「大好き」という感情が後押しする、五木村「日添」土屋望生の地域づくりの本気
村の面積は約250平方キロメートル。その96%が山林で、わずかな平地に集落が点在し、まさに肩を寄せ合って村人が暮らしている。近所のコンビニまでは、車で約40分。「ちょっとコンビニ行ってくる」と家人が出かけたら、1時間半は帰ってこない。村を出るまで信号は1基もなく、夜のドライブで車を止めるのは、たまに現れる野生の鹿。そんな村、熊本県球磨郡五木村が、株式会社日添の土屋望生さんのふるさとであり、現在の活動拠点だ。
〈▲ 撮影:山口亜希子(Y/studio)〉
土屋さんの活動について説明しようとすると言葉に詰まる。この人は、〇〇をする人です、とはっきり伝える適切な肩書きが見当たらないのだ。土屋さん自身もそのようで「私って何をしている人なんですかね」の言葉には、謙遜でも何でもない、役割に境界線を引かず、できることを尽くしてきた証でもある。
「地域づくりの文脈で仕事をしているとよく聞かれることがあるんですよね。土屋さんって、五木村が好きなんですか、と。正直な話、五木村は好きでも嫌いでもない、普通です(笑)。土地が好きなのではなく、私は五木村にいる人たちが大好きなんです。もし何らかの天変地異があって五木村の人たちが別の場所に引っ越すことになったら、私は迷わずそこについていく。それが活動の原動力になっていることははっきりしています」
インタビュー中に、土屋さんは何度も、何度も「大好き」という言葉を発していた。向けられているのはモノや場所ではなく、いつも人。そう、土屋さんのことをもし一言で伝えるならば、「大好きな人たちがしあわせになるために行動する人」なのだろう。
PROFILE
土屋望生
つちや・のぞみ/株式会社日添 取締役。1993年熊本県球磨郡五木村生まれ。小さい頃から地域の人の生活の術や技を吸収しながら、すくすくと、逞しく、地域の人から育てられてきた。大学時代、一般社団法人フミダスの活動に参画。その活動を通して、熊本の起業家と接し、刺激を受け、出身地である五木村のために働きたいと思うように。2015年に修行先としてNPO法人ETIC.に就職。地域活性事業の事務局、インターンシップなどのコーディネート業務を経験し、「3年で修行を終えて、五木村に帰る」との宣言通り、2018年に五木村にUターンで帰り、株式会社日添を立ち上げた。
リスクを自らに課すことで、運命共同体になる
2018年に立ち上げた株式会社日添は、熊本県球磨郡五木村を活動拠点とする地域づくりを支援する事業を展開している。土屋さんはそこで、五木村の事業者や行政、教育機関との連携など、地域コーディネーターとして多方面に関わってきた。
設立から7年。現在では日添を含め、3つの法人組織と1つの任意団体の運営に携わっている。会社設立当初に掲げていたのは「五木村の生産年齢人口の年収60万円アップ」と「村民一人ひとりがひとつ以上の楽しみを持つ」という2つの目標だった。
〈▲ 撮影:山口亜希子(Y/studio)〉
土屋さんがこの2つのことを目標に掲げたのには理由がある。
それは、【「稼ぎ」と「楽しみ」があれば、人はそのまちに住み続ける】という仮説の存在。
都会をめざす人の心情としては、「田舎よりも何となく稼げそう」「大企業に就職した方が安定しそう」と、どこか確証のない、ふんわりとしたイメージが根底にある。であれば、この「稼ぎ」を担保できるような状態を五木村につくることで、住み続けたいという人が増えるのではないか。その仮説を検証するために、すべての事業に取り組んでいるという。
「年収60万円アップの根拠は、当時の熊本県合志市の生産年齢人口の年収を参考にしました。人口の規模も、市域にある企業の数も違いますが、自然豊かなちょうどいい田舎で、昔から根付いている住民も多い。ただ、今の合志市は半導体製造の拠点になって栄えてきているので、掲げている目標もそろそろ更新しないといけないなぁ、と思っているところです」
「稼ぎ」と「楽しみ」を事業の目標を掲げたからには、自らがそれを実践しないわけにはいけない。日添の立ち上げと同時に、村内の事務所とする建物の1階に「カフェみなもと」をオープン。使われていなかった古民家を学生や地域の人々とほぼ手づくりでリノベーションし、愛着のある場をつくった。
〈▲ 「カフェみなもと」は2025年8月現在は休業中。この場を活用してくれるオーナーを募集している。 撮影:山口亜希子(Y/studio)〉
五木村で「稼ぎ」を生み出すカフェを運営することで、自らが経営者として苦しみ、利益を生み出すために知恵を絞る。あえて自分たちにリスクを課したのは、その経験こそが本気で事業に取り組む証になると考えたからだ。
「地域づくりは、村の事業者さんと一緒に取り組むこと。だからこそ、自らが商売をして、苦しむ経験をすることが大事なんじゃないかと。運命共同体になることが、信頼を得ることになると思いました」
土屋さんにとって五木村は、生まれてから中学校卒業まで暮らしていたふるさとである。五木村で生まれ育った子どもたちはほとんど、中学校卒業と同時に村外に出て、進学でも就職でも別の地域で暮らすことになる。土屋さんも例にもれず、中学卒業後に五木村を出て、高校、大学、仕事先も村外で過ごした。
日添を立ち上げるため五木村に帰ってくるまで10年間のブランクがある。村の人たちにとっては、「土屋さんのとこの娘ののんちゃん」が、五木村で事業を展開する経営者として帰ってきたわけだ。周囲も「あの、のんちゃんが村に帰ってきた!」と「これから村で何をやるんだ」という複雑な気持ちが混じりあい、戸惑いの目を向けていたに違いなかった。
〈▲ 撮影:山口亜希子(Y/studio)〉
劣等感が突き動かした「何かやらなきゃ」
「なぜ、まちづくりに?」「なぜ、五木村?」「どんな活動を?」。そんな問いを幾度となく投げかけられてきたであろう土屋さん。その原点は、大学時代のある経験にあった。
「まず大学受験が思い通りにいかなかったこと。あのときの劣等感が私の行動の原点にあります。いい大学に進学した同級生を横目に、何かやらなきゃ、という焦りがあったんですね。不本意ながら進学することになった大学は、地域に根ざした活動が多く、フィールドワークも盛んだった。でも、当時の私は地域活性化などに全く興味がなかったんです。だからこそ、大学の外に活路を求めたんですね」
もっとも、外に活路を求めていたとはいえ、明確な目標があったわけではなく、「何かしなきゃ」という衝動だけが先走っていた。そんな折に出会ったのが、熊本で実践型インターンシップを展開していた一般社団法人フミダス(当時は企業の一事業として運営)だった。
〈▲ 「あなたの学生生活 本当に、それでいいの?」と書かれたポスターの前でプレゼンをする学生時代の土屋さん 提供:土屋望生〉
「大学1年生のとき、フミダスの学生向けイベントを手伝ったことがあったんです。そのお礼にと食事会に誘われて行ってみたら、実は次の事業展開のミーティングで(笑)。そこで学生スタッフとして参加しないかと誘われて。食事をごちそうになった手前、断りきれずに『やります』と答えてしまった。それが、私の人生を狂わせた瞬間でしたね」
1年後、フミダスは社団法人として独立。土屋さんは事業立ち上げから関わる学生スタッフとなり、熊本県内の起業家たちと出会った。強い意思とぶれない軸を持つ起業家らの姿に憧れつつも、「自分とは別世界の人たち」と、どこか距離を感じてもいた。
大学3年生のころ、卒業後の進路を見据えつつ、フミダスの学生スタッフとして活動しながら、熊本の老舗メディア「タウン情報クマモト」(通称タンクマ)でもアルバイトを始めた。タンクマは地元なら誰もが知る人気情報誌で、学生にとっては憧れの職場。取材や編集の補助など、誌面づくりの現場を間近で学べる日々は刺激に満ちていた。3年前期には必要な単位をほぼ取り終えていたこともあり、このままアルバイトからインターンへ、さらに就職につなげられたら――そんな青写真を描きながら、忙しくも充実した時間を過ごしていた。
しかし、一直線には進まないのが土屋さん。興味のなかった地域のことに、強く引き込まれるきっかけとなる“事件”が、思いがけず訪れることになる。
思い立ったら「やっちゃう」しか選択肢はない
ある日、同郷の親友と居酒屋で飲んでいた時のこと。たまたま隣の席から、五木村に建設予定の川辺川ダムに関する話が聞こえてきた。ちょうど建設の是非を巡って揺れていた時期であり、しかも自分たちのふるさとの話題だ。いやでも耳が傾く。
「その時の大人たちがたらたら語る愚痴を聞いていて、モヤモヤした気分になったんです。愚痴自体が許せないのではなく、その大人たちが誰かのせいに、何か物理的なもののせいに、自分たちでない何かのせいにしようとしていることが悲しくなって。その人たちは、何かアクションできる立場なのかもしれないのに、と思ったら悔しくて。それを一緒にいた親友に話すと、返ってきた言葉が衝撃的でした」
――「お前もそうじゃん」
靴に入った小石のようにチクチクと。その一言が頭の中でいつまでも残った。
誰かのせいにせずに、私ができることは何だろう。その思いが、頭から離れなくなっていた。ちょうどその時、バイト先のタンクマでは、就職試験の面接まで進んでいた。もう首を縦に振れば、おそらく決まる。しかし社長面接の場で、彼女は「正直」に言ってしまった。
「将来は五木村に帰って、五木村のことをどうにかしたいと思い始めてしまいました。でもタンクマで働きたい気持ちは本当です。どうしたらよいか、正直悩んでいます」
翌日、社長から呼び出された。
「今までタンクマで働きたいという人には何千人と会ってきたけど、五木に帰って五木をどうにかしたいと言った人には初めて会いました。迷っていることもすごく伝わりました。だから、不合格です。うちの会社の合格がなければ、迷わず進めるでしょう? これは前向きな不合格です」
その言葉が、土屋さんの背中を力強く押した。今も社長からもらった言葉を、心の底から感謝していると土屋さんは語る。さて、前向きな不合格通知を手にしたものの、モヤモヤを抱えたままの土屋さんは、フミダス代表・濱本伸司さんに相談してみた。そうすると、返ってきたのは極めてシンプルな答えだった。
「そんなに気になるんだったら、やっちゃえばいいんじゃない」
まずは「何をやるか」を探し、そして動く。それだけの話だろう、と。
「何をやったら五木村のためになるんだろうと考えてみたものの、ゼロイチのクリエイティブな発想が超苦手。だったら、その発想の最先端のものをパクリに行けばいいんじゃない、という答えに辿りついたんですよね」
その学びの場として頭に浮かんだのが、当時フミダスともつながりのあったNPO法人ETIC.だった。人材育成のプログラムでお世話になってはいたが、正直なところ、何をしている団体なのか深くは知らなかった。ただ「最先端がそこにある」という確信だけはあった。
決めたら、もう動くしかない。“やっちゃう”しかないと、心が決まった瞬間だった。
地域の名プレイヤーとの切磋琢磨した3年半
ETIC.に行く――そう勝手に決めた後に、ETIC.がそもそも新卒採用をしていないことが発覚した。だが、土屋さんは後に引けず、前へ進むしかない状況だった。
どうにか働かせてもらえないだろうか。
前例の少ない中でETIC.側が提示した新卒採用条件は二つ。「半年間インターンとして働くこと」と「すでに内定を1つ以上得ていること」だった。半年間のインターンはまだしも、内定はつい先日、自ら手放したばかりだった。
「フミダスの濱本さんにそのことを相談すると、あっさりとフミダスから内定をもらえました。それは、濱本さんからの『行ってこい』のメッセージです。そこからETIC.でのインターン生活がはじまりました。期間中の半年間はずっと東京でしたが、大学のゼミの先生は“卒論提出と卒業アルバム撮影に帰ってくること”を条件に送り出してくれたんです。本当に人に恵まれた人生で、人に支えられてどうにか生きています(笑)」
ETIC.のインターン時代は、地域コーディネーター養成講座の一環で、地域企業がインターン生を受け入れるために学生を集客する事務局を担当。学生向けの「地域ベンチャー留学プログラム」でマッチングイベントを開催し、参加した学生にヒアリングを行い、企業とつなげる役割を担った。折しも「地方創生」という言葉が注目され始めた時期。全国各地で地域企業と学生をつなぐ仕事は、まさに土屋さんが思い描いていた最先端の学びだった。
「インターンを終え、奇跡的に正社員として採用されました。社会人としての初出勤は高知県四万十町への出張先。そのときに車内で流れていた音楽まで覚えています。ETIC.は“チャレンジ・コミュニティ・プロジェクト(チャレコミ)”の事務局を担っており、地域の名プレイヤーと呼ばれる人たちと出会う機会が多くありました。今でも情報交換できる、大好きで尊敬する師匠たちです」
全国を飛び回りながら、「まちづくりとは」「地域活性化とは」「地元を愛するとは」――さまざまな視点で語られる哲学に触れた。各地の課題やコーディネーター業の難しさも肌で知り、意思を持ち、それを次の意思ある人へつなぐことの大切さを学んだ。上司たちは、五木村というフィールドで活きる経験を惜しみなく与えてくれた。
「とにかく、ETIC.が大好きで、先輩たちが大好きで、離れたくない気持ちがありました。でも、3年で辞めるというわがままを受け入れてもらった以上、決めたことは貫くしかない。五木村でこの経験を活かす。それだけです」
“カッケー”人たちのやりたいことを、借りて生きている
〈▲ 撮影:山口亜希子(Y/studio)〉
東京で最先端のノウハウを学び、2018年に帰郷。日添を立ち上げ、地域コーディネーターとして活動を開始した。最初に取りかかったのは、拠点となるカフェを開き、人が集まる場をつくることだった。村の人と運命共同体になる準備を整えつつ、村にある財産に目を向けた時に、改めて気付いたことがあったという。
都会では、お金があればたいていのものは手に入る。一方、五木村ではお金が潤沢にあったとしても、使う場面が少ない。都会なら一瞬で使える10万円も、村では一日で使い切るのは至難の業だ。お店も少なく、買えるモノの選択肢も限られている。だからこそ、欲しいものがあれば自分でつくるしかない。
「五木村の人たちは、欲しいものをつくることができる知恵やスキル、アレンジ力を持っているんです。大工仕事なんてお手のもの、趣味ではちみつをつくっているおじいちゃんもいれば、食べるものは大抵のものを自作する。それを無意識でやっていることが五木村の人たちのすごいところ。何かを生み出す人って、めちゃくちゃかっこいいじゃないですか」
取材中は少しかしこまって話をしていた土屋さんだが、ふだんは五木村の人のことを、彼女は「カッケー人たち」と表現する。その「カッケー人たち」を村の魅力として多くの人に知ってもらいたい。そんな思いから、五木村の産物を選びやすい形で売り出すために、サイズやデザインにこだわった商品も展開した。次に必要なのは、村の人からの「信頼」だった。
どうすれば信頼を得られるのか。模索する最中、2020年に新型コロナウイルスのパンデミックが襲う。外出制限の中、観光のかき入れ時であるゴールデンウイークに観光客が来ない。村の事業者にとっては死活問題だった。
どうにかしなきゃ、と打ち出したのが、『旅するおうち時間』というオンライン企画。
外出や旅行が制限される中、全国の“地域コーディネーター”仲間に声をかけ、旅ができない人へ地域の魅力を届ける方法を練った。たどり着いたのは、各地から“おうち時間を豊かにする商品”を日替わりで届けるプロジェクト。企画からウェブ制作、ローンチまでわずか5日間。話題を呼び、各地の事業者の売上にもつながった。これを機に、「日添はこういうことをしてくれる会社」という村人の理解が広がった。
村役場からの依頼も増え、産地直送便の企画などを通じて事業者との距離も縮まる。日添の「やれること」と村が求める「やりたいこと」が重なった瞬間だった。
「コーディネート業務は、人と人のマッチングだけでなく、仕組みや、企業とのマッチングなど、多岐に渡ります。何をマッチングすればよくなるのかを考えることなのです。例えば、ウェブをつくりたい事業者さんがいたら、プロジェクト付きのワーケーションを実施して、取材してライティングをするプロに滞在してもらったこともあります。ネットショップの売上強化のために、副業人材を募集してプロジェクトを立ち上げ、大手メーカーや通販会社のプロを集めたこともあります。実際このプロジェクトによって事業者さんの売り上げ向上につながりました。誰かのやりたいことをガソリンにして、私は動いているんですよね(笑)」
村内外に広がりを見せる共創人口
〈▲ 撮影:山口亜希子(Y/studio)〉
「今ですね、五木東京支部というサークルみたいな集まりができていて。五木村に関わったことがあるOBOGが集まる五木村ファンクラブみたいなものです。昨年はわざわざ五木村まできて、秋の祭りでブースを出店してくれました。村の特産品を材料にした商品まで考えてくれて。これって、まちづくり界隈でいわれる“関係人口”ですよね。私は、この関係人口のことを“共創人口”と考えているんです」
日添が運営する組織は、現在3つの法人と1つの任意団体。その新たな任意団体「五木村過疎未来研究会」では、この共創人口を増やしながら、村が抱える課題に挑んでいる。テーマは商業観光、産業林業、教育子育て、医療福祉、移住人材の5つ。村民、民間事業者、専門家が協働で課題を整理し、実行へつなげる。平たく言えば、村のことを村内外の人たちで知恵を持ち寄り、動かしていく場だ。
〈▲ 撮影:山口亜希子(Y/studio)〉
この活動には、大企業の人材も“越境研修”という形で参加している。企業側にとっては、自社事業とは別の地域プロジェクトに関わることで、多角的な視点を養う人材教育の一環。五木村にとっては、外からの知見と行動力を得られる。双方にとっての、いわばウィンウィンな関係だ。
「たとえば商業観光チームでは独自の五木村ツアーを企画して実施し、稼ぎのめどが立ってきたので、次はDMO(観光地域づくり法人)創設の話も出ています。教育子育て分野では、部活動の廃止や小中一貫教育の導入といった課題に対し、保護者の声を取りまとめています。中には研修後も自費で五木村に通ってくれる方もいて。本当にありがたい。共創人口が確実に広がっている手応えがあります」
〈▲ 撮影:山口亜希子(Y/studio)〉
土屋さんは「クリエイティブな発想は苦手」と繰り返し言う。しかしゼロから何かをつくる人、その熱意を注ぐ人への敬意こそが、自分を突き動かす原動力だという。大切な人たちがいるから、手は抜かない。そんな思いを自らに刻むように、活動時は日替わりで村の事業者のTシャツを制服代わりに着る。背中にあるのは、五木村の名前と誇りだ。
〈▲ 提供:土屋望生〉
自分が暇になる、それが大きなビジョン
日添を立ち上げてからこれまで、土屋さんは「稼ぎ」と「楽しみ」という目標は持っていても、大きなビジョンはあえて掲げなかった。
「振り返ってみると、日添を立ち上げた当時も、今も、自分には明確に描いている未来があるわけではないっぽい。7年前の私は、今こうやって会社や団体をこんなに立ち上げているとは間違いなく思ってないでしょうね(笑)。それは、思っていた未来とは違う世界。ビジョンを描きすぎると、それを村の人たちに押し付けたり、迷惑になってしまうこともある。そんなことはやりたくなかったし、私は何気ない、いい日常を、もっとよくしたいだけなんです。自販機の前でばったり会って、立ち話したり。車ですれ違う知り合いに手をふることだったり」
そう語る土屋さんは言葉どおり、村の人たちの“いい日常”をもっとよくするために、ふだんは自分が表立って、目立つことをしたがらない。それはビジョンをあえて掲げないことにも通じるが、自分に引っ張られて、村の人たちの“いい日常”を壊したくないという気持ちが大きいからなのだろう。
〈▲ 撮影:山口亜希子(Y/studio)〉
もちろん、五木村は多くの課題を抱えている。少子高齢化、医療や福祉の問題、過疎化、産業振興…。一朝一夕に解決できるようなものでもない。だが、土屋さんは言う。
「地域が抱える課題は、五木村に限ったことではなく、全国どこでもそうかもしれません。もし、不安とか、希望とか、そういうものが数えられるならば、希望の方が1個でも多ければいいと思う。不安を希望に変換することはできないけれど、希望を多くすることだったらできる。将来いつまで商売できるんだろう、という不安があれば、ここで商売が続けられそうだな、と思える希望を感じられるように行動する。だからこそ、新しいことをどんどん仕掛けていくことよりも、今できることを続けることが大事だと思っています。敢えてビジョンをつくるなら、自分が暇になること、かな。何もしなくても、希望の数が増えればいいな、と」
今、村にあるもの。今、村で動いていること。それを愚直に取り組んで、事業をまわしていくことが大事だと語る。その時、その時に、村の人のためになることを考えて、やわらかに役割を変化させてきた土屋さん。その中には、どう押しても引いても動くことのない芯がある覚悟が見える。
〈▲ 撮影:山口亜希子(Y/studio)〉