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#2 自由と独立の代償としての「孤独」――姜尚中さんが読む、夏目漱石『こころ』【NHK100分de名著ブックス一挙公開】

NHK出版デジタルマガジン

#2 自由と独立の代償としての「孤独」――姜尚中さんが読む、夏目漱石『こころ』【NHK100分de名著ブックス一挙公開】

姜尚中さんによる、夏目漱石『こころ』読み解き

あなたは“真面目”ですか――。

自由と孤独に生きる“現代人の自意識”を描いた、不朽の名作『こころ』が誕生してから今年で110年。

『NHK「100分de名著」ブックス 夏目漱石 こころ』では、姜尚中さんが、他者との関係性に悩む登場人物たちの葛藤を読み解きながら、モデルなき時代をより良く生きるためのヒントを探ります。

今回は、本書より「はじめに」と「第1章」を全文特別公開いたします(第2回/全4回)

陰鬱な世界にはまる

 すでにいろいろな機会を得て話していることですが、わたしは高校生のときに軽いうつ病にかかり、引きこもりになったことがあります。十七歳でした。中学校時代までは野球が大好きな明るい少年だったのに、それ以降、人が変わったように内向的で引っ込み思案な性格になりました。

 いわゆる思春期だったのだと思います。それと同時に自分が在日であることを強烈に意識し、不条理を感じ、社会の中で自分がどのように見られているかが気になって仕方がありませんでした。自分の行動のいちいちを意識するようになり、身動きもならぬ状態になったのです。やや吃音(きつおん)になり、そして不登校にもなりました。わたしはわたしの殻に閉じこもり、しかし、外の世界のことは気になるので、殻の内側から覗き穴でこっそりと盗視(とうし)しているような、そんな青春時代を送ることとなったのです。

「危険な十七歳」という言い方がありますが、当時のわたしはまさにそれでした。あのころのことを思い出すと、いまでもけっこう忸怩(じくじ)たるものがあります。もちろん、同時に懇(ねんご)ろに労(いたわ)りたいような、とても懐かしい時代でもありますが。

 部屋に引きこもったわたしは、やたらに本を読むようになりました。さいわいなことに、両親が廃品回収の仕事のかたわら、古本の文学全集などをたくさん集めてくれていたので、気になったものを手当たり次第に読んでいきました。その中に、漱石の『こころ』があったのです。

 その本が醸(かも)し出すイメージは、わたしが知っている漱石とはまったく異なるものでした。それまでに読んだことがあったのは、子供にもとっつきのよい『坊っちゃん』や、『吾輩は猫である』(の愉快なところだけ)、あるいは『三四郎』くらいだったので、わたしは漱石というのは、江戸っ子の噺家(はなしか)のように軽妙洒脱(けいみょうしゃだつ)な作家だと思い込んでいたのです。しかし、『こころ』の中に見たのはおよそテイストの違う、憂鬱で翳(かげ)った感じでした。しかし、半病人のような状態にあったわたしの心には、そちらのほうがむしろぴったりきました。大人の入り口にさしかかっていたわたしはそれまでとは違う「本当の漱石の世界」に出会い直し、いま風の言葉で言えばはまったのです。

 いま思えば、読解力の乏(とぼ)しい当時のわたしがこの小説をどのくらい理解できていたのか心もとないところがあります。それでも、磁石に吸い寄せられるように惹かれる文章が、いくつかありました。

 たとえば、「先生」が若い「私」に対して言った次の言葉。

「(……)自由と独立と己(おの)れとに充(み)ちた現代に生れた我々は、其[その]犠牲としてみんな此[この]淋しみを味はわなくてはならないでせう」

 なかなか難しい言い回しですが、要するにこういうことです。近代の到来とともに古い価値観が解体し、「個人」の時代が始まりました。人がそれまでのような旧来の共同体や関係性に隷属(れいぞく)せず、自分というものを主張しておのれの自由と独立性とを追い求めていくのであれば、その代償としていやおうなく「孤独」というものがつきまとう、ということです。

 当時のわたしは、社会の中で「一個の独立した自分」を主張したい思いでいっぱいで、しかし、そのためにどうしたらいいのか、答えはまったく見つかっていない状態でした。そのために一人ぽつねんと取り残され、「孤独」のただなかにいましたから、意味はハッキリとはわからないながら、「先生」のこの天涯孤独な気分がまさにしっくりきたのです。

 このセリフにも惹かれました。

「私は淋(さび)しい人間(にんげん)です」と先生は其晩又此間(このあひだ)の言葉を繰(くり)返(かへ)した。「私は淋(さび)しい人間(にんげん)ですが、ことによると貴方(あなた)も淋しい人間(にんげん)ぢやないですか。私は淋(さび)しくつても年(とし)を取(と)つてゐるから、動(うご)かずにゐられるが、若いあなたは左右(さう)は行(い)かないのでせう。動(うご)ける丈[だけ]動(うご)きたいのでせう。動(うご)いて何(なに)かに打(ぶ)>つかりたいのでせう。……」

 他者からの承認がほしい、手応えがほしい、何かに当たっていきたい、しかし、勇気がないからできない──。そんな堂々めぐりを繰り返していたわたしの気持ちを、ぴたりと言いあててくれた言葉です。

誰も幸せにならない

 では本題に入って、小説『こころ』の粗筋をたどってみましょう。

 ときは明治の後期から末年ごろ、舞台は東京のおそらく山の手です。主役は学生の「私」と十余歳ほど年上とおぼしき「先生」。ここに、「先生」の親友の「K」、「先生」の奥さんで学生時代に下宿先の娘さんであった「お嬢さん」、お嬢さんの母親、および、「私」の郷里の親といったあたりが脇を固めます。

「私」と「先生」は夏のある日、避暑に訪れていた鎌倉の海岸で知り合い、親交を深めていきます。「先生」は何の仕事もせず資産で暮らしている高等遊民(こうとうゆうみん)です。そして、独特のミステリアスな雰囲気を持っています。その謎めいた部分は、親しくなるほどむしろ増していきました。

 たとえば、東京帝国大学を卒業したインテリなのに、気力がなくて何ごともなそうとしません。それはなぜなのか。奥さんとも一見仲むつまじいのに、よく見ると夫婦らしからぬ打ちとけないところがあります。それはなぜなのか。そして、月に一度、雑司ヶ谷(ぞうしがや)墓地に律儀に誰かの墓参りを欠かしません。墓の主はいったい誰なのか……。つきあうほどに一筋縄でいかないものがにおってきて、気になった「私」は「先生」に包み隠さぬところを教えてほしいと迫ります。これに対して、「先生」は最初のうちははぐらかしますが、次第に心を開いて、最終的には「私」を信頼してすべてを告白してくれるのです。

 その告白は長い長い手紙にしたためられ、「私」が重病の父親の見舞いに郷里へ戻っているとき、帰省先に届きました。そして、開いた分厚い封書の中には、驚くべき深刻な「先生」の過去がつづられていたのです。

 それによれば、「先生」は若き日に田舎の両親に先立たれ、相当の資産を相続したのですが、その大部分を叔父にだまし取られ、人間不信となる経験をしたそうです。「先生」はそれを機に田舎の親戚とはきっぱり絶縁し、軍人だった夫を亡くした夫人と一人娘が二人暮らししている家庭にたまたま下宿することになります。まもなく「先生」はそのお嬢さんを愛することになるのですが、そのころ折しも郷里の親友で帝大の学友でもあるKがよんどころない事情で実家を勘当(かんどう)となり、Kの困窮をみかねた「先生」は彼を自分の下宿の続き部屋に住まわせることにしました。Kは寺の息子で、剛毅(ごうき)で頭脳明晰な青年でした。ところが、あろうことか、同じ屋根の下に住みはじめたKもまた、同じお嬢さんに恋してしまったのです。ここから親友の間に微妙なものが芽生えていきます。

 そしてあるとき、「先生」は、Kから思ってもみない告白を聞くことになるのです。それは、Kがお嬢さんを心から愛しており、自分でもどうしていいのかわからないという、およそKの剛毅な性格からは想像もできない愛の告白でした。お嬢さんを奪われることを恐れた「先生」は、策略を用いてKを出し抜き、妻にもらう算段をつけます。それを知ったせいなのかどうかわかりませんが、Kは失意に陥り、自殺してしまいました。残された「先生」はお嬢さんと結婚しますが、そんななりゆきの上に結ばれた縁ですから、もはや虚心に愛することはできません。愛そうとすればするほどKの面影がちらつきます。一方、お嬢さんは何も知りませんから、よそよそしい夫の態度に不信を募(つ)のらせます。

「先生」は友を死に追いやった罪責感からすべての活力を失って“ぬけがら”のようになり、仕事もせず社会的な活動もせず、しかし、見かけは物静かな知識人として、心のどこかで死ぬべき時と場所を探しながら十何年永らえて、中年にさしかかったときに「私」と出会ったのです。

 そして、そうこうするうちに明治天皇が崩御し、一つの時代が終わりました。それを機に「先生」はいよいよ死ぬことを決心しました。長い手紙は、「これを君が読むころには自分はすでにこの世にいないだろう」と結ばれていました。

 それを読んだ「私」は仰天し、手紙を袂(たもと)に投げ入れ、危篤(きとく)の父親を置き去りにして東京行きの汽車に飛び乗ります──。

 このように、『こころ』というのはかなりシリアスな物語です。誰も結ばれず、誰も幸せにならない、ある意味では救いのない小説なのです。

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著者

姜尚中(カン・サンジュン)
政治学者、東京大学名誉教授。国境を超越し、「東北アジア」に生きる人間として、独自の視点から提言を行っている。著書に『マックス・ウェーバーと近代』『オリエンタリズムの彼方へ』『ナショナリズム』『姜尚中の政治学入門』『日朝関係の克服』『悩む力』『続・悩む力』『心』『心の力』など多数。
※全て刊行時の情報です。

■『NHK「100分de名著」ブックス 夏目漱石 こころ』(姜尚中著)より抜粋
■書籍に掲載の脚注、図版、写真、ルビなどは、記事から割愛しております。

*本文中の漱石の作品からの引用は、すべて岩波書店刊『漱石全集』(一九九三~九九年)によっています。原稿のルビのほかに、読みやすさを考慮して編集部によるルビを[ ]でくくって付けました。その読みは現代仮名遣いにしています。
*本書は、「NHK100分de名著」において、2013年4月に放送された「夏目漱石 こころ」のテキストを底本として一部加筆・修正し、新たにブックス特別章「「心」を太くする力」などを収載したものです。

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