太陽のテノール、ルチアーノ・パヴァロッティ
イタリアのオペラ歌手、ルチアーノ・パヴァロッティは、2006年の冬季オリンピックで最後の公演を行うまでに、オペラを大衆に広める以上のことを成し遂げた。彼はクラシック音楽に人間の顔を与えたのだ。
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オーケストラピットを揺らすビブラート、神に祝福された声帯、心の奥底に響くテノール……。難解なクラシック音楽への扉を万人に開いたルチアーノ・パヴァロッティへの賛辞は枚挙に暇がない。
2007年9月6日、パヴァロッティが膵臓がんで亡くなったとき、各界の有名人から送られたメッセージは次のようなものであった。
ソプラノ歌手のカーティア・リッチャレッリは、彼のことを「プラチナの声」と呼んだ。かつてのライバル、プラシド・ドミンゴは「紛れもない音色と完璧な声域を持つ神々しい声」と讃えた。アメリカの指揮者でピアニストの故ジェイムズ・レヴァインは、「彼の歌はオペラを知っている、知らないにかかわらず、聴く者に自然と直接的に訴えかける」と回想した。
パヴァロッティはオペラ歌手であると同時に人間としても愛されていた。欧州委員会委員長のジョゼ・マヌエル・バローゾは、「彼は気さくで社会的コミットメントに溢れていた」と評した。
エルトン・ジョン、セリーヌ・ディオン、ブライアン・アダムスと並んで、パヴァロッティとコラボを果たしたU2のボノは「炎を吐く火山のような歌声。人生への愛に満ち満ちていた」と表現した。盟友のテノール歌手、ホセ・カレーラスは、「彼は素晴らしい男で、カリスマだった。そしてポーカーの名手でもあった」と懐かしんだ。
故人を惜しむ数々の弔辞は、聞く者にヴェルディのフォルティッシモのような感動を呼び起こした。ルチアーノ・パヴァロッティの堂々たる外見の下に隠された温かさと慈悲深さは、彼の子供時代の境遇によるものかもしれない。1935年、ルチアーノはパン職人の父と葉巻工場で働く母の間に生まれた。父はアマチュアのテノール歌手であり、ふたりとも歌の素養を持っていた。
家族は、第二次世界大戦によって生まれ故郷のモデナを追われ、田舎のふた部屋しかないアパートで暮らしていた。ルチアーノの世話をしていたのは主に祖母だった。9歳の頃には、地元の小さな教会の聖歌隊で父親と一緒に歌い始めた。12歳のとき、破傷風にかかり、1週間の昏睡状態に陥った。死と隣り合わせの状態から目覚めたとき、彼は神によって生かされたと感謝し、ある誓いを立てた。
「人生を楽しもう。太陽も、空も、木々も、すべてを楽しんで生きていこう」
ラ・リリカ(イタリア語でオペラの意)は、戦後の労働者階級のイタリア人にとって、辛い人生を忘れさせてくれる、ひとときの慰めにして最大のエンターテインメントだった。パヴァロッティのアイドルは、ハリウッドスターのテノール、マリオ・ランツァだった。
「十代の頃は、彼の映画を観に行っては、家に帰って鏡に向かって彼の真似をしていました」と彼は語ったことがある。
パヴァロッティは音楽だけでなくサッカーにものめり込んでいた。一時はプロのゴールキーパーを志したが、母親の説得で教師となり、小学校で2年間教鞭をとった。しかし、音楽への思いは断ち難く、最終的に声楽の道に進むことを決めた。
1954年、パヴァロッティは19歳でモデナのプロ・テノール歌手アリゴ・ポーラのもとで本格的な音楽の勉強を始めた。彼の才能を見抜いたポーラが、無償でレッスンを提供してくれたのだ。
1955年、ウェールズで開催された国際コンテストで1位を獲得し、パヴァロッティは初めて歌で成功を収めた。後に彼は、これが人生で最も重要な経験であり、プロの歌手になるきっかけになったと語っている。
しかしここで、二度目の疾患が、若き日のパヴァロッティを襲った。今度は声帯に結節ができてしまったのだ。コンサートは「悲惨な」ものになった。彼は歌手としてのキャリアをあきらめざるを得なくなった。しかしこの決断がパヴァロッティを重荷から解き放ち、精神的なゆとりをもたらした。幸い病状は改善し、結節は消えた。自伝『マイ・オウン・ストーリー』の中で彼はこう語っている。
「私が学んだすべてのことが一緒になって、自然と声として出てくるようになった」
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輝かしいキャリアは、1968年のニューヨークのメトロポリタン歌劇場を皮切りにして始まった。プッチーニの『ラ・ボエーム』で、ニューヨーク・タイムズ紙の批評家ピーター・G・デイヴィスが、「彼の声の自然な美しさ」に驚嘆し、「明るく、開放的で、高音部に金属的なピンとした響きがあり、中音域では温かくなって均一で艶やかな輝きを放つ」と絶賛したのだ。
そして、人生のラストを飾ったのは2006年トリノ冬季オリンピックへの出演だった。これは厳密には生演奏ではなかった。彼はこのときすでに病んでおり、氷点下の屋外で歌える状態ではなかった。彼のアリアは事前に録音されたものだったのだ。しかし、この「口パク」に気づくものは誰もいなかった。
このふたつの出来事の間には、数々のマイルストーンがあった。クラシック音楽ファンなら、1972年にニューヨークのメトロポリタン歌劇場でドニゼッティの『連隊の娘』を上演した際、約1分の間に9つのハイC(「二点ハ」音)を叩き出した瞬間を挙げるに違いない。
テノールのエベレストと恐れられるアリアの一節を完璧に歌ってのけたことで、彼は観客を熱狂させ、記録的な17回のカーテンコールを受けた。これ以降、彼は「キング・オブ・ハイC」という異名で呼ばれるようになった。
1990年には、スペイン人のプラシド・ドミンゴ、ホセ・カレーラスと「三大テノール」を結成し、その後世界中をツアーして回った。世界54カ国で8億人が視聴し、演奏会のCDやビデオは1カ月の間に数百万枚を売り上げ、その記録はプレスリーやローリング・ストーンズを上回った(日本での人気も高く、来日した彼らは国立競技場で美空ひばりの「川の流れのように」を肩を組んで歌い、JALのビジネスクラスCMにまで出演した)。
クラシック音楽の枠を超えた幅広い活動も展開した。「パヴァロッティ&フレンズ」と銘打たれたプロジェクトでは、スティング、ボブ・ゲルドフ、シェリル・クロウ、エリック・クラプトン、スティーヴィー・ワンダー、ボン・ジョヴィ、スパイス・ガールズ、ジョージ・マイケルなど、ポピュラー音楽界の大物たちとの共演を果たした。
1991年の夏、ロンドンのハイドパークで野外コンサートが行われ、15万人ものファンが集まった。その中には故ダイアナ妃も含まれていた。当日はあいにくの土砂降りとなった。妃は後ろの席の人たちに配慮して自ら傘を閉じ、ボディガードが制するのも聞かず、びしょ濡れになってコンサートを楽しんだ。その後ふたりは親友となった。
英国の読者にとって印象深いのは、プッチーニの「トゥーランドット」、最終幕のアリア「ネッスンドルマ」であろう。この曲はBBCによって、1990年のワールドカップ・イタリア大会のテーマ曲として採用され、試合の合間に何度も放映された(そして、またしてもぎりぎりのところで勝利を逃した、苦い思い出とともに永遠に記憶されることになった)。
パヴァロッティは生涯で1億枚のアルバムを売り上げ、5度のグラミー賞を受賞する大スターへと上り詰めた。一度でもその声を聞けば、誰をも虜にする天性の才能を持っていた。しかし、その底抜けに明るい笑顔とは裏腹に、難しいところがある人でもあった。英国のバリトン歌手、トーマス・アレンはこう回想している。
「コヴェント・ガーデンで『ラ・ボエーム』を上演したとき、リハーサルをすっぽかした彼は、衣装合わせの直前に姿を現した。彼はかなり太っていた。自分の衣装を着て、舞台のあちこちをうろうろと歩き回り、演技の途中でサンドイッチを作って食べたりしていた。しかし突然、聞いたこともないようなハイCを歌いだした。だからもちろん、私たちは彼のすべてを許さざるを得なかった」
ニューヨークでのマネージャー、ハーバート・ブレスリンは、陰険な回想録の中でこう記している。
「ルチアーノは難しい楽譜を読むことができなかった。出番や芝居のタイミングをはかること、音楽家としての技術的なことに関しては、彼には多くの問題があった」
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パヴァロッティはプロの音楽家としては数々の問題を抱えていたことは否めない。しかし、派手なシルクのスカーフと巨大なフェドラ帽に縁取られた笑顔は、いつも1000キロワットの輝きを放っていた。明るい逸話にも事欠かない。例えば、満員の客席に向かって、パンツ一丁でカーテンコールを受けたことがある。また、舞台上の椅子を鉄棒で補強しなければならなかったという話もある(パヴァロッティの最高体重は150kgもあった。ツアーには大量のモデナ産トルテリーニ、パルメジャーノ、プロシュートを持参していた)。
アメリカン・エキスプレス・カードのテレビCMでは、星条旗の衣装をまとい馬に乗ってパレードを先導し、カーター大統領とハグをする映像の後に、カメラの前でこうつぶやいた。
「街では人々が私のことを知っている。しかし、家にいるときの私は何者でもない。ゼロの存在だよ」(何者でもなくても、アメックスさえ持っていれば安心というわけだ)。
ロマンス・コメディの大失敗作『イエス、ジョルジョ』(1982年)では、性的欲求を抑えられないイタリア人男性の役をコミカルに演じ、こき下ろされた。彼は自伝の中でこの映画への出演を「人生最大の失敗だった」と語っている。
バイアグラの効能について記者団にこんな冗談を言ったこともある。
「セックスはいつでもいいものだよ。女の子が求めてきたら、ショーの前だろうが、後だろうが関係ないだろう」
そしてU2のボノの自宅にしょっちゅう電話をかけては、1990年代のボスニア戦争で被害を受けた子供たちのために曲を書くよう求めた(これはU2とブライアン・イーノとの共作『ミス・サラエボ』として結実し、パヴァロッティはボノと共演を果たした)。
音楽のプロフェッショナルのなかには、パヴァロッティの能天気で無責任な一面に、顔をしかめる人たちもいた。シカゴ・リリック・オペラでは41回の公演のうち、実に26回もキャンセルがあったために支配人が激怒し、彼は劇場へ永久に出入り禁止となった。
アカデミー監督・作品賞を受賞したこともある名匠ロン・ハワードによるドキュメンタリー映画『パヴァロッティ 太陽のテノール』(2019年)では、1961年から2000年までパヴァロッティの妻であったアドゥア・ヴェローニが彼の思い出を語っている。
パヴァロッティが不倫関係に陥った、彼より34歳年下のニコレッタ・マントヴァーニも登場し、許されざる関係がバレて、世間から冷たくされたつらい時期のことを述べている。
実の娘たちも出演しており、父親に対する複雑な思いを吐露している。膵臓がんに侵された彼自身もカメラの前に姿を晒し、家族に心配をかけたことを後悔していると告白している。
パヴァロッティは複雑な男である。言葉だけでは、彼の本当の人物像を浮かび上がらせることはできない。「マエストロ」、「イル・ディーヴォ」、「パヴロヴァ」、「キング・オブ・ハイC」など、彼の愛称は数あれど、それ以上のものではない。
間違いなく、現代オペラの最高峰であった彼の本質をとらえようとすれば、ネッスンドルマの最も有名な台詞であり、彼のキャッチフレーズであるひと言が最もふさわしいかもしれない。
「ヴィンチェロ! ヴィンチェロ!(私は勝利する!)」