【音無井路十二号分水】大分むぎ焼酎のCMにも採用された竹田市にある円筒分水
みなさん、「円筒分水(えんとうぶんすい)」、または「円形分水」とも呼ばれる利水施設をご存知ですか?
「円筒分水」とは、農業用水などを一定の割合で正確に分配するために用いられるもので、全国に100基以上が確認されており、大分県にも宇佐市に4基、竹田市と豊後大野市に1基ずつ計6基の円筒分水が存在しています。
今回はその中から、2011年に神奈川県川崎市で行われた第一回全国円筒分水サミットでも"全国の特徴的な取り組みがある円筒分水"として取り上げられた竹田市の『音無(おとなし)井路十二号分水』についてご紹介します。
アクセス
大分駅からは国道57号を経由し車でおよそ1時間30分。
奥豊後グリーンロードから右折し、県道695号に入ります。
県道695号を1.2kmほど進み左折します。
その後も順路の分かりにくい場所には看板が立っていますので、それに従って進んでください。
1.5kmほど進むと丁字路に出ます。
案内標識に「円形分水」という文字と絵が書いてあります。
丁字路から程近い、トンネルの手前に『音無(おとなし)井路十二号分水』はあります。
車は道路を挟んで向かいの駐車場に停めてください。
円形分水までは駐車場から歩いて数mほどですが、少し道が悪いので転落や転倒にはお気を付けください。
円筒分水の歴史
紀元前から稲作を行ってきた日本では、古来から灌漑用水の確保が非常に重要視されており、それによる水争いも絶えませんでした。
『円筒分水』はその貴重な用水を公平に分けるため、農商務省の技師であった可知貫一氏が発明し大正3年に岐阜県で第一号が完成したと言われています。
誰が見ても公平さが実感できる分水工はその後、昭和にかけて全国各地で造られるようになりました。
『音無井路十二号分水』について
『音無井路十二号分水』のある地域も、土地が阿蘇火砕流の堆積物で構成されており用水の確保に長らく悩まされてきたそうです。
音無井路も同地域の潅漑のために、新たに土地を切り開いて水路を設け通水させた疎水の1つで、1715年に工事に着手されました。
しかし完成目前になって洪水で施設が損傷したため建設は中止され、その後幾度かの建設計画が持ち上がったものの計画は断念されたといわれています。
現在の音無井路十二号分水の地点まで通水し音無井路が完成したのは、建設が中止されてから200年近く経った1892年。
それからしばらくして、音無井路への用水の供給が減少し地域の住民の間で紛争が生じたことから、現在の音無井路十二号分水が竣工されました。
名称の由来
『十二号分水』という名称の由来は、音無井路土地改良区の看板によると「水を農業用水路に導き入れる取水口から円筒分水までの地下に埋設した水路に12箇所の土砂の排出口が設けられたこと」から来ているのだと言います。
一方で、竹田市歴史的風致維持向上計画書には側面の窓が建設当初は12個であったことが名称の由来とも書かれています。
ですが日本文理大学工学部建築学科環境・地域創生コースの池畑義人教授が書いた「大分県の円筒分水工」によると、"音無井路十二号分水の改修前の写真を確認したところ、窓の数は現在と同じ20個であった。"と記されており真相は藪の中です。
構造
水を必要とする地域の全体水量を流す事ができる幹線水路の用水が、中にある円筒の底部から湧出し溢れ出てきます。
円筒の中央から湧出する水が、その外側に設けられた円筒に均等に設けられた20個の四角形の小窓によって分水され、最外周に三分して設けられた分水枡に貯められた後に3つの幹線水路に注ぎ込むようになっていいます。
『音無井路十二号分水』を上から見ると、まるで中央から水が湧いているかのように見えますよね。
ちなみに20個の小窓は、3つの水路に割り当てられた水量に比例して、それぞれの水路に5個、8個、7個が割り振られているそうです。
『音無井路十二号分水』の周囲
『音無井路十二号分水』は、隣に水田があります。
こちらでは、毎年地域の方々と地元の小学生による田植えが行われているそうですよ。
また周囲には4基の石碑も建てられています。
その中の一つには、「水魂」と刻まれたものも。
下には「水は農家の魂なり」という言葉が添えられていました。
日本の近代土木遺産に指定され、2006年には大分むぎ焼酎「二階堂」のコマーシャルにも起用された『音無井路十二号分水』。
竹田市を訪れた際は、地域の水争いを解決し、今なお自然豊かな環境で地元の人たちに大切に利用され続ける円筒分水にも足を運んでみてはいかがでしょうか。