【クトゥルフ神話の生みの親】ラヴクラフトとは ~世界的人気小説家の不遇の生涯
皆さんは「クトゥルフ神話」をご存じだろうか。
世界ではローマ神話、ギリシア神話、北欧神話、日本神話など、様々な神話がまことしやかに語り継がれているが、クトゥルフ神話はそれらの歴史的な神話とは一線を画す存在だ。
数多の神話たちの発祥は数千年前に遡るが、クトゥルフ神話が生み出されたのは20世紀に入ってからだ。つまりクトゥルフ神話とは、近代の人物が創作したフィクションなのである。
このクトゥルフ神話の生みの親こそが、アメリカの作家であるハワード・フィリップス・ラヴクラフトだ。
今や世界中にその名が知られ、小説に限らず漫画やゲームなど多くの創作作品に影響を与えているクトゥルフ神話だが、その作者であるラヴクラフトが、不遇の人生を送っていた事実はあまり知られていない。
今回はクトゥルフ神話の世界観と、その創造主である作家H・P・ラヴクラフトの生涯に触れていきたい。
クトゥルフ神話の概要
クトゥルフ神話とは、アメリカの大衆雑誌に掲載された小説の設定をもとに生み出された架空の神話であり、一部では「アメリカ神話」とも呼ばれている。
設定上、この世に存在する多くの神話はクトゥルフ神話の派生であるということになっており、クトゥルフ神話の世界観を描いた作品では、太古の地球を支配していた旧支配者と呼ばれる異形の怪物たちが、現代に蘇ることが共通のテーマとなっている。
クトゥルフ神話の「クトゥルフ」とは、ラヴクラフトの小説『クトゥルフの呼び声(The Call of Cthulhu)』の「Cthulhu」を便宜上の発音で表現したもので、本来は人間には発音不能な音であり、クトゥルフ神話以外にクトゥルー神話、クルウルウ神話などとも呼ばれる。
クトゥルフ神話の世界観や登場するキャラクターは、創始者ラヴクラフトが提唱した「宇宙的恐怖」を表現する過程で生み出された。
ラヴクラフトによって創作された邪神たちの物語を、作家仲間が神話として体系化し、さらにはラヴクラフトが遺した設定メモをもとに、新たな作品を書き上げて共著として発表することにより、1つの共通世界として発展したのだ。
クトゥルフ神話やラヴクラフトが、後に続く作家たちに与えた影響は大きい。
日本では怪奇小説家の江戸川乱歩や西尾正、漫画家の水木しげるも、ラヴクラフトの影響を受けたと言われている。
しかし、作家としてこの上ない成功を手に入れたと思われるラヴクラフトの人生は、決して恵まれたものではなかった。
作家として大きく評価されるようになったのは、彼の死後のことであったからだ。
ラヴクラフトの生い立ち
ここからは、ラヴクラフトの生涯について触れていこう。
H・P・ラヴクラフトは、1890年8月20日にロードアイランド州プロヴィデンスで生まれたアメリカ人だ。
兄弟はおらず、父は老舗銀食器メーカーのやり手営業マンで、母は名家の子女だった。
幼き日のラヴクラフトは文学を愛する早熟かつ想像力豊かな少年で、グリム童話やギリシア神話、SF小説を読んでは夜ごと悪夢にうなされていたという。
ラヴクラフトが8歳になる直前に、5年ほど前から神経症を発症して精神病院に入院していた父が、衰弱死してしまう。
母方の祖父の屋敷に引き取られたラヴクラフトは、ちょうどその頃にエドガー・アラン・ポーの作品と出会い、大きな影響を受けた。
3歳の頃から祖父と文通を行い、6歳の頃には自分自身で物語を執筆していたラヴクラフトは、10代で科学に興味を抱くようになり、16歳の頃から科学雑誌『サイエンティフィック・アメリカン』に、天文学関連の投書やコラムを寄稿し始める。
しかし、亡き父と同様に神経症をこじらせていた上に、最大の理解者かつ支援者だった祖父を亡くし、ハイスクールを退学せざるを得なくなる。
18歳頃には、趣味であった小説執筆もやめてしまった。
ハイスクール退学後は大学進学にも失敗し、引きこもり生活を送っていた24歳の頃、ラヴクラフトの生活に変化が起きた。アマチュア文芸家の集まりに参加したことがきっかけで、小説執筆への意欲を取り戻したのだ。
25歳の頃には文章添削の仕事を始め、翌年には文通グループを結成して多くの人々と交流を持つようになり、短編小説も発表した。
しかし、1917年に行われた徴兵検査で不合格となって大きな劣等感を抱くようになり、その翌年に父や、自分と同じく神経症を患い入院した最愛の母を、手術による合併症で1921年に亡くしてしまった。
文章添削の仕事の傍らで創作活動を続ける
創作を再開してからも、ラヴクラフトは文章添削の仕事を本業とし、趣味かつ副業として小説や詩の執筆をしていた。
雑誌に初めて小説が採用されたのは、創作活動を再開してから約6年後の1922年、ラヴクラフトが32歳になる年だった。
ラヴクラフトは生涯、自身の創作能力に自信が持てず、積極的な創作活動は行わなかった。また、雑誌に作品を寄稿して不採用になるとひどく落ち込んでしまう性格がゆえに、存命中は発表しなかった傑作もある。
本業である文章添削の仕事も、当初はボランティアとして、報酬を得るようになってからも非常に低い料金で引き受けていた。
しかし、ラヴクラフトの添削における新しいアイデアの提案や、原文の形が残らぬほど書き換えてしまうスタイルは後進育成の役割を果たし、多くの作家に影響を与え、後にクトゥルフ神話が発展していく理由の1つともなった。
私生活では、1921年に出会った10歳年上のソニア・グリーンという子持ちの女性と約3年間の交際を経て結婚し、故郷のプロヴィデンスを離れニューヨークのブルックリンに移り住んだが、ソニアの失業をきっかけに別居するようになり、その後離婚している。
1926年にニューヨークから単身プロヴィデンスに帰ったラヴクラフトは、引き続き低い報酬で文章添削の仕事を引き受けながら、1年に1作程度というペースで小説の執筆活動を続けた。
雑誌に掲載された作品自体は人気があったものの、貧しさに対していささか鈍い所があったため、原稿料の交渉を行うこともほとんどなく、常に貧しい生活を送っていた。
そして1936年、小腸癌を患っていることが発覚し、その翌年の3月15日には46歳の若さで死去した。その亡骸は両親が眠る墓所に埋葬された。
ラヴクラフトの死から41年が経った1977年、当初、彼個人の墓碑がなかった墓所に、ファンの手によってラヴクラフトの墓碑が建立された。
墓碑にはラヴクラフトの名前と生没年に加え、彼自身の書簡から引用された「I am Providence」という文言が刻まれた。
ラヴクラフトの墓には今も多くのファンが訪れ、『クトゥルフの呼び声』から引用された四行連句を書きこんでいくのだという。
That is not dead which can eternal lie And with strange aeons even death may die.
(其は永久に横たわる死者にあらねど 測り知れざる永劫のもとに死を超ゆるもの)
クトゥルフ神話は、本物の神話になり得るか
画像:『未知なるカダスを夢に求めて』の原稿1ページ目 public domain
古代から語り継がれている神話も真偽は不明としても、人間が生み出した物語であることには違いない。
今は創作物として認識されているクトゥルフ神話だが、今後数千年に渡って人類の歴史が続けば、いずれは本当の神話になる可能性もあるだろう。
人生の半分以上の期間を神経症に悩まされたラヴクラフトが生み出した「名状しがたき恐怖」は、創造主であるラヴクラフト本人の意図を超越して、人間の根源的な部分に訴えかける圧力を持っている。
国境を越えて人々を恐怖させ、魅了するクトゥルフ神話の世界に触れてみてはいかがだろうか。
参考文献
ミシェル・ウエルベック (著) スティーヴン・キング (著) 星埜守之 (翻訳)
『H・P・ラヴクラフト:世界と人生に抗って』
森瀬繚 (著)『図解 クトゥルフ神話 F‐Files』
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