【追悼:中山美穂】80年代アイドルの90年代サバイバル!歌手と女優の両立を成し遂げた奇跡
リレー連載【80年代アイドルの90年代サバイバル】vol.1- 中山美穂
中山美穂は90年代をどうサバイバルしていったか
1980年代にトップアイドルとして活躍した女性シンガーたちが、1990年代に突入しJ-POPの時代をどうサバイバルしていったか。その中で、1985年にデビューした中山美穂が歩んだプロセスは、後継のアイドルたちにとって貴重な参考になったと思われる。
中山美穂は少女モデルを経て、1985年1月よりスタートしたTBS系ドラマ『毎度おさわがせします』で女優デビューを飾り、同年6月21日には「C」で歌手デビューも果たす。そこから80年代いっぱいまで、トップアイドルとして活躍してきたことはご存知の通り。1970年生まれの彼女は、90年代には20代を迎えていた。
この時期、彼女を含めたトップアイドルたちは、一様に大人の歌手や女優、タレントへの変貌が図られ、それぞれに方向性を模索していた。その中で、中山美穂が選んだ1つに、楽曲の方向性の転換、特に自作詞による楽曲を数多く発表するようになったことがある。
中山が初めて自作詞による楽曲を披露したのは、1987年のアルバム『ONE AND ONLY』に収録された「Liberty Girl」で、ここでは “北山瑞穂” のペンネームを用いている。その後、1989年のアルバム『Hiden’ Seek』では本名による作詞、そして作曲作品も2曲収録され、さらに90年代にはシングルのカップリング曲での作詞を経て、1992年に中山美穂&WANDS名義で発表した「世界中の誰よりきっと」では、WANDSの上杉昇との共作による作詞でシングルA面昇格となり、1993年の「あなたになら…」で遂に単独の自作詞がシングルのA面を飾る。
自作詞に挑んでいったトップアイドルたち
80年代のトップアイドルたちの何人かは、1990年前後から、一様に自作詞に挑んでいった。松田聖子を筆頭に、工藤静香、小泉今日子、斉藤由貴、そして中山美穂もこの流れの中にある。試しに自分で書いてみては? と担当ディレクターに勧められて作詞をすることもあるだろうが、アイドルが自作詞に向かうことの大きなメリットは “自分の言葉で自分の思いや歌いたいことを表現できる” という点だ。
基本、アイドルや歌謡曲歌手は “与えられた歌を歌う” という存在であり、歌唱表現や歌の解釈によって自身の個性を打ち出していくのが常である。だが大人になっていく過程で、自身の生き方や恋愛観などを、自己表現によって発信していく必要に迫られてくる。
自作自演者の作品が中心で、そうでなくとも自己表現が重要な要素となるJ-POPの時代に、歌手として活動していくための、ひとつの方法論が自作詞だったことはあるだろう。自分の言葉で歌うことにより、異性から恋心を抱かれるアイドルから、自立した女性として同年代の同性からの共感を得られるようになる。中山美穂もこれによって多くの20代女性から支持される存在になっていった。
中山美穂は “安室奈美恵以前” のユーロビート系歌姫
また、サウンド面で中山美穂の楽曲は、初期からダンスナンバーが中心であった。ことに1985年の「ツイてるねノッてるね」に始まる、松本隆&筒美京平によるユーロビート歌謡路線からこの傾向は強まり、角松敏生を迎えた1987年の「CATCH ME」や、CINDY作曲による1988年の「人魚姫 mermaid」や「Withies」など、ダンサブルなナンバーで他のアイドルシンガーとは一線を画す活躍を見せる。それが頂点に達したのが、井上ヨシマサの作曲による1991年の「Rosa」だろう。ここでも中山自身が “一咲” のペンネームで作詞を手掛けている。
中山美穂は、安室奈美恵が登場する前の、ユーロビート系歌姫の1人でもあった。それと同時に1988年の角松作品「You're My Only Shining Star」で実年齢よりも上の、大人っぽいバラードに挑み、その音楽センスの高さでも注目を集めていた。ダンスビートとバラード、両輪での成功は90年代に入り、彼女のシンガーとしての足元を確立させた。90年代後半、クラブシーンの活況と共に登場する歌姫たちが、いずれもダンスビートとバラードの両軸で活躍したことを思うと、ここにも中山美穂チームの先見の明が感じられる。
ドラマのヒロインとしてさらなる活躍
もう1つは、女優としての活躍だ。デビュー以来一貫して、歌手活動と並行し女優業も続けていた中山だが、1987年のTBS系『ママはアイドル』が高視聴率を記録し、1989年にフジテレビの月9ドラマ『君の瞳に恋してる!』に主演してからは、月9ドラマの常連となり、90年代においてはトレンディドラマのヒロインとしてさらなる大活躍を見せた。
アイドル歌手から女優への本格転向は、イメージやファン層の違いもあり、実はなかなか厳しい道のりである。だが、元々女優と歌手を並行して活動してきた中山にとっては、大きなイメージチェンジも必要とされることなく、20代を迎えた中山美穂は、恋愛ドラマの主人公として存分にその魅力を発揮できる女優に成長していたのだ。
ほぼ年1作のペースで主演ドラマが制作され、そのいずれもが高視聴率を記録。この時期の大輪の花のような存在感は圧倒的で、その魅力は岩井俊二監督による1995年の映画『Love Letter』で大きく開花し、1997年の竹中直人監督『東京日和』も高く評価される。ここで映画女優としてのポジションを確立。女優としてもトップに立った。
主演ドラマで歌手と女優のイメージが一致
また、中山美穂は初期から自身のドラマ主演作の主題歌を自分で歌うことが多かった。90年代に入ってもこの傾向は変わらず、「愛してるっていわない!」はフジテレビ系ドラマ『すてきな片想い』の主題歌。「遠い街のどこかで…」はフジテレビ系月9ドラマ『逢いたいときにあなたはいない…』の主題歌。「世界中の誰よりきっと」はフジテレビ系の水曜劇場枠『誰かが彼女を愛してる』の主題歌となり、それぞれが大ヒットしている。
特に「世界中の誰よりきっと」は180万枚を超えるセールスを記録、1994年には「ただ泣きたくなるの」がTBS系ドラマ『もしも願いが叶うなら』の主題歌となり、こちらもミリオンセラーを記録した。90年代の中山美穂は、80年代よりもセールスを伸ばしたのだ。
ドラマ主題歌を主演俳優が歌うのはよくあるケースだが、アイドル中山美穂が大人のシンガーへと脱却していく過程で、これらの主演ドラマで大人の女性のラブストーリーを演じることにより、歌手と女優のイメージが一致し、同性からの共感を得たことは間違いない。
ここで自作による詞が主題歌となった場合は、更なる効果を発揮してくる。中山美穂本人の言葉で歌われる楽曲が、自身の主演ドラマのテーマになることで、一層イメージの一致が図られる。1992年の「世界中の誰よりきっと」、1994年の「ただ泣きたくなるの」(国分友里恵との共作)の2曲はそうして誕生したヒット曲であった。
女性アイドルで、歌手と女優の両立を長く成功させた例は少ない。どうしてもどちらかに人気の比重が偏り、ニーズも一方に寄ってしまうことが大半だった。ゆえに、歌手と女優の両方かつ同時進行でトップクラスの成功を収めた中山美穂は奇跡的な存在だったのだ。
Original Issue:2024/04/08