【詩人・野村喜和夫さんインタビュー】 新刊「観音移動」は「シュルレアリスム小説集」
かつて自分が作品で描いた出来事が、時を経て現実となる-。こうした現象を、20世紀初頭に「シュルレアリスム」(超現実主義)を提唱したフランスの詩人アンドレ・ブルトンは「客観的偶然」と名付けた。静岡新聞の「読者文芸」を担当し、毎秋の「しずおか連詩の会」のさばき手(まとめ役)を務める詩人野村喜和夫さんはある日、この「客観的偶然」に遭遇した。新刊「観音移動」(水声社)は、そのいきさつを記した表題作で幕を開ける。全7編の「シュルレアリスム小説」が投げかけるものは何か。野村さんに話を聞いた。(聞き手=論説委員・橋爪充、写真=東部総局・田中秀樹〈2023年11月に三島市で行われた「しずおか連詩の会」から〉 )
評論集の副産物
―水声社の月刊ウェブマガジン「コメット通信」に掲載された作品をまとめた一冊。発端となった「客観的偶然」は、自宅の庭に観音像が引っ越してくるという事象だそうですね。
(野村)2022年、評論集「シュルレアリスムへの旅」執筆中に、そうした出来事が起こり、経緯を小説形式で書き留めておこうと思いました。そうしたら、芋づる式にいくつかシュルレアリスム的な物語が浮かんできた。それをウェブマガジンに発表し、本にまとめたわけです。つまり、この作品は「シュルレアリスムの旅」の副産物です。
―詩人が小説を書く上で、作法の違いが大いにあるだろうと想像します。どのような思考の切り替えを行ったのですか。
(野村)自分には小説の心得が備わっていないと思っているんです。実際、書き分けるのは大変です。詩人として出発して小説家になった人はいますが、僕はそうした器用な人とは違う。小説らしき文体を心がけましたが、詩人の本性が文体に出てきたところもあります。ただ、今回は「シュルレアリスム小説集」です。小説の上に「シュルレアリスム」がくっついているから、詩的な要素が入っていても許される。そういう立場にいると思うと、やりやすかったですね。
―「観音移動」は野村さん自身が、取材に答える形で物語が進みます。自らを「客体化」させたのはなぜですか。
(野村)「私は」という話法で語り手として露骨に語っちゃうのは恥ずかしい感じがしたんです。だから、語り手のレベルでちょっと距離を置きました。
-後書きにご自身でシュルレアリスムの方法やテーマを意識したと書かれていて、作品にはブルトンやマン・レイが出てきます。そもそも野村さんはシュルレアリスムという芸術運動をどう捉えているのですか。
(野村)若い頃からずっと関心を持ち続けています。極めて重要なものですね。100%迎合するわけではありませんし、留保したい点はいくつかありますが、根本的には大きく影響を受けています。
-各小説でさまざまな「死」を描いています。ただ、その「死」の重さがそれぞれ違っているのが興味深いです。死者の尊厳を無視したような作品もある一方で、「母の死」を扱った「観音移動」「夜なき夜」「死者の砂」はトーンが違います。「死者の砂」に至っては母の死を「二度目の誕生の瞬間。これまでは、母というつらくなれば顔を埋めて泣いてもよい場所が担保されていた。だがもう逃げ場はない」とまで書いています。この重さの違いはなんでしょうか。
(野村)ほとんど無意識のうちに「死」のテーマが集まってしまいました。年齢的なものもあるかもしれません。意図したわけではないんです。ただ母親の死は、やはり格別なものがありました。
-シュルレアリスムの思想が主題そのものに影響を与えた、という面はあるでしょうか。
(野村)そういうこともあるかもしれません。シュルレアリスムの基本的な態度は反キリスト教です。死後のキリスト教的な「復活」「天国」は認めません。むしろ地上の生を全うし、謳歌する。そのことによって死を乗り越えていくんですね。
-全体的にエロティシズムが強くにじんでいます。人間の性的な側面を逃げずに書き続ける野村さんらしいなと思いましたが。
(野村)エロティシズムは大きなテーマです。肯定的な評価にせよ、否定的な評価にせよ、自分の中にあるので受け入れざるを得ません。なるべくのびのびと自由に書こうと思っています。シュルレアリスムのエロティシズムは、晴れやかというか、明るいものなんです。
文学は「連続性」
-端々に詩人の先達への言及がありますね。三好達治、石原吉郎、萩原朔太郎。そしてアルチュール・ランボーやヴェルレーヌ。ブルトンもそうです。彼らのイメージが奥行きを与えている気がします。どういう意図だったんでしょうか。
(野村)文学というのは「連続性」だと思っていますので。ご指摘の点は、僕自身の中では非常に重要な要素なんですね。過去の作品との対話です。一方で、ある種の教養主義ですよね。これが今の若い人には共有されなくなっているという恐れもあります。
-世代的な違いを実感されているんでしょうか。
(野村)教養のバックグラウンド、つまり一つの言葉なりイメージの背後には、膨大なイメージがあるんです。それを背負ってものを書いていくのが詩人や小説家だと思いますが、ただそれも一つの時代の姿なのかもしれません。永続性があるかどうか、ちょっと心許ない。今まではそれで良かったんですけれど。
-教養主義的なところが文学の豊かさを担保していると思いますが、その点がどんどん薄まっているという印象があるんですか。
(野村)別の詩集の書評で、野村の書くものは確かにおもしろいが、背後にある教養のバックグラウンドはもしかしたら今の若い人にとって理解することが難しくなっているかもしれない、とありました。ああ、やっぱりそういう時代の流れになっているのかなと感じましたね。
-詩人の立場として、この小説を読んでどんな感想を抱きますか。
(野村)難しいですね…。ただ、ご覧のようにこの作品には自伝的な要素もあります。生きているうちにこれが書けて良かったなという実感はありますね。