『忘れられた日本人』――畑中章宏さんが読む、「庶民の『小さな歴史』」を書き記した宮本常一の名著【100分de名著】
宮本常一『忘れられた日本人』を、民俗学者・畑中章宏さんが読み解く
戦前・戦後の日本列島を歩いて膨大な話を聞き、人びとの生活や文化の奥深さを描き出した宮本常一。
NHKテキスト「100分de名著」では、民俗学者の畑中章宏さんが、宮本の書き記した『忘れられた日本人』を読み解き、各地の人びとが育んできた「小さな歴史」をひもといて、いまなお私たちのうちに息づく、日本の文化の基層をたどります。
今回はそのイントロダクションをご紹介します。
名もなき人びとの「小さな歴史」から
日本を見る
民俗学者・宮本常一(一九〇七〜八一)の『忘れられた日本人』(一九六〇年)が岩波文庫に収録されたのは、奥付によれば一九八四年五月のこと。その文庫で私が初めてこの本を読んだのは、それから間もない頃だったと記憶しています。
神社仏閣めぐりが好きで、また『遠野物語』をはじめ、柳田国男(やなぎた・くにお)の世界観にも強い興味と関心を持つ若者だった私は、大学生になると、自宅のある大阪から東北や北海道へ、一人旅をするようになりました。柳田民俗学、とりわけ『雪国の春』に収められた紀行文などを読んで東北に憧れ、その足跡を辿る旅を繰り返していました。
大学四年の頃だったでしょうか、『忘れられた日本人』を初めて読んだとき、宮本常一の旅の仕方は、『雪国の春』に見られる柳田国男のそれとは、明らかに違うと感じました。
柳田は、電車や汽車を使い、旅先の風物・風光を、自らの知見をもとに学者の目で見て記録する、そんな「知的な旅行」を感じさせます。
一方、宮本の旅はまるで違います。三十二歳年上の柳田の時代より交通網は発達しているはずなのに、リュックを背負い、ゲートルを巻き、ズックの靴を履いて歩きながら、地域の人の話を聞き、そこに生活する人びとの慣習やリアルな営みに迫る。のちに出版する雑誌「あるくみるきく」の名の通り、歩いて見て聞き、生きた「生活そのもの」を記録するのです。
民俗学者は基本的によく歩きますが、民間伝承や民間信仰、祭りなどの風物から、私たち日本人の「心」を探ろうとした柳田国男や折口信夫(おりくち・しのぶ)と、宮本の歩き方は異なります。宮本は目に見えない「心」ではなく、目に見える「もの」を民俗学の入り口にしました。例えば生産活動などに用いられてきた“民具”を調べることで、私たちの生活史を辿ることができると考えたのです。そこから私たちの「心」にも到達できると考えました。
当初、柳田民俗学に惹かれていた私が、アカデミックな視点からは「傍流」とされる宮本の「歩く・見る・聞く民俗学」に魅せられていったのはなぜか。宮本が唱え、実践した、オルタナティブな民俗学の重要性に改めて私が気づいたのは、二〇一一年の東日本大震災以降のことでした。
震災直後、私は柳田国男の『雪国の春』に収められた「豆手帖(まめてちょう)から」のなかの一編、「二十五箇年後」を再読しました。明治の三陸大津波(一八九六年)から四半世紀後に、宮城県にある唐桑半島の宿浦を訪ねた柳田は、東日本大震災の津波後の復興でも大きなテーマになった住民の高台移転や、漁業の存続の問題について既に書いています。そして死者の霊魂の問題について非常に深く考えている。このとき、私を含め多くの人たちが柳田民俗学の霊魂観に改めて着目していました。
一方でこの震災は、福島第一原子力発電所の事故という未曽有の災害を引き起こしました。そこで知識人たちは、人類史や文明史といった、「大きな歴史」のなかでこの事態を捉えようとしました。そうした論評は、いまも絶えることがありません。
しかし、こういうときこそ「小さな歴史」が重要なのではないか、と私は思いました。「大きな歴史」にからめとられずに、小さな集落の多様性や、個々の人生の機微を見つめ、普通の人びとが各地でどのような生活を営み、過去にどのような人生を送ってきたかを考えなければいけないのではないか。震災は広範囲にわたり、被災地域ごとにその様相も異なるし、被害と向き合う人びとの感情も、一括りにはできないような事態だと考えたからです。
そこで、地域に個別のディテール、そこに暮らした歴史に名を残すことなく消えていった庶民の生活史に改めて目を向けようと、『忘れられた日本人』をはじめとする宮本の著作を読み直していきました。
すると、人類や文明が進歩し、発展していくその陰で、後退したり、停滞したり、忘れられようとしている大切なものが見えてくる。また、小さな成功と失敗の繰り返しのなかで、ものごとは徐々に変化していくということもわかってきます。それは、地域の風土のなかに身を置き、慣わしのなかで生きてきた人びとの心のありように共感しながら、同じ速度で歩いた宮本だからこそ、記録し得たのだと思います。
能登半島地震のような大変な災害がまたしても起きてしまったいま、被災した集落の復興を考えるには、被災地に暮らす人たちの多様性や生活の細部といった「小さな歴史」から考える必要があるのではないでしょうか。
民俗学は、「日本とはなにか」「日本人とはなにものか」を探求しつつも、それを単一に語ることは決してできないことを、調査と研究から証明してきました。
例えば、日本人は米を主に食べる稲作中心の民族だと言っても、一方で魚を食べる海洋民族でもある。つまり農業を生業とする人も、漁業を生業とする人もいて、前者が定住民なら、後者は各地の港を移動する海民です。しかも半農半漁の人たちもいれば、山林で林業に携わる人たちもいる。また各地を遍歴しながら生業を営む人たちも少なくありませんでした。日本列島は南北、東西にも広く、地勢的にも気候的にも地域の差異が大きくて、そこで育まれた文化にも地域差がある。
宮本常一は、そんな列島の隅々までを歩き、地域と民衆の個別性・多様性をつぶさに探りました。しかもその成果を堅苦しい報告書や論文ではなく、難しい用語を使わない親しみやすい形式で著しました。
『忘れられた日本人』は、時に私たちの常識をも覆すような「生活誌」の宝庫です。そこには、閉じた「共同体の民俗学」から、開かれた「公共性の民俗学」へという宮本の意志と思想が潜在しています。
そんな宮本が描き出した、名もなき人びとの「小さな歴史」を見ていきましょう。
「100分de名著 宮本常一『忘れられた日本人』」では、第1回「もうひとるの民俗学」、第2回「伝統社会に秘められた知恵」、第3回「無名の人が語りだす」、第4回「『世間師』の思想」という全4回を通して、「歩く・見る・聞く」民俗学を実践した宮本常一の『忘れられた日本人』を読み解きます。
講師
畑中章宏(はたなか・あきひろ)
民俗学者
一九六二年大阪府生まれ。近畿大学法学部卒業。災害伝承、民間信仰から流行現象まで幅広い領域に取り組む。著書に『柳田国男と今和次郎』『「日本残酷物語」を読む』(平凡社新書)、『災害と妖怪』『津波と観音』(亜紀書房)、『21世紀の民俗学』(KADOKAWA)、『天災と日本人』『廃仏毀釈』(ちくま新書)、『五輪と万博』『医療民俗学序説』(春秋社)、『宮本常一』(講談社現代新書)など多数。※刊行時の情報です
◆「NHK100分de名著 宮本常一『忘れられた日本人』 2024年6月」より
◆脚注、図版、写真、ルビなどは記事から割愛しています。