南野陽子の下剋上!CBSソニーの3番手が【80年代のトップアイドル】に登りつめた理由!
群雄割拠した1980年代の芸能界でトップに立った南野陽子
まるで秀吉の天下統一を見るようなワクワク感があった。あまたのアイドルが群雄割拠した1980年代の芸能界で、後方スタートから並み居るライバルをごぼう抜き。あれよあれよという間にトップに立ったナンノこと南野陽子のことだ。
友人たちと観覧した公開番組の収録現場でスカウトされたナンノは1985年6月23日、18歳の誕生日に「恥ずかしすぎて」でデビューする。その前に西田敏行主演の連続ドラマ『名門私立女子高校』(日本テレビ系 / 1984年11月〜1985年1月)に生徒役で出演しているが、本人のなかではエキストラ参加という位置づけ。デビュー作はあくまで「恥ずかしすぎて」だと明言している。
アイドルシーンは転換期を迎えていた1985年
ここで当時の状況を振り返っておこう。いささか長文となるが、お付き合い願いたい。彼女が登場した1985年、アイドルシーンは転換期を迎えていた。1980年にデビューし、空前のアイドルブームを創出した松田聖子が神田正輝との結婚を経て休業。メディアは1985年の新人を “ポスト聖子” と書き立てた。奇しくもナンノがデビューしたのは “聖輝の結婚” の前日である。
聖子の登場前夜、つまり70年代末はニューミュージックが躍進し、アイドルはどんなに人気があってもレコードが売れない “冬の時代” であった。芸能事務所やレコード会社の間では「アイドルはピンク・レディーで終わりかも」との空気が漂っていたが、そこへ登場したのが聖子である。髪型や衣装にこだわりを持った彼女は、売り出しに自信を失っていた大人たちに代わってセルフプロデュース力を遺憾なく発揮。70年代のアイドル歌謡を支えた職業作家ではなく、ニューミュージック系のシンガーソングライターを起用した楽曲にも恵まれてアルバムでもビッグセールスを連発し、アイドル時代を再び招来する “中興の祖” となった。
彼女と同期の河合奈保子、岩崎良美、三原順子(現:三原じゅん子)がいずれも1年目で『ザ・ベストテン』(TBS系)にランキングされる人気を博したこともあって、各社は有望新人の発掘に注力。オーディションやスカウトを通じて獲得した10代の少女を続々と売り出すことになる。
大手芸能事務所(ホリプロ、バーニング、芸映、サンミュージックなど)とレコード会社(CBS・ソニー、ビクター、東芝EMI、コロムビアなど)が組んだイチ押しの新人が春先にこぞってデビューし、夏に発売されるセカンドシングルか秋のサードシングルで新人賞レースに勝負をかける。そんな構図が定着したのは80年代前半のことであった。
しかしそれも数年すれば飽きられる。恋に恋する少女を歌い、ひたすら可愛さを打ち出した “聖子型” と、「少女A」(1982年)のような挑発路線で攻める “明菜型" 。ほぼすべての新人が先輩2人のフォロワー的な形で量産されたのだから当然と言えば当然だった。当初は聖子型だった小泉今日子が2年目以降、独自路線で人気を確立していったのは、その2タイプに飽き足らない層が存在していたことの証しと言えよう。
等身大のファッションで歌う菊池桃子の成功
新人の世界における地殻変動は1984年から起きつつあった。聖子ちゃんカットにフリフリの衣装かミニスカート―― 同じようなビジュアルで同じような曲を歌う、大手プロダクション所属の新人よりも、アイドル育成に実績のない事務所からデビューした、等身大のファッションで歌う美少女たちが成功を収め始めたのだ。
その第1号は1984年4月に歌手デビューした菊池桃子だった。レイジーや角松敏生らを売り出した音楽事務所「トライアングル・プロダクション」にスカウトされて芸能界入りした彼女はアイドル誌『Momoco』(学習研究社)のイメージガールに起用されたのち、映画『パンツの穴』に出演。レコード会社は新興のバップだったが、歌手になる前からメディアミックスで人気を獲得していたため、デビュー曲「青春のいじわる」はオリコンでいきなり17位をマークした。
全作曲とほぼすべての編曲を担当した林哲司は菊池のウイスパーボイスが生きるシティポップ風のサウンドを構築。それらの楽曲を女子高生らしいカジュアルなファッションで歌唱した菊池は清新な魅力を放ち、新人女性アイドルのなかで最大のレコードセールスを記録する。にも関わらず新人賞レースに参加せず、日本レコード大賞の授賞式さえ欠席したことは前代未聞の対応であった。
新人ナンバーワンのセールスを記録した斉藤由貴
そしてその翌年、斉藤由貴も定石とは異なる方法でブレイクを果たす。母親の勧めで応募した『ミスマガジン』でグランプリを獲得した彼女は『東宝シンデレラ』のファイナリストとなり(優勝は沢口靖子)、それまでアイドルとは無縁だった東宝芸能に所属。少年マガジンのグラビアや明星食品のCMで脚光を浴び、歌手デビュー前から十分な人気を集めていた。
1985年2月、キャニオンからリリースされたデビュー曲「卒業」はオリコン14位に初登場したあと6位まで上昇。その後は主演ドラマ『スケバン刑事』(フジテレビ系)の主題歌と、文学少女的なイメージを生かした楽曲でヒットを連ね、年間セールスで新人ナンバーワンとなる。賞レースに参加しなかったのも菊池桃子と同様で、2年連続でキャピキャピでもツッパリでもない新人がトップアイドルになったことは時代の変化を感じさせるものであった。
当初はイチ押しとは言えない扱いだった南野陽子
だいぶ前置きが長くなった。そんな状況のなかデビューしたのが今回の主役、南野陽子である。当時は『ホリプロタレントスカウトキャラバン』や『ミスセブンティーン』など、アイドルの登竜門とも言える応募者数万人規模のオーディションが花盛りで、すべての大会にエントリーする少女も珍しくなかったが、ナンノはスカウトされるまで、芸能界にもアイドルにも興味がなかったという。
1984年夏、神戸から上京した彼女は作曲家の都倉俊一らが設立したエスワン・カンパニーに所属。創業間もない事務所だったため、俳優業のマネジメントは青年座が担当することになった。程なくしてレコード会社はCBS・ソニーに決定するが、同社は自社主催のオーディションで発掘した新人を複数抱えており、イチ押しとは言えない扱いであった。
ちなみに1985年、CBS・ソニーからデビューした女性アイドルは以下の通り。(デビュー日 / 歌手名<所属事務所> / デビュー曲 / タイアップ)
▶︎ 3月21日 松本典子<第一プロ>「春色のエアメール」(郵政省キャンペーンソング)
▶︎ 4月21日 網浜直子<アンクルF>「竹下涙話」
▶︎ 6月21日 村田恵里<キャンプ>「オペラグラスの中でだけ」
▶︎ 6月23日 南野陽子<エスワン>「恥ずかしすぎて」
▶︎ 9月1日 河合その子<渡辺プロ>「涙の茉莉花LOVE」(フジテレビ系『夕やけニャンニャン』番組内歌唱曲)
ナンノ以外はすべてソニー主催のオーディション出身者だが、最もデビューが早く、本人出演のCMタイアップがついた松本典子がイチ押しであったことは一目瞭然。彼女の担当ディレクターは松田聖子を見出した若松宗雄で、デビュー曲「春色のエアメール」はオリコン週間28位とまずまずの成績を残す。
ブレイクのきっかけは「DELUXEマガジン」
一方、ナンノの楽曲制作は東芝から移籍してきた原田知世でヒットを出していた当時32歳の若手ディレクター・吉田格が担当した。その吉田いわく、南野陽子は当初、松本典子、網浜直子に続くソニーの3番手だったという。実際、デビュー曲のセールスもその位置づけ通りの結果となったが(おニャン子クラブから9月にソロデビューした河合その子を除く)、ここから1年半かけて下剋上が起きる。
きっかけは表紙と巻頭36ページを飾った『DELUXEマガジン』(講談社が発行していたアイドルグラビア誌)1985年4月号で、フォトジェニックな魅力が評判となったナンノのもとにはグラビアのオファーが殺到。それが舞台、ドラマ、ラジオの仕事に繋がり、やがて『スケバン刑事Ⅱ 少女鉄仮面伝説』(フジテレビ系 /
1985年11月〜1986年10月)のヒロインに抜擢される。
その『スケバン』では「おまんら、許さんぜよ!」の決めゼリフが流行し、孤高の少女を演じたナンノの人気が爆発した。挿入歌に使用されたセカンドシングル「さよならのめまい」(1985年11月)はオリコン15位をマークし、「恥ずかしすぎて」の57位から大きく伸びた。さらに同ドラマの主題歌となったサードシングル「悲しみモニュメント」(1986年3月)で初のトップ10入りを果たし、歌手としてもブレイクを果たす。
華やかで上品、知的で可憐な神戸のお嬢様
80年代前半のアイドルは歌番組が主戦場で、時折ドラマや映画に出ることはあっても、歌がヒットしている間は音楽活動が中心であった。しかしナンノや斉藤由貴は俳優としての活動も並行して展開。トップ10ヒットを連発してコンサートも行ないながら、映画やドラマにも継続的に出演して結果を出したのは70年代の山口百恵、桜田淳子以来の偉業と言っていいだろう。2人とも18歳のデビューで、アイドルとしては遅めのスタートだったが、それがハンデにならなかったことも転換期の現われと言えそうだ。
華やかで上品、知的で可憐な神戸のお嬢様――。ナンノのそんな雰囲気はローティーンの少女には出せない18歳ならではの魅力だった。それまでもお嬢様的なイメージで売り出されるアイドルはいたが、伝統ある神戸の中高一貫私立女子校出身のナンノには圧倒的なリアリティがあった。
ディレクターの吉田はそのプロフィールをもとに少女のライフスタイルを描いたシンガーソングライター的な世界観を構想。具体的には “阪急沿線の急行が停まる駅まで自転車かバスで来て学校へ通う。乗る車両はいつも決まっていて、週末は神戸のポートアイランドに友達と遊びに行く” というもので、そんな少女像をスタッフ間で共有して詞や曲を作り込んでいったという。
「楽園のDoor」以降、8作連続でオリコン1位を獲得
「まちぶせ」(1976年 / 三木聖子)のシチュエーションを彷彿とさせる5枚目のシングル「接近(アプローチ)」(1986年10月)や、「DESTINY」(1979年 / 松任谷由実)の女心に通じる7枚目のシングル「話しかけたかった」(1987年4月)など、ユーミンの本歌取りとも言える楽曲でヒットを重ねていったナンノは6枚目のシングル「楽園のDoor」(1987年1月)以降、8作連続でオリコン1位を獲得。1987年のシングルセールス(金額)では中森明菜をおさえて年間1位の快挙を達成する。それはデビュー3年目にして天下を獲った瞬間でもあった。
吉田は大御所の作家にはほとんど発注せず、新しい感性を持った若手の作家を積極的に起用した。彼らと一緒にリテイクを重ねながら納得のいくものに仕上げていく――。その方針が他のアイドルとは一線を画すナンノワールドに繋がった。
メインライターは作詞家が康珍化、小倉めぐみ、戸沢暢美、田口俊、作曲家が亀井登志夫、岸正之、柴矢俊彦、上田知華、木戸泰弘といった顔ぶれ。当時は駆け出しだったが、のちに売れっ子になった作家も多く、優秀な才能を多数発掘したこともナンノプロジェクトの成果として挙げておきたい。編曲はトップアレンジャーの萩田光雄が9割を担当し、ゴージャスな生音に打ち込みを融合したサウンド面での統一が図られている。
それまでのアイドルにありがちだった絵空事のポップスではなく、心の痛みや陰をも感じさせるリアルな世界観が共感を呼んだのだろう。ナンノはアルバムでもシングルと同規模の好セールスを連発し、80年代後半を代表するトップアイドルとなった。
非凡なセルフプロデュース力を発揮
ナンノ自身、衣装のデザインや髪型、振り付けを自分で決めるなど、非凡なセルフプロデュース力を発揮するが、それはアイドル育成の実績がない新興事務所の所属だったことも大きかった。「人と同じことをしていたら埋没してしまう」。そう考えた彼女は当時のアイドルとしては珍しかったロングヘアをハーフアップやポニーテールにし、衣装ではモヘヤやレースの服を選ぶなど、差別化を図り独自のポジションを獲得する。
楽曲制作においても自分のイメージに近い曲のカセットテープを吉田に渡して、時にはメロディや歌詞に対して意見を出すこともあったという。自身の希望でシングルA面になった「話しかけたかった」や、お気に入りのカンツォーネ「花のささやき」(1966年 / ウィルマ・ゴイク)をモチーフにした9枚目のシングル「秋のIndication」(1987年10月)はその代表例と言えるだろう。
音楽好きの両親のもと、幼少期から様々な音楽に触れてきたナンノには特定のジャンルへのこだわりがなく、「いいな」と思った要素を採り入れることができる柔軟性があった。打ち込み主体の10thシングル「はいからさんが通る」(1987年12月)から荘厳でクラシカルな13枚目のシングル「秋からも、そばにいて」(1988年10月)など、音楽的な幅があるのはそういった背景があったからだと思われる。
「ザ・ベストテン」への出演シーンを網羅した「南野陽子 ザ・ベストテンCollection」
1992年以降、俳優としての活動に専念したナンノだが、近年は新曲の発表やライブの開催など音楽活動も意欲的に展開。デビュー39周年となる今年は7月に横浜、大阪、東京で12公演を行なうが、いずれもチケットが即完売する人気を集めている。
そんな彼女がトップスターへと駆け上がる軌跡を収めた映像作品『南野陽子 ザ・ベストテンCollection』が6月26日に発売される。「さよならのめまい」から15枚目のシングル「トラブル・メーカー」(1989年6月)まで、TBS系『ザ・ベストテン』への出演シーンを網羅したBlu-ray3枚組BOXで、番組終了後に同窓会と称して放送された特番への出演回や他の番組における歌唱シーンもボーナス映像として収録されている。
本人が “特別な思い入れのある番組" と述懐するだけあって、各出演回の想い出を綴ったインタビューブックも付属。その証言を読みながら、最新技術でクリアに甦った映像と音声を視聴すれば、ナンノが唯一無二のアイドルとして活躍した時代を追体験できることだろう。