西東京市で、田無市の名残を見つける旅
田無。それは西武新宿線沿線に住んでいた私にとって、各駅停車の終点としてなじみ深い地名であった。そんな田無市が、保谷市と合併して西東京市になったのは2001年のことだ。 2024年になり、あれから23年が経った。かつて田無市があったことなど、もう忘れ去られてしまっているかもしれないと思っていた。ところが、先日用があって田無に赴いたところ、あちらこちらに旧田無市の痕跡が残っているではないか。私は史跡を巡るような気持ちで、旧田無市の名残を見つけることにした。
田無駅周辺に多く見られる「田無市」の名残
そもそも田無市はなくなったが、地名としての田無は残っているので、田無市の名残があったとしてもさほど目立たない。「田無」の象徴であるとも言える田無駅周辺に、そうした田無市の名残が多く見られる。
まず田無駅北口を出てすぐの地面には地図が描かれているが、この地図の作成年は1996年、すなわち合併前のものである。
ペデストリアンデッキに設置された記念碑、注意看板も全て「田無市」表記だ。
これは、駅前の商業施設「田無アスタ専門店街」オープン(1995年)をはじめとした田無駅北口の再開発事業が1996年に完成したことが影響していると思われる。
この時期に完成したものが、合併後も残り続けてきたのだ。田無駅一帯が、まるまる田無市の遺構となっているのだった。
田無市、西東京市が混在していることも
駅前を離れて街を歩いてみる。比較的容易に発見できるのがマンホールだ。田無市の木・花として制定されていたケヤキやジンチョウゲがあしらわれたカラーマンホールや、田無市章がデザインされたマンホールはあちらこちらに設置されている。
中には西東京市デザインと混在している地域もあり、楽しい。
この市章は、道界などを示す金属プレートなどにも発見することができる。
古い看板も、近づいてみれば予想通り田無市時代の設置である。
「これは絶対田無市の設置だろう」と思うような看板が、意外にも西東京市のこともあるが。
逆に、綺麗なように見えても田無市の看板であることも多く、その保存状態の良さに感心してしまう。
人類の叡智を感じる田無市の遺構
アパートやマンションの住居表示、団地の看板などにも「田無市」が残る。
田無の名所の一つに、世界最大級のプラネタリウムを備える『多摩六都科学館』があるが、科学館の入り口もやはり「田無市」であった。
これは、合併時にほとんどの町名がそのまま残されたことが影響しているように思う。特に看板を作り替えなくても支障がないからだ。一方、旧田無市の「本町」地域は、西東京市になって「田無町」へと変更された。田無町を歩くと、新旧地名の混在地域も発見できる。
そのような中、もっとも工夫が凝らされた田無市の遺構を団地の入り口で発見した。
旧住所「田無市本町四丁目」の「市本」がテープで隠され、「田無町四丁目」に変えられている。人類の叡智を感じる看板である。
ここまで田無市の名残を探してきた。一方、保谷市の名残はどうなっているのだろうか(次回に続く)。
イラスト・文・写真=オギリマサホ
オギリマサホ
イラストレータ―
1976年東京生まれ。シュールな人物画を中心に雑誌や書籍で活動する。趣味は特に目的を定めない街歩き。著書に『半径3メートルの倫理』(産業編集センター)、『斜め下からカープ論』(文春文庫)。