクルマに興味があったエレノアが、イートン校とオックスフォード校で教育を受けたモンタギューに好意を抱いたのは自然なことだった。しかし30代で貴族院議員になった彼は、既婚者だったのである。やがてモンタギューは情熱に支配され、すぐにエレノアと関係を持つようになった。その結果、私生児が誕生したが、父親の評判を落とさないよう、子供は養子に出された。後年、その子供は父のことを「おじさん」だと思っていたようだ。
1910年当時、ロールス・ロイスは世界最高の自動車メーカーとしてのイメージを固めつつあった。ラジエーターの独特な形はトレードマークだったが、C・S・ロールスとヘンリー・ロイスは、自分たちの車をさらに際立たせるために何か少し特別なものが必要だと感じていた。ボンネットのマスコットは、ラジエーターに取り付けられた温度計から派生したもので、カーオーナーの間では装飾品として既に人気があった。そこでモンタギューは、ロールスとロイスに、ブランドのステータスを表すシンボルを作るよう提案した。カー・イラストレイテッド社のチーフ・グラフィック・アーティスト、チャールズ・サイクスがデザインする小さな彫像がいいのではないかともちかけたのだ。
しかしロールス・ロイスの役員会は、やたらと派手なボンネット飾りが流行していることを不快に思っていた。そこで問題となったのは、「世界最高のクルマ」にはどんなモチーフがふさわしいか、ということだった。
モンタギューは既にシルバーゴーストを所有しており、マスコットのデザインをサイクスに依頼していた。そのモデルを務めたのが、他ならぬエレノアだったと言われている。マスコットは「ザ・ウィスパー」と呼ばれており、指を唇に押し当てた「秘密にしておいてね」というポーズが、内緒で行われていた情事を暗示させる。そしてチャールズ・サイクスは、エレノアの元上司でありロールス・ロイスのゼネラル・マネージャーであったクロード・ジョンソンから、「ザ・ウィスパー」と類似するブランドの公式マスコットを作るよう、正式に依頼されたのである。
その後、マスコットは「スピリット・オブ・エクスタシー」と名付けられた(モンタギューの友人たちは、不遜な言い方で「ネグリジェのエリー」と呼んでいた)。1911年2月からオプションとして提供されたが、実際には生産ラインから出荷される大半のロールス・ロイスに装備されたようだ。ちなみにC・S・ロールスはその数ヶ月前にボーンマスで行われた航空ショーで世界初の航空事故死を遂げ、その姿を見ることはなかったという。
そしてさらに4年後、物語は悲劇的な結末を迎える。1915年、第一次世界大戦中、モンタギューは彼の専門である機械輸送について政府に助言をするため、インドに行くことになった。当然、秘書エレノアも同行が求められたが、彼女はアデンまで同行してその後英国に戻るということになっていた。モンタギュー夫人は、ふたりの関係を知っていたようで、もう諦めていたようである。しかし5日後、ふたりが乗った船にドイツのUボートから発射された魚雷が命中。その衝撃でボイラーが爆発し、船はあっという間に沈没してしまった。ふたりは互いに抱き合ったまま海に落ちたといわれている。モンタギューは何とか生き残ったが、エレノアは他の多くの乗客・乗員と同じく、二度と帰らぬ人となった。
モンタギューは、その後何千台ものロールス・ロイスのボンネットマスコットのモデルとなった女性について、公式に語ることはなかった。しかし、「ザ・ウィスパー」は、ボーリューにある国立自動車博物館に展示されている。サイクスもまた、自身の代表作の制作にエレノアが関わったことについて公に語ろうとしなかった。1950年にサイクスが亡くなった後、彼の娘ジョセフィーヌにこの話を引き出そうとした者がいた。すると彼女はこう言った。「エレノアは素敵な人でしたし、興味深い話です。でも、神話は神話のままにしておきましょう」。